第1話 「救済条項は存在しない」
死ぬ瞬間、音が消えた。
耳鳴りだけが残って、視界が白く焼ける。コンクリートに叩きつけられたはずなのに痛みは遠く、代わりに胸の奥が冷たくなっていく。
――ああ、これで終わりか。
最後に見えたのは、横断歩道の先で泣きじゃくる子どもだった。助かったなら、それでいい。俺の人生は、たぶん最初から大した価値がなかった。
そう思った瞬間。
白の中に、黒い文字が浮かんだ。
【あなたの死亡を確認しました】
【移送先:秩序圏“灰の王都”】【役割:空席】
【魂の所有権:未登録】
意味がわからない。だが、読めてしまう。読むたびに胸がざわつき、まるで“同意”を取られている感覚がした。
次の瞬間、喉の奥に泥が流れ込んだ。
「――っ、げほっ……!」
俺は地面に転がっていた。土じゃない。冷たい石。鼻を刺すのは鉄の匂いと、腐肉の甘さ。空は灰色で、太陽があるのに光がない。
目の前に立ち並ぶのは、石造りの建物。煤で黒く染まり、窓には鉄格子。道には人がいる――いや、人に似たものも混じっている。顔の半分が焼け落ちた者、目がなく布で覆った者、異様に痩せた子ども。全員が、俺を“値踏み”する目で見ていた。
そして、いちばん近くにいる男が言った。
「新しいのが落ちたぞ。首、まだ繋がってる」
男の腰には短剣。胸元には金属の札――数字と紋章が刻まれている。奴隷の首輪を扱う役人か何かに見えた。
俺は起き上がろうとして、気づく。
首が重い。
指を伸ばすと、鉄の輪が触れた。喉元にぴったり張りつく冷たい金属。首輪だ。内側に細い棘が並び、呼吸に合わせて皮膚を撫でる。
ぞっとした。
「……は? ふざけんな、ここどこだ……!」
「どこ? ここは灰の王都だ。落ち人は例外なく“無主物”扱い。魂も肉もな」
男は笑った。乾いた笑い。人を人だと思っていない笑いだ。
「無主物……?」
「所有者がいないって意味だ。だから俺たち執行官が“登録”する。お前の魂を、な」
男が手を掲げると、指先に黒い光が灯った。紋章の形をした光が、蛇みたいに伸びて俺の首輪に触れる。
瞬間、首輪の棘が刺さった。
「ぐっ……!」
声が出ない。声帯が絞られる。痛みより、息が奪われる恐怖が先に来る。視界が暗くなりかけたとき、頭の中に文字が割り込んだ。
【魂登録:開始】
【登録先:執行官ギルド(灰の王都)】
【対価:自由】
【同意:未取得】
――“同意”?
この世界は、同意がないと契約できないのか?
なら、逆だ。
同意させれば、合法になる。
足元に、紙が落ちていた。汚れた羊皮紙の切れ端だ。誰かが捨てたもの。俺は反射で掴んだ。
掴んだ瞬間、紙の上に“書ける”感覚が湧いた。インクはないのに、指先が黒く滲む。まるで血の代わりに文字が流れるみたいに。
【固有権能:条文化】
【機能:言葉を“法”として定着させる(条件付き)】
【制限:対価の支払いを要する】
俺は理解した。理解してしまった。
ここはファンタジーでも救済でもない。
法がある。契約がある。だからこそ残酷だ。
執行官が首輪を締める。棘がさらに深く刺さる。呼吸が途切れる。
俺は、羊皮紙に指を走らせた。
『第一条 当事者は、相手方の“明示の同意”なき魂登録を行ってはならない』
瞬間、世界が“揺れた”。
空気の粒子が鳴った気がした。執行官の黒い光が、ぴしりと割れて消える。首輪の締め付けが一瞬だけ緩む。
執行官の目が見開かれた。
「……なにをした」
俺は息を吸い込み、喉の痛みに耐えて言った。
「法律……だ。お前が今やってるのは、“同意のない登録”。禁止した」
執行官は笑った。だが、笑いが引きつる。
「条文化……落ち人に? あり得ねぇ。条文は“法典持ち”しか――」
その言葉を遮るように、頭の中に冷たい通知が走る。
【条文化:成立】
【適用範囲:半径三歩】
【期限:1分】
【対価:記憶1件(任意ではない)】
「……は?」
次の瞬間、俺の脳内から何かが抜け落ちた。
母の声。
夕飯の匂い。
子どもの頃に好きだった歌。
それが「思い出せない」のではない。「存在しない」。最初からなかったみたいに、穴が空いた。
背筋が凍った。
この力は、支払いが“俺の中身”だ。
でも――息はできる。今は生きている。
執行官は舌打ちし、腰の短剣に手を伸ばした。
「条文化が本物でも関係ねぇ。登録できないなら、殺して“物資”にするだけだ」
周囲の視線が変わる。
飢えた目。
人肉を肉として見る目。
俺は羊皮紙を握り締めた。指先の黒い滲みが止まらない。書けば書くほど、俺は俺じゃなくなる。だが、書かなければここで終わる。
執行官が踏み込む。刃が閃く。
俺は二つ目の条文を書いた。
『第二条 当事者が刃を向けた場合、その刃は当事者自身の血を以て濡れる』
刃が俺の喉に届く寸前、執行官の手首が跳ねた。短剣が逆向きに弾かれる。皮膚が裂け、血が噴いた。
「ぐあっ……!!」
執行官が呻いた。周囲がどよめく。恐怖と興奮の混じったざわめきだ。
そして、また通知が来る。
【条文化:成立】
【適用範囲:半径三歩】
【期限:10秒】
【対価:寿命 30日】
俺は、笑ってしまった。
「……寿命かよ」
目の前で血を垂らす執行官が、憎しみの目で俺を見る。
「お前……法典持ちだな……! この王都で法典持ちは、みんな――」
言い終わる前に、遠くで鐘が鳴った。重い鐘の音。街全体が一瞬静まり返る。
執行官の顔色が変わる。
「――“徴収”だ。くそっ……!」
人々が一斉に動き出す。逃げる者、祈る者、地面に伏す者。意味がわからない俺だけが取り残される。
そして、石畳の亀裂から、黒い霧が溢れ出した。
霧は形を取り、人の輪郭になった。
いや、人ではない。
鎧を着た“何か”。首がなく、胸の内側に青白い光が揺れている。
それが、無感情な声で告げた。
「――未納者を回収する」
執行官が震えながら言った。
「やめろ、俺はギルドの……!」
「納税証明、無効」
次の瞬間、執行官の体が“引き剥がされた”。肉体から何かが引きずり出される。魂だ。青白い光になって霧へ吸い込まれ、男は空っぽの皮袋みたいに崩れた。
吐き気が込み上げる。
周囲の誰も助けない。助けられないのではない。助けない。
日常なんだ、これは。
青白い光のない鎧が、こちらを向いた。
「未登録。未納。回収対象」
俺の首輪が熱を持つ。棘が蠢き、喉を締めようとする。
逃げられない。
書くしかない。
俺は羊皮紙に指を当てた。震える指で、三つ目の条文を書き始める。
『第三条 ――』
その瞬間、頭の中に女の声が落ちてきた。
「書くな。まだ払える対価を知らないだろ」
振り向くと、黒いフードの女が立っていた。顔は見えない。だが、指先だけが白い。白すぎる。死人みたいに。
女は俺の羊皮紙を見て、低く笑った。
「……久しぶりだ。条文化の匂い」
鎧が一歩踏み出す。
女が囁く。
「生きたければ、条文じゃなく“但し書き”を使え。抜け道は、そこにある」
俺の視界の隅で、また通知が点滅した。
【警告:対価の不足】
【次の条文化の対価候補:感情/記憶群/肉体機能】
――感情。
俺は、自分が今、恐怖しているのかどうかさえ曖昧になっていることに気づいた。
鎧が、俺の目の前まで来た。
そして、無機質に宣告した。
「回収」
(つづく)




