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“Effects of selfishness/利己主義の影響”(Another story of Civil war)  作者: 河崎浩


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12/13

利己主義の影響(12)

(インテリジェンス)

(ロシアの終焉)

(沖縄の在日米軍)

(指導力を問う世界)

(インテリジェンス)

刈谷のアパートは、武蔵野市の(吉祥寺)中心(メイン)(ターミナル)からバスで一本の場所に位置していた.

徒歩で向かうのは、一般人には少々しんどかったかもしれないが、自衛官でもある独身の刈谷にとっては、気にならない距離であり、此れだけ離れれば、十分な広さと素晴らしい武蔵野の環境が確保でき、駐車場も付帯している事が、このアパートの選択の理由でもあった。

此処ならば、職場にも乗り換えの必要がある場合もあるが、JR一本で、遅くとも朝ならば、ドアー・トゥ・ドアーで、30分以内で行けた事も、選択理由の一つであった。

そして何より、独身の刈谷を喜ばせたのは、周辺環境が良い事と、徒歩圏内に、焼き鳥屋を中心とした、独身男でもある彼の好物の“外食店”が少なくは、ない事でもあった。

今朝は、そんな彼の寝台(ベット)には、パク・ジハが安心しきった体で、寝込んていた。

彼女は、いや彼女のトラップに、刈谷は、まんまと引っかかっていた。

と、彼女は自覚していたが、刈谷は自らの意思で飛び込んだ。と考えていた。

彼女は、年齢相応に美しいだけではなく、彼の胃袋を完璧に抑えることに“成功”していたと確信していた。

それ位、彼女の台所仕事は”完璧”であった。

そもそも最初の来日目的が、此処ではなく“合羽橋道具街”と言う事で、そのアテンドを依頼された成れの果ての一端が、今朝の為体(ていたらく)でもあった。

僅か半月前のソウル滞在、イー情報室長の引き連れてきた彼の部下の一人が、パク・ジハ(朴芝河)であった。

明洞の居酒屋で朴は、目立たなかったが(積極的に刈谷にアプローチは、してこなかった)が、其処に出される『料理の説明』を微に入り細に入り(食材や調理方法)をもっぱら英語で刈谷にしてくれていたのが、朴であった。

「イーさん。流石に韓国の若者は、皆アルコールが強いですね!」

この頃(ある程度酔って来ると)になると、刈谷も日本語でイーに話しかけていた。

其処には朴ではなく、日本語が堪能な、韓国(国情院)の若者が居て、専ら彼等が、刈谷の通訳をしていたからだったが、彼等を通しお互いの心根を理解し合える時間が出来ていた。

朴は、彼等の紹介でもあったが、既に、何回も日本を訪れた経験の“ある”彼等の説明によると、日本の料理道具を専門に扱う合羽橋に、彼女は非常に興味を持っていた。

しかし彼女は英語(とフランス語)と韓国語以外は、話せなかった。

そして決定的に他の若者(女性)と異なったのは、最初、彼女は、刈谷に男性としての興味(アプローチ)は、示して来なかった事であった。少なくとも刈谷には、そう感じられた。

彼等の説明によると、彼女の此処での仕事は、一時の事であり、ゆくゆくは郷里、ソウルから南へ車で1時間程度の処にある江陵カンヌンと言う海辺の町だそうだ、そこで、姉妹と共に、親の残したフレンチのレストランを引き継ぎたいという希望があるそうだ。

そう彼女の親は、なんと!パリのレストランで修業時代に知り合ったそうでもあった。

姉は、親の(つて)で、今パリで修業中、妹もシンガポールの高級ホテルで修業をしていたが、学業が優秀だった彼女だけ、姉妹とは毛色の違う大学へ進学した。

「だから、彼女だけが、他のメンバーに比べ、どこかバタ臭い雰囲気をまとっていたのか」

刈谷は納得した。参加していた国情院の若手や、イーも、カンヌン(江陵)を説明する際『東海トンへ』西岸と言う表現を使わず『日本海側の韓半島西岸』と言う表現を刈谷にはした。

この辺の配慮や感覚に関して、刈谷は、容赦なく逆質問と言う形で、一般的な韓国民の嫌がる表現を“わざと”使用して、身上調査を繰り返していた。

彼は、精神的に『酔わない体質』だが、イーを始めかなりのメンバーは、心底、酔っ払って『気を許し始めていた』調査には、良い『頃合』と刈谷は感じていた。

朴もその様な調査対象の一人であったが、彼女以外に、ここに集まる若者の言葉。

「我国民の持つ『小華夷思想』を押し通すことは非現実的!だ。し、国際的な共感は得られない」

と言うセリフに、彼女も深く同意の意思を示した姿を見て、刈谷は

「この子も彼等も、まともな国際感覚を持っている。かもしれない」

と値踏みはしていた。

「ジハさん、君、金芝河という韓国の詩人を知っている?」

これが、彼女と話すきっかけだった。

徐々に、この宴会(飲み会)は、徐々に外国語(最終的に英語)と韓国語が、ごちゃ混ぜになって行った。

イーの通訳を務めていた2人の若者も何時の間にか韓国語で話しをし、それをスポンサーであり、最長老とは言え、刈谷と、そう歳は、変わらない事が、後で分かったのだが、イーが、英語で説明し、刈谷は、それに対し英語で答えをすると云う為体(ていたらく)に変わって行った。

しかしそのような雰囲気も、刈谷は決して嫌いではなかった。

完璧に、その場を見た第三者が居れば、これは単なる若い男女が上司の奢りで飲み食いを楽しむ、通常の週末の宴会の様に見えた。に違いはなかった。

韓国式のハニートラップの通常手法として、まずオブジェクトの横に座り、胸や体の一部を押し付けてくると言う方法があり、その反応をその場のボスであるイーが観察し、弾頭を選定し、選定された弾頭は以降、訓練メニューに沿って、オブジェクトにアタックをする。と言う方法に関し、刈谷は熟知していたので、日本語が比較的堪能では“ない”が、英語やフランス語が堪能な、朴が、結果的に刈谷との、諸々(仕事以外の)会話時間が、長かった。と言う理由で『選らばれた』に過ぎなかった。(と刈谷は感じた)

そして韓国側も、そうだろうが、我々も彼女を通じて情報のやり取りをする、それが“楽”だと考えた。

2次会3次会と、彼女は、当初の無関心な態度とは異なり、刈谷の傍を離れず、結局、彼の投宿する宿で一夜を共にする事になった。と言うのが始まりであった。

彼は、さっそく、彼女の前では、何も包み隠す必要は“ない”と言う体で、書類カバンをデスクの上に無造作に放り出し、先にシャワーを浴びていた。

その間、彼女が、何をするか?は十分想像できたので、ゆっくりと湯船の準備もし、外の音は、全く聞こえない位、室内に雑音をため、ゆっくりと酔いを醒ましていた。

しかし、彼の想像を外し、その様な湯船に、彼女も入ってきた。此の彼女の行為は、刈谷の想定外であった。

「まぁジハちゃんも、私(の人となり)を試したいのだろう?」

位の軽い気持ちで刈谷は居た。

しかし朴にとって、このオブジェクトは、自身の属する機関の上長より、かなり高位な存在である。と言う情報が、確実に頭にインプットされてはいた。

故に、彼女も頭をハッキリさえておく必要性は感じていた“だけ”であった。

翌朝、彼女のアパートに刈谷は誘われ、彼女の手料理をふるまわれた。

「土曜日のフライトにしておいて良かった」

と彼は、感じつつ、帰国便を日曜夕方の便に変えた。

勿論、彼女の部屋には、彼の持つカバンの中身以上に、何も得るべき情報はなかったし、そのような事は、百も承知の上で、刈谷は、新しく出来た此の韓国人の友人のもてなしを堪能した。

彼等は、番号の交換(韓国ではポピュラーな、カカオトークやラインと言ったSNSを刈谷は、立場上持っていなかった)し、今後、彼女とのコンタクトは、この番号経由のショートメール(英文)になった。

それを通し、刈谷は朴に、韓国の通常報道では得る事が、絶対出来ない日本側の考え方や見方を、教えていた。

勿論これが、日本側の意図する情報である事は、NIS/韓国国情院も承知の上だったろうが、情を通じた女に対し、日本の男は“ここまで情報を流す”と云う、先例を作り、彼女を通じて情報のやり取りをする、それが“楽”だと云う、感覚をNISの連中に持ってもらう事が、刈谷の今回の目的でもあった。

こうして大統領と総理の関係性は、この外堀からの情報でも、深まって欲しい。

れが山田等日本の首脳部の意図でもあった。


(ロシアの終焉)

韓国大統領の説得の成果、宗書記長による、対ロシアへ、あらゆる物資に対し禁輸措置が発表された結果、ロシア産の原油は、暫しの間インドが独占する事と成った。

只、結果、決済に関しては、もはや、ドルとのリンクを自ら止めた、人民元すら使えず、全て決済通貨が、インド・ルピー建てになっていた。

しかし、インド・ルピーも、残念ながら、円や、ユーロ、ポンドやスイスフランの持つ国際決済通貨としての信用度は、低く、市場規模からいえば、ドルには遠く及ばず、人民元の足元にも及ばない程度の流通量しかなかった。

要は、ルピーは、国際決済通貨とは、全く足り得なかったので、元々国際競争力があった資源価格の暴落した環境下で、自国単独では生産できない、精密工業用の原材料や工作機械(の部品)不足が、いよいよ深刻になって行き、対ウクライナ戦争の再開・継続は客観的に無理な状況になっていた。

勿論、ルピーの価値は、この期間も継続して大幅に下落し、インドの輸出産業は大きく上向いて(潤って)いた。

が、インド自体、武器になる様な。ロシアが『欲する産物』の輸出は『厳に』慎んでいた。

今やロシアの使う武器やその原材料の輸入調達先は、北朝鮮と一部粗悪なパキスタン製だけだった。

国民を飢えさせは“しなかった”が、ロシア国内の、富裕層や一部首脳部が、希求して来た、西側の金持ちや、中東の石油王の様に『豊か(贅沢)に暮らす』事は、国内に拠点を構える主に武器生産関係の成金ロシア人(特にマフィア系の強面を売りとする人種)は、急激に、全く出来なくなった。

或る程度、外貨(貯え)や、西側にとって有益な知識のある人間は、既に、二〇年頃から国外に居を構え、ロシア本国には、何も残さない様にしていた。

又、政敵や、首脳部のコントロールが効かない富裕層は、既に暗殺され、その存在を国民の前から消していた。

しかし、この、最大の友好国と思っていた、国が、離反する事は、完璧に想定外であった。

この絶対の同盟国と思っていて、価値観もシェアーしていたと看ていた“大国の離反”が『公』になると、国民、特に、徴兵年齢に達する人口の厭戦気分は、ピークに達し、ろくな武器も、防護措置も与えられない。

為に、敵前逃亡をする(ロシア)兵の数は、極東部から徴兵された、昔は突厥とか韃靼と呼ばれていた、共産主義の残滓が残る世俗主義者や、回教(イスラム)系や、西蔵(チベット)仏教系の非スラブ系ロシア国民は、当然として、徴兵されていた、スラブ系ロシア人の若者の間でも顕在化、常態化していた。

今やロシア軍の主体や指揮官クラスは、残った唯一の同盟国でもあり、この戦争で経験値を増した北朝鮮や、アフリカから急遽召喚されていた旧ソ連構成国のスラブ系ロシア右翼や、それらが経営する“民間軍事会社”の人々で構成された傭兵に依存している有様であった。

此の東の元同盟国の決断の結果を受け、NATO主力軍が、ウクライナ防衛に積極参画し始め、ウクライナの局所戦闘では、ロシア軍は、全く『歯が立たなくなって来ている』事態を憂慮し、事態打開、一発逆転の為に、戦術核兵器の使用をクレムリンは、真剣に考えざるを得ない、その様な処迄、首脳部は追いつめられていた。

しかし、それは、ロシアという国の消滅を意味すると、一部の高官は解っていた。

結果、クレムリンの一部により、この企みは、阻止され、悲しいかな、核を使用しようと考えた、旧首脳は、無残な姿を国民の前に晒す事と成った。

挿絵(By みてみん)

既に、若干数だけ残留していた在欧米軍以外の“独仏ポーランド軍を主体とするNATO軍の主体”は、ウクライナに進駐し駐留しており、ウクライナ領内北東部のロシア人が占拠していた四州ドンバスは、ウクライナ人の手に戻っていた。

黒海南岸から出港したトルコ海軍を主体とするNATO軍は、ロシアに不法占拠されていた、セバストポリ軍港に進駐し、南下して来たウクライナ軍の主力と共にクリミア半島全域をウクライナの下へと開放した。

ウクライナ軍の手により、ロシア軍により不法に占拠されていた、あらゆる地域に残る、全ての『自身をロシア人』と認識している、ロシアパスポートしか持たず、ロシア語しか話せない人々が、既に広く各国へ公開されているあらゆるメディアを通して、平和的かつ人道的に、しかし、しっかり確実に、この地域から駆除されて行った。

逃亡していた、中央アジア系の元ロシア兵は、全てモンゴルを窓口としたIPTO軍により、名目上は『捕虜』ではあったが、兵役義務を課せられていた時以上の“好待遇”と安全が保障された中で、IPTOが占拠(安全を確保)した、元々の居住地へ武装解除された状態で戻って行った。

ロシア政府は、此処に、ウクライナ、NATO及び、IPTOを含むアジア諸国の発信した降伏文書に対し、無条件で全面受諾をせざるを得なくなっていた。

最終的に、スラブ系ロシア人の住居地(ロシアという国家)をナルバ川以東からウラル山脈以西の間、元々のスラブ系ロシア人の居住地域に押し込める事が、NATO及びIPTO(インド太平洋条約機構)と一部人民解放軍による戦後処理の話し合いの中で決まった。

彼等は、ウクライナ軍が主体となり、問答無用で、その地区へ、押し込められる事と成った。

又、スラブ系ロシア人により旧ソビエト連邦建国以降、今迄ロシア連邦に無理矢理組み込まれていた、昔、匈奴、韃靼、突厥と呼ばれていて、現在は、チュルクとか、ツングース系と呼ばれている、アジア系の種族が“首長”としているウラル山脈以東の国家群の領内に住む、ロシア系や、自身を未だロシア人と自認する人々(スラブ系ロシア人)をエカテリンブルグに進駐していたNATOのトルコ軍とIPTOの主体が、責任を持って、全世界にその手順が公開される形でスラブ系ロシア人が『住むべき土地(ウラル山脈以西)』へ、移動させていった。

警察以外は、トルコとモンゴル軍及び、カザフ軍の手で、それらの地域は、一旦“完全に非武装化”された上で、匈奴、韃靼、突厥系の“本来其処に居た民族”の手に依る警察が治安の保持に当たる事で、アジア系の新国家として、ロシア連邦からの分離独立が、担保される事と成った。

トルコ軍やIPTOは『駆除作戦』とは言え、昔、民族浄化と言う、スラブ系のボスニア紛争で引き起こされた時と同じ、スラブ人の犯した暴力行為=過ちは繰り返さなかった。

民族浄化により、女性や弱者へ降り注がれた行為を『世界』の特に、この地方の人々の脳裏には、未だ強く焼き付いている事を、彼等は十分理解していた。

従って、同じ過ちを繰り返さぬ様に『十分に配慮しつつ』徹底的、且つ完璧に自身を未だロシア人と自認する人々やロシア語しか話せないスラブ系ロシア人をその地域から、追い立てる算段を講じ、民族国家や宗教国家として、これらの地域が、独立する事は拒んだ。

ロシア語しか話せないスラブ系ロシア人に、より良い賃金が提供できる職場(但し其処は、中央アジアではなく、スラブ人本来の土地)を生み(創り)出し、紹介したのであった。

これはドイツや日本の首相の強い指導が効いていた。と後から報じられた。

核を含むロシアの全軍備の破棄・解体は、ベラルーシ軍、沿エストニア呼ばれたトランスニストリア地域の、スラブ系ロシア人。及び自身をロシア人と自認する、元中央アジアと呼ばれた地域から集められたの人の為に、新たに作り出された産業となり、その仕事を宛がう事で、完全駆除作戦とした。

ポーランドと、カナダ、そしてバルト三国の手に、よって、粛々と、且つ、平和的に、しかし徹底的に『後顧の憂いを残さぬ様に』完膚無き迄に、その作業は、監視管理された。

北極海地域に隠されていた戦略核軍備も、スラブ系ロシア人の手により、北欧三国と、英仏が管理監視主体となり、徹底的、且つ容赦なく破壊の上、廃棄が全世界に公開される形で進められた。

この戦争責任に関する国際法廷は、旧スターリングラードと呼ばれた、サンクトペテルブルグのコトリン島に在る海の大聖堂と呼ばれた場所に設えられた。

議事は、全て英語で、過去の国際軍事裁判の例に漏れず、表面的な公正を期す為に、判事は、主にアジアから複数が選ばれ、弁護人は、南アフリカから。

但し、犯罪を起訴する側の検事役は、この戦争の最大の被害者であるウクライナが、担当する事と、成った。

戦争責任を問われた旧首脳は、無残な姿を、テレビ画面の前で、全国民に晒す事と成った。

この模様は、BBC等の国際放送やSNSを通して、アメリカを含む、全世界に同時生中継で公開された。

その間も、北欧三か国と、英仏の管理監視の下、弾道ミサイルと、その搭載核兵器の『無力化』が、旧ロシア北方艦隊の基地が有った、今やフィンランドが管理する、バレンツ海側ムルマンスク州のセヴェロモルスクで粛々と進められていった。

戦後処理の全体計画を練っていた、EUと中央アジア諸国及びASEANは、広大な、ロシア連邦の分割に、着手し始めていた。

その間の、新国連との調整は、この作戦の作成者である韓国及び、オランダとベルギー(ルクセンブルグ)が当たり、宗教(ロシア正教)の戦後処理に関しては、イタリア(バチカン)とサウジアラビア出身の(スンニ派)ワッハーブ系が推薦したカリフが、トルコの承認の下、オブザーバーとして対応せざるを得なかった。

バルト海の旧ロシアの飛びカリーニングラードは、ドイツではなく、デンマークとポーランドが管理し、この地区に残る全てのロシア軍の完全な武装解除が、両国の手によって、完璧且つ徹底的に進められていった。

只、此処に住む、スラブ系ロシア住民の駆除は、未だ始まっていなかったが、近々、ロシアが16世紀以降占拠していた地域に住む、ロシア系住民と、同じ運命を辿るだろう事を彼等は、予想していた。

オホーツク海とベーリング海に潜む、戦略・戦術原潜は、樺太に新たな基地を建設した、日本の海上自衛隊が主体となって、焙り出された。

此れ等の主力艦は、海上自衛隊が専有する、樺太の旧ロシア軍港に常在している、隣国と、韓国海軍の手により、集積(管理)され、シベリア海経由(北極経由)で、バレンツ海に在る旧ロシア海軍基地へ曳航乃至は自走で、集積された。

搭載されていたSLBM及び、核燃料と、戦闘艦の推進力として使われていた原子力機関は、やはり、樺太の基地に常在している、主に、フランスとスペイン・ポルトガルの指揮の下で、専ら粛々と、世界に広く公開された状態で、処分(無害化・無力化)されて行き、最終処理は、NATOの管理する、北極海の旧ロシア海軍基地で有ったセヴェロモルスクで無害化・無力化処理が実施されて行った。

ロシア軍の技術者を中心として、旧ロシア軍人は、この軍装備の無力化と破棄作業に従事させられていたので、彼等は、軍籍を離れても、仕事にあぶれる事は、無かった。

又、この作業に、具体的に従事する労働者も中央アジアからのスラブ系ロシア人で充足させていた。

この資金拠出は、イスラエル(の処分法)を意識した中東各国が、応分に負担した。

故に彼等(スラブ系ロシア人)は、居住地(領土)こそ三分の一と狭くなったが、年金生活者も含め、以前より豊かな生活が送れる様になった。

そう西側の生活(ブランド)製品は、直ぐに、フィンランド経由で、此の極寒の辺境に潤沢に、舞い戻っていた。

極東ロシアと呼ばれる地域に関して、国連総会で話し合われ、当初案通り、ロシアとしての領土は、旧ロシア帝国主義時代に武力や威圧で占拠した領土は、全て元に戻された。

結果、一六世紀以前のロシア領のみとし、沿海州及び樺太千島は、元々の専有権を有していた国家、要は日本と隣国(新唐)へ平和裏に返還された。

只、此の地を離れ難いロシア人に関しては、ロシア国籍を離れ、『ロシア人である事を止める事』即ち、何れか(日本か隣国/新唐)の国(籍)の人間になる事が、求められた。

要は、主に隣国や蒙古、匈奴、韃靼、突厥系が新たに起こした国家に返却された土地に、未だ固執するスラブ系の人々は、言葉と名前、そして、宗教、スラブ系ロシア人としてのアイデンティティー全てに関し、、匈奴、韃靼、突厥系及び蒙古や隣国(新唐)系が、徹底して完璧に彼等から奪う事を『認めるか、否か?』という決断を彼等に迫った。

これは、一種の迫害(非人道的な行為)のようにも思われたが、それだけ、この地域の元々の民族の、スラブ系に対する怒りが、小さくは無かった事の証左でもある。とも受け止められた。

一世代間(六〇年)以上の、原則、その場所に住むスラブ系の一切の既得権益の放棄も、同時に求められた。

結果、48万人足らずの域内人口の内、行政職員として待遇と所得が、日本政府より保障(以前より待遇が確実に上がる)される、千島海域の環境とオホーツク海沿岸の漁業監視担当のロシア人(とその家族)以外。

特に沿海州域や旧シベリア地域に住むスラブ系は、場所は解らなかったが、その殆どが、ロシア人にとっての元々の領土である、ナルバ川以東からウラル山脈以西の間に戻る選択をする結果となった。

千島列島と樺太では、僅かに、残留を希望するロシア系住民及び、彼等と、彼等の家族とアイヌ系の住民には、手厚い日本語と日本、及び、アイヌの習慣に関する教育プログラムが、日本政府の手によって用意され、それは韓国や隣国(新唐)により承認されていた。

ただ、其処にも、ロシア文化やロシア語は、食文化を含め一切介在させない事が、徹底されていた。

樺太に若干数残っていた朝鮮系の住民に関しては、韓国政府の手厚い保護政策の下、韓国への帰還か、在日韓国人と、全く同等の保障措置が日本政府により執られていた。

しかし沿海州地域に残るロシア系住民の場合は、域内の居住人口が、千島列島と樺太に比べ、格段に多かった。

結果、隣国が、従来から採るシンプル(見方によっては非人道的)な策。要は、苛斂で、およそ従来、隣国が、西蔵(ちべっと)や新疆ウイグル地区の人間に対していた教育と同じように、残留を希望した人間には、都市機能維持の為に必要な現業職員(但し、彼等も、一切のロシア語の使用や、ロシア風の習慣を禁じられていた)を除き、老若男女を問わず、問答無用で、先ずは『施設』と言う名称の『強制収容所』に送り込まれ、言語と習慣を奪われ、改造教育という名の、同化政策が執られた。

しかし、この件に関して、EUは、西蔵や新疆の様な問題として、採り上げなかった(問題視しなかった)。

其れは、スラブ系ロシア人が、徹底して元々の原住民の遺跡や、生活の痕跡を破壊していた事実、無意識とは言え、高圧的武力で植民していたスラブ系ロシア人に採って、都合良く歴史的な事実が改竄され、その様な『嘘』を歴史的事実として、そこに住む人間が教え込まれていた事が、満州系だけではなく東アジアのメディアなど複数の(ソース)で、白日の下に晒され世界中が、スラブ系ロシア人の執った非人間的政策の実態を知った事が大きかった。

日本と隣国(新唐)は、この対ロシア系住民対策で共同歩調を取る為に、話し合いの機会をより一層多く持つ事となった。(千島・樺太には、平和維持目的以外の隣国の軍も、自衛隊も、この後、駐留はしない、しかも、それを相互監視するシステム構築協定が、まず、第一段階として締結された)

こうしてロシアは、超大国としての地位を完璧に失い、欧州の北方に位置する“非武装の一辺境国”と云う立場で、完全去勢された。

ロシア産と今迄呼ばれていた燃料資源は、一部EUが管理したが、その殆どが、国連管理と成り、国連は自前の財源を持てるようになったが、一方で地球環境の正常化に関し責任を負う『自由』故の『責任』は、大きくなった。

要は、新国連管理地域に在る自然資源の安易な再開発や輸出が完璧に制御規制された。

武装解除された、結果。原子力を動力とする旧ロシア軍の元武装艦艇の動力源は、この地域(新国連)の新たなる動力源として再利用され、かつてロシア産と言われた、あらゆる化石燃料の需要は、地球環境の正常化という大命題の下、急速に、開発、採掘が縮んで行った。

地球温暖化による、この地域(シベリア)発の、新たなる過去の病原体の発生を抑える事は、周辺国だけでなく新国連(及び新WHO)にとっては、非常にプライオリティの高い責務でもあった。

しかし、この新国連が自立し、確立した環境は、国連加盟のアフリカや中南米、島嶼部の小国出身の国連職員(行政職員)を確実に、国に戻ってから、新たな、地球環境を俯瞰して看る目を持つ『リーダー』として、育成させていった。


(沖縄の在日米軍)

米国内の内戦は、彼等が手に出来る武器の性能に比例して、悲惨な状況に在った。

元々国内(主に沖縄)に多く配備されていた陸上兵器としては、戦車や装甲車、武装ヘリコプターそれらに最適化された攻撃的搭載兵器等、陸・空・海兵隊向けの装備は、当時としては世界最新の物であった。

故に、戦場で一旦活用されると、忖度は無く、その猛威は凄まじい(悲惨で凄惨な)結果を産んでいた。

国内に備蓄されていた世界最新の武器が、内戦の現場(戦場)で活用された結果の極一部は、日本のヒューミントの手で世界中に映像として拡散された。

従って、海外に派兵していた陸・空・海軍や海兵隊の兵器全般に関しては、その駐留先、特に、日本と韓国、及びサウジアラビアと、NATO 軍の手で押さえられいた。

それ等の武器弾薬が、本国に還流すると、何れの組織も継戦能力と攻撃力が、劇的に向上し、結果、その凄惨さに輪が掛かるとみられた。

従って、重量のある高性能兵器や、その弾薬に関しては、それらが配備されている国や地域によって、本国への還流は、物理的・費用負担を主たる理由にして、徹底的、且つ完璧に拒まれ、自国(旧米国)民に対し使用される事は無かったが、内戦の戦闘内容が、悲惨さを増すにつれ、海外基地に移管(保管)されていた、各部隊の攻撃的武器に対する返却の要求(所有権の主張)が、各陣営。特に『オリジナルと呼ばれた陣営』から強く、この3ヶ国とNATOに対し求められていた。

その様な環境下、域内の基地の数や、補給廠を多く抱えていて、陸軍の装備にプラスして、海軍の装備を比較的『自由』に使える。其の上テキサスやサンディエゴと云う、海外との窓口を有するハイテク部品や、武器や、その資材の補給を自給自足(生産)できる工場を持つ『西部連合』は、他の諸州(特にオリジナル)に比して優位に、戦いを進める事が、出来た。結果、テキサス北東部州境は、故に、最も悲惨な最前線でもあった。

此の最前線での、ハイテク部品や武器を生産、輸入できる工場。港湾地帯への侵攻作戦(取り合い)は、内戦開始から一年を経る頃から凄惨さを極め始めていた。

詳細なテキサス北部における戦闘情報は、イアン(山本の義兄)を通して、刈谷は、詳細に把握しており、彼経由の情報として広く日本と世界のマスコミに、その凄惨な状況が、アメリカ国内(該当地域)を除く、何処よりも早く詳しくリーク(報道)されていた。

刈谷とイアンは、山本の結婚式で既に知己を得ていたし、山本から、彼が、日本側の窓口になる事は、知らされていたのでイアンの発信する情報は、徐々に山本を経由せず、且つイアンの恣意的な編集やコメントも無く日本側に届き、その内容も微に入り細に入り細かかった。

西部連合は、ワシントンに於ける、彼等の精神的支柱であり、アメリカの精神的シンボルもあるリンカーンメモリアルが、オリジナルの手によって、たまたま(と彼等は主張した)破壊された事実で、オリジナルに対して容赦(手加減)を加えなくなって行った。

テキサス州北方の州境は、正に最前線であり、其処に住む、オリジナル系の白人に対しては、先住民(ネイティブ)や、カラードと呼ばれたアジア系やネイティブそして、ヒスパニック系で構成されたテキサス正規軍(西部連合軍)により、先ずは、過去の意趣返しという観点からも徹底的、且つ、容赦無く、所謂、オリジナルの考えを信奉する、主に白人に対して無慈悲な攻撃を加えていた。

要は、この戦いに於いて、先進的な、AI等、人間(兵士の良心の呵責を問わない)が、関与しなくて済む、TVゲームの様な、テキサス産の最新兵器が、西部連合正規軍により多用された。

元々が農村や牧草地帯であり、平坦な土地が続いていたので、陸上兵器しか装備していないオリジナル軍は、海軍や海兵隊の航空戦力も加算出来た西部連合にとって上空を含めた立体的で、現代的な攻撃の前に、情報が遮断されている事実も相まって、徐々に都市部に押し込められ、カンサス、セントルイス、ナッシュビルと言った、オリジナルに執って最西端(最前線)に在る主要な大都市は、テキサス正規軍により、陥落寸前の状態であった。

此処に残る白人にとって、この戦闘環境に長く身を置いた西部連合正規軍や、テキサス正規軍の兵員に味方する(少しでもシンパシーを感じる)人間は、人種に関わらず、今や、彼等は『同じ』アメリカ人では、無く、単なる敵となっていた。

しかも、同じ言葉を話すアメリカ人故、この悲惨な戦いの内情は、イアンの発信する情報以上に、SNSを通して全米各地に詳細に拡散されていた。

残念だったのは、その悲惨な内容に対して、中東系の人種は、基より、欧州を中心とした、キリスト教系の人々からも、国際的な同情が、ほぼ全く湧き起らなかった事であった。

ロシア処分や、地球環境対策に専従している、彼等にとっては、アメリカの内戦を気にしている心の余裕は、当時、既に無くなっていた。

パレスチナの惨劇の前で無関心だった人々の惨状に関しては、全アフリカ大陸の人間には、自らの生活を豊かに、より人間的する事の方が、ずっとプライオリティは上であった。

しかも、オリジナルや元々の合衆国は、中東のイスラム教徒にとっては『獅子身中の虫』でもあった、イスラエル(ユダヤ人)の下支えをする存在に過ぎなかったので、彼等の去就に関しては否定的でこそあれ、生存権に関しては、全く考慮の対象外でもあった。

只、中東やアフリカの一部は『多様性』と言う、世俗主義。

新国連が掲げる『お題目』に対しても『無神経』且つ『無関心』ではあった。

西部連合の正規軍の前線には、居ないし、実情等気にはしていない、西部連合の首脳部が、西部連合前線主力の戦闘内容を許容し、発し、断じた命令は、前線で戦う正規軍の行動にフリーハンドを与え、西部連合諸州の世論も、気にするのは戦果のみで、それを許容していた。

これが、この土地の、白人層オリジナルの誤算であった。

しかし、イアン経由で伝播され、西部連合地域の市井の市民が気に留める事のない、この悲惨な動画を見た、沖縄の海兵隊の白人兵の『かなり』の数が、この戦いに身を置く事を決意した。

それは、沖縄県知事や、海兵隊の司令官、マンスフリー駐日大使にとっては、意外な反応でもあった。

日本政府及び在日米軍司令部は、持ち出せる武器は、基本携行可能なモノのみに限定し、第一陣は、沖縄に、韓国の平沢から飛来し横田経由のオリジナルか西部連合かは分からなかったが、空軍が用意した、C17が3機と、C130が5機で、飛び出して行った。

本作戦で韓国内の米陸軍と沖縄に駐留する海兵隊員の半数の人員(かなりの独身白人兵)が消える事と成った。

横須賀と佐世保に係留中の艦隊の内で、パナマの了解(運河の通行料を支払う事が出来た、オリジナルと北部連合が手配した)を得た、三機の乗員輸送用大型ヘリコプターと、武装解除されたLCACに搭載された各三台の計九台の5tトラックを搭載した、全ての艦載機を降ろした、最も乗船可能人員の大きな揚陸艦(原子力空母ではない)に、オリジナルと北部連合が、日本政府に代金を支払った、片道分の燃料と食糧を満載し、それに乗り本国への移送が為された。

日米安保条約が雲散霧消した後、何れの旧米国政府に対しても、日本政府は、人権保護目的以外の予算措置を講じる事は、無かった。

此の揚陸艦には、西部連合域外に帰国を希望する、全ての米海軍兵とその家族、沖縄駐留(嘉手納)の空軍兵とその家族が、乗艦した。北部連合指定の港湾施設経由でオリジナルの専有する海軍基地へと向かう事となった。

此の三隻の揚陸艦が後の、ノーフォーク海軍基地の壊滅への引き金(目印)となった。

西部連合の麾下に属する事を決めた在日海軍将兵は、ハワイ発の訓令により、横須賀・佐世保に居続け、日本政府に協力し原子力で動く船と多くの戦闘艦の管理を下命されていた。

結果、西部連合に組する将兵は、基地と指定域外(主に基地外に家族と共に住む住居を持つ将兵と、その家族は、のその住居の近辺以外)への移動が、原則禁じられていた。

多くの旧米第七艦隊所属艦船は、旧日米安保条約で定められていた最低限の日本領海内の通常哨戒行動以外は、基地内の施設やドックに留め置かれていた。

本国に戻る事を決めた将兵と、彼等が携行可能な武器弾薬だけが乗るC17とC130ならば、一回の給油で、グアムの遥か先まで行け、二回の給油で本国のかなり奥地迄行けた。

ハワイ上空と西海岸上空と云う西部連合支配地での空中給油を受け、本国迄、ノンストップで向かう事になっていた。

この8機は、各々、西部連合、オリジナル、北部エスタブリッシュメントの支配する空軍基地、とは言え8割は、オリジナルの支配するノースカロライナから飛び立っていた直掩機がエスコートする形で、オリジナルの空軍基地と、海兵隊航空基地へと向かっていた。

其処に到着するまでは、どの基地へも、この6機は、着陸する事は無かった。

空き家になった、沖縄県内の海兵隊基地は集約され、沖縄県に執って最も問題視した期間の長かった、普天間と瑞慶覧キャンプ・フォスターの二基地が、瞬く間に消滅し、特に、県中央に位置し、悪名が高かった海兵隊基地の、瑞慶覧の跡地は、直ちに、県と環境省が合同で精密に環境調査をした。

普天間の艦載機は残らず、日本政府の費用で、九州の空自基地に分散移送され、モスボール化された。

第3海兵遠征軍基地に海兵隊の残存全部隊(員)が集約され、その所在は、うるま市に在るキャンプ・コートニー(うるま市の島)の海岸地区の一部一か所になった。

それ以外の施設、とくに北部訓練施設は、自衛隊の西部方面隊隷下の水陸機動団が佐世保からここに拠点を移す事と成って穴埋めをし、悪名が高かった、名護に在るキャンプシュワブは、辺野古の弾薬集積場と共に、西部方面軍が、管理したが、只、その余りの広さ故、残りは沖縄県と名護市で地質や残弾などの調査し、処分に関しては留保。

要は、一般県民(地権者)には、即時、全面解放は、されなかった。

その他の訓練場や弾薬集積所の管理は、練馬からやって来た朝霞の第一師団の東部方面後方支援隊が、管理し、其処も、管理者が海兵隊から日本軍(自衛隊)に代わっただけで、県民に、即、開放された訳では無かった。

しかし、此の段取りは、県知事と山田(官房長官)の間で事前に取り交わされた、取り決めに則っていた。

また海軍の全県内の射撃場、陸軍の通信施設と、貯油施設は、即、海上自衛隊と環境省の管理下になった。

県民向けには、正確、精密な環境調査後の返却。と言う尤もな理由で、説明され、地権移動の禁止と共に、此処も即時、地権者への返却は、されなかった。

担当の米海軍と、主に陸軍の有色人種系の軍人(下級将校が殆どであった)は、皆、西部連合への帰属を求めていた。

問題は空軍基地(嘉手納)の処遇であった。

此処と横田以外、三沢・岩国から齎されている空母艦載機等の全攻撃兵器(ほぼ全ての航空機)が、何れかの連合に渡る事は、内戦の趨勢を決める事になるので、全攻撃兵器(攻撃機や爆撃機)は、航空自衛隊と、陸上自衛隊の航空部門の管理下(モスボール化)に委ねられる事となった。

横田(空軍)と厚木(海軍艦載)の航空機は全て、当地でモスボール化され、これ等も本国に戻る事は無かった。

又、嘉手納の管制は、既に日本側に移管されていた。当初は、米空軍側も、その方向性で仕方が無い。と諦めていたが、日本側が齎す、詳細な本国の情勢は、米軍士官パイロットも落ち着かなくさせてはいた。

かなりの下級将校や、日本人の配偶者が居ない軍人、パイロットは、本国への帰還に関して『騒がしく』なっていた。

彼等は人道・人権問題として、帰国に関して、騒ぎ始めていた。

海兵隊員の帰国に関し、C17とC130を操縦する10数名の担当者の選抜に関して、その兆候は、顕著に表れていた。

要は、ハワイからの支援が無ければ、此処に在る、どの航空機も本国に到達する事は、出来なかった(一部空荷にすれば到達できる機体はあったが)

しかし、ハワイは、西部連合に与していたので、他の連合へ強力な兵力や武器が、移管される事が、想定される、この様な『企み』には、人権問題を無視して、純軍事的側面から、 オリジナルと北部連合を除く全世界、そして西部連合(ハワイの旧米軍司令部)自体が、全く非協力的であった。

この様な事態を予め想定済みであった日本政府は、故に、隣国が、ロシアに対し強硬な姿勢を採る事に拘っていた。そして、結果として、第一列島線内部に於ける、隣国海軍や航空戦力が目立たなくなる事を急いでいたのだった。

米軍(米国)のプレゼンスが、この地域から無くなる、という事は、隣国政府の安全や、自由な軍事行動が、保障される事を意味したが、日韓および東南アジア諸国政府は、故に、この東西のシナ海で、隣国が我が者顔で、振舞う事だけは、阻止せねばならなかったのだ。


(指導力を問う世界)

宗総書記は、韓国大統領、EUの大統領と中南海に在る彼のプライベートの執務室で、彼等の個人秘書(通訳)官を同席させただけで、対峙していた。これは同国共産党としては、異例の措置でもあった。

既にアメリカ(ワシントン)の国際的(且つ独善的な)指導力が失せ、ロシアが地上からプレゼンスを喪った現在。自由諸国の喫緊の課題は、この権威主義大国の姿勢だけであった。

昔BRICSと云われ、G7に対抗した国際的な枠組みは、G7がG6と変身し、新たな自由主義社会と言う枠組みに変質し、既に雲散霧消し新国連に収斂しようとしていた。

ブラジルとインド、そして人種(富の偏在)問題を公に見える形で解決しようとしている南アフリカが、米露に代わって、新たに地域代表の合議体であるCN(新国連)の中核となっていた。

日本の首相及びアフリカを代表した南アフリカ大統領と英連邦から独立したカナダ大統領は、此処に韓国大統領が持参していたPC経由で、リモートで参加をしていた。

これは、あくまで彼等はオブザーバーであり、特に日本にとっては、アジアの自由・民主主義陣営の代表は、あくまで韓国大統領である。と言う、明確な意思表示でもあった。

この点だけは、宋は納得がいっていなかった。

『何故?旧冊封国の代表が、宗主国の代表に指示を出すのだ』と言うアナクロな感覚が、未だ抜け切っていなかったのかも知れない。しかし、彼等には、その様な宋の思惑など、どうでも良かった。

要は、宋が代表するこのユーラシア大国の東端に位置する大国が、我々の提案に乗るか?否か?だけが問題であった。その結果によっては、彼等を国際市場から徐々に、しかし確実に排除するか?だけの判断であった。

「総書記、貴方の国が今迄採ってきた、国内政策をあなたの指導の下、未だ、続けられる場合、我々は貴方のお国を我々の仲間と見做す事は来ません。これは貴国以外の我が陣営の総意でもあります」

通訳管を通し、韓国大統領は、最後通牒とも言える提案を英語で彼に投げかけた。

しかもこの言葉は、通訳官の横に置かれた携帯電話を通じてアメリカを含む全世界へ同時通訳付きのライブ中継をされていた。今や、韓国や台湾の開発した通信技術や翻訳技術は、宋の国が開発した妨害装備を物ともしていなかった。

故に、かなりの数の同国人も、この中継は、彼等の持つ端末経由で視聴が出来ていた。

しかも何の脚色もなしに。

「具体的に申し上げます、西蔵、新疆ウイグル地区、及び香港・澳門地区で貴国が採っている施策を全て、詳らかに公開し、我々の批判や指示に従って、正して頂きたい。貴国の権威主義的な体質の一掃。これが、我々が、唯一申し上げる『提案』内容の骨子になります。勿論、貴国が貴国なりの方法で、この手順を進める事は、理解します。しかし、我々も暇ではないので、期限を来年3月迄と定めさせて頂き、貴国が採る貴国なりのプロセスを自由に監視報道させて頂ける環境をご用意頂く事が、条件です。これを“内政干渉”として退ける自由も、貴国政府には御座います。しかし、その場合は、先程述べさせて頂いた様に“我々は貴国を我々の仲間と見做す事は来ません”この(くだり)が何を意味するかに関しては、後で質問は受け付けますが、この一点は譲りません」

韓国大統領の最後通牒は、厳かであった。リモートで参加している諸国の代表は、彼の言葉に一様にモニター内で頷いていた。EUの大統領は、英語でこの言葉に続いた。

「総書記、失礼な言い方になる事はご容赦ください。しかし、我々は、貴国の今次ウクライナ戦争における貢献を“大”と観ています。しかし、貴国が英国と取り交わした香港の自治に関する条約内容の無視や、西蔵・新疆ウイグル地区で、行って来た“蛮行”をもう見逃す事はできない。結果、貴国の言い成り、引いたレールの上を逍遥と従う事は、出来ない。と言う事で意見が一致しています。貴国の自由(いいぶん)を貴国だけに許せば、この行為、例外に“続く国家や地域”が続出するでしょう、その様な事態を我々は看過しないと言う事です。どうか国際ルールを守る一大拠点と貴国には、成って頂きたい。それが我々の貴国に対する要望です」

「よろしいでしょうか?」

モニターから石田が両名に発言を求めた。

「如何しました石田首相」

韓国大統領の声は、先程とは、打って変わって穏やかな口調であった。

「大統領有難うございます(カニサハムニダ)」

石田は、韓国大統領に信愛の情を込めて、覚えたての韓国語を使った

宗主席(プレジデント)

彼は敢えて、(ジェネラル)書記(セクレタリー)と言う敬称より上位の尊称で彼を呼んで、穏やかに語り始めた。

「我が国と韓国は貴国を“中国”とはもう呼びません。我々貴国と同じ表意文字を使用する国々・地域では“中国(センターオブジワールド)”は『世界の中心に位置する国・地域』と言う意味だと直ぐ理解できます。しかし貴国は、もう世界の中心ではない。勿論、英国や欧州・米国然りです。もう『華夷思想』や『中華思想』は捨てて下さい。今後、我々は貴国を、表音文字を使用する国々と同様に、チャイナ(China)と、今後は呼ばせて頂き、当て字として当分は“支那”を使います。先ずはご理解下さい。その上で貴国の進める“一帯一路”構想なる政策も完全否定致します。何故なら、此れは貴国が“明”と呼ばれていた時代の貴国を中心に据えた思想・体制を独裁政権が定めたからです。私は、貴殿に申し上げたと思いますが、貴国の領土が最大だったのは、貴殿等が征服王朝と呼び、今、貴国にとって東北地方と呼ぶ地域に、源流を持つ異民族である女真・満州人が興した“清”の時です。我々は。此の版図は“是”とします。故に、貴国が、沿海州をロシアから奪還する姿勢を支持したに過ぎません。」

石田は、モニター右下に見えた、水差しから一口水を含んだ。

「只、この不平等条約の改正の件に関しては、其処に居られる『韓国大統領』の理解と、強力な指導力が無ければ『新国連』として団結して“支持”は、出来なかったでしょう。そう貴国と韓国の間で歴史認識に於ける問題が残っている事は、理解しているつもりです。では我々がなぜ貴国の我々の仲間への参画を強く希求するかを少し説明させて頂きます。貴国が世界的な尊敬を得て、世界に、その姿を現した時代は何時だったか?それは“唐”の時代、中東ではササン朝が在り、イスラム教が成立した時代、欧州では、ローマ帝国が東西に分裂した時代だったのではないかと思います。その頃、貴国は確かに“世界文化の中心地”でした。都の『長安』には世界中の価値観が溢れ、世界中から交易を求めて人々が集っていたはずです。我々も、その時代の貴国から多くを学ばせて頂きました。その時代の貴国の姿勢には包容力があり、他国に自分流を強いる事も、他国を排除する姿勢が、微塵も無かった。寧ろ集う人々が、貴国の文化や価値観を希求していました。どうか宗主席、その時代の姿、世界から尊敬を自然と受けていた、唐時代の良き姿に、今こそ戻って下さい。そうすれば自ずと貴国は、我々の盟主と成れるでしょう」

石田は、宗に語り掛けるように訴えた。

続いて南アフリカの大統領も発言を求めた。

「プレジデント(宗)我国(南ア)は、余り影響は受けてはいませんし、実際自国の犯罪撲滅や人種間に於ける富の偏在の公平公正な解消という内政で精一杯で、我々の地域・仲間の事迄、面倒を看、省みる余裕も、正直、無い。と云うのが現状です。しかし、我々の地域・仲間の多くや、南米の各国では、その様な悪環境の上に、貴国から受けた“債務の罠”の傷が重く伸し掛かっており、全ての傷は、未だ癒えていない事は、残念ですがこのような環境下でも、耳にしない日は無い。と云う現実も覚えて措いて下さい。貴方の前に座る韓国大統領のご尽力と東ヨーロッパの市民の皆様の姿勢と協力で、我々はアフリカという巨大な大陸で、何故纏(まとま)れなかったのか?を諭され、そして、今や、纏る事が出来つつあります。そう。今や旧宗主国と呼ばれた方々と、対等な立場で良好な関係を築き始めようとしています。しかし我々の仲間は、貴国から受けた援助という名のトラップで、未だ、貴国や貴国民に対し恨みを持つ者達が『少なくは無い』事をご理解ください。ですから、現状の貴方達の体制下で、我々を貴国にとって新たな市場や、資源獲得の場として我々を我々の大陸をお考えならば、アフリカの代表として、私は、はっきりと“No”と、拒絶申し上げ、我が大陸の国々に貴方方との関係を断つ事『だけ』を勧めます。又、我々は、貴国の此の仲間へ、いや、我々の共同体への参加に関しては、とても慎重な、いや『拒絶』の姿勢を採らざるを得ないという事をお含み置き下さい。」

彼は一呼吸おいて、一気に話し始めた。

「そして今後、貴国の撒いた『罠』で得た傷に対して、徹底的にケアーし無力化する努力をアフリカ大陸の代表として、微力ながら全力を挙げ対応する。『是』以外の立場に我々の総意は『無い』事に御留意下さい」

彼の語調は、今迄の説明や、石田の言葉とは対極的に強かった。

宋は、この言葉を引き取り

「暫し熟考の時間を下さい」

と一言言って、この会議はお開きとなった。

後から宋は、政府・党・諸機関を纏めるのに

「皆さんが、期待する様な短期間で収斂させる事は、それこそ権威主義的な『振る舞い』と認識されるに違いなく、故に収斂に時間を要した」

との弁明があった。が、結果、西側や国連の与り知らぬ処で、隣の大国内では、諸々の政争や強権(時に粛清も)が発動され、西蔵。新疆ウイグル。香港。澳門。が、各々旧来の完全な内政自治権を獲得し、そして台湾は、完全な独立国と認識された。そして、彼等は、新たな連邦国家として民主的な纏り(まとまり)持つことを志し始めた。

この『民主的な纏り(まとまり)』は、イデオロギー的(政治的)には、共産・社会主義、権威主義ではなく『自由フリーダム』であった。

漢族の支配する共通語を使う共◇党は、日本の同じ名を持つ政党以上の変節を果たした。

先ずは、標準語と呼ばれる北京語には簡体字と繁体字の使用を公に認め、広東語圏(繁体字圏)と共に、表意文字の文化的、歴史的な側面をより深化させていった。

要は、高等教育を受けた人間ほど、基本オリジナルの言葉(繁体字)を使用する事が普通になって行った。

一方で、韓国語以外は、表音文字を(ベト)(ナム)流に“アルファベット”を使用する、表音文字で表記記載する事を基本とし、従来の独自性と言う『拘り』の下、人々の相互信頼の妨げとなっていた、書き言葉の壁の排除により、信頼の醸成に努めた。

そして隣国の声掛けの許に日本と韓国、そして隣国の変節の前に、既に共産党単独政権ではなくなった(ベト)(ナム)(モン)(ゴル)が、新たに表意文字(繁体字)と表音文字を組み合わせて使う集団として表音文字の単語意味の統一事業に参画し、地域の相互理解の深化を図った。

この考え方は元首相『周恩来』の考え方の延長線でもあったので、隣国民(新唐国民)の理解は、早かった。

此処に、EUやASEANより強固な繋がりを持つ、巨大な連邦国家を核とする、新たなアジア地区のEU的な新しい『纏り』の萌芽が芽生え始めた。

台湾は大陸の一部という大陸のスローガン(核心的利益)は、此処に完璧に有名無実化し消滅した。

此れが、イデオロギーではなく、文化を『核』とした連邦主義を土台とした新自由民主連邦(ニュー・デモクラティック・フィデラルズ/NDF/新民聯)の成り立ちの起源であった。新民連(新民聯)はEUの様な、この地域の核となる事を目指したが、EUの執ったミスを繰り返す事は避けた。

彼等は、緩やかで、自由かつ民主的な経済圏であり、域内の意思の確認軌間を志向したが、統一通貨の作成や教育(言葉)の統一は頑なにせず、各国の独自性と多様性の維持を求め、相互批判を許容していた(内政干渉と言う概念は、排除された)。

又、軍事的にはNATOのような組織は、持たず、軍事的には、あくまで国連中心主義であり、緊急展開が可能な、国際的な災害救助隊としての実務組織のみ、結成を志向した。

そして、此処からは、中華(華夷)とか、言語の統一。民族と言う思想(概念)は徹底(意識的に)排除した。故に、表意文字の意味の統一が図られた。

漢族と満族が主体を成す地域は、中国と言う世界的に意味を知られた(世界的に理解認知された)言葉(表意文字)で自身(国名)を表するのではなく、石田の齎した概念を借用し、自身を新唐国と呼ぶ様になっていた。

只、西蔵の宗教的指導者(西蔵仏教に於ける、最高位者であるダライ・ラマ)は、西蔵文字やウイグルの書き言葉が、シンプルな表音文字アルファベット化される方向に進んでいる事や歴史的遺産として以外は、宗教(建築物や像)に何ら特典を与えない(完璧な世俗主義、要は新興宗教の勃興の阻止を新唐だけでなく、日韓を中心とするアジア地区は志向していた)この連邦が掲げる、基本的性格に未だ、懐疑的スタンスを取っていた。

(故にラマは、未だに西蔵には戻らず、インドで亡命を続けていた)

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