第5章 赤い点
「名前と、元気だと伝えろ。おばさんに。泣くな。いいな」
締め切られた部屋に、男の声が重く響いた。
ミレックは動けなかった。机の上の録音機材に目を釘付けにされ、丸いランプが監視の目のように光っている気がした。
小さな赤い点が、ゆっくり明滅を始める。 ボタンが押し込まれ、デジタルの数字が静かに動き出した。
息を吸う。 深く、音を立てないように。 声は喉の奥でせき止められ、出ない。
――吸って、四つ。吐いて、四つ……。
頭の中で数え、ようやく震える声を押し出す。
「……ミレックだよ。元気。寒くない。今日は、雨」
巻き戻しの音。黒いテープが一目盛り戻る。
「もう一度だ。『すぐ帰る』を入れろ」
帽子の男が言った。乾いた、機械の部品のような声。
机の影で、ニキータが小さくささやく。
「黙るのは、後だ。今は……声を出せ」
また赤い点が灯る。 四つで吸い、四つで吐く。もう一度息を吸って――
「……すぐ帰る」
再生と巻き戻しの間、誰かの声が混じった。
――「黙らせたほうが――」「黙るのは後だ。今は声……」――
擦れたテープに引っかかった、冷たい大人の声。 言葉よりも、金属の温度が残った。
赤い点が消える。 痩せた男がテープをケースに戻し、白いラベルに印をつける。
「これで……充分だな」
「電話だ」
帽子の男が廊下へ出ていく。 ゆっくりとダイヤルを回す音。戻るバネの震えが、二度、三度、喉の奥をかすめるように響いた。
しばらくして、回線がつながる。 受話器の向こうから、薄い紙越しのような声――聞き慣れたイントネーション。伯母の声だ。わずかに震えていた。
帽子の男は機械的に告げる。
「今夜、八時。場所はあとで連絡する。声は、渡した」
スポーツバッグの底に、黒いテープが沈む。 赤いランプは消えた。 けれどミレックの胸の奥では、別の赤が灯り続けていた。
四拍の呼吸を繰り返しても足りない。肩で必死に息をつなぎながら、指先の赤い布がかすかに震えた。
――伯母に届いたあの声。 本当は「助けて」と叫んでいたのに……。
同じ時刻。
団地の台所で、伯母エレーナは赤いプラトークを首に掛けたまま受話器を握っていた。
回線の向こうから流れ込んだのは、途切れ途切れの録音。
「……ミレックだよ。元気。寒くない。今日は、雨……すぐ帰る」
それは、聞き慣れた甥の声。 けれど、どこかぎこちなく、抑え込まれている。 一音ごとに胸が締めつけられ、涙が喉にせり上がった。
「ミロスラフ……」
小さな声が漏れる。 返事はなかった。すでにテープは切られていた。
受話器を戻すと、伯母は手を握りしめた。 指の腹には汗がにじみ、爪が食い込んだ。
胸の奥に残ったのは――甥が必死に絞り出した「元気」という言葉。
その裏に隠されていた声を、彼女だけは聞き取っていた。 助けを求める声。泣き出したい声。
――待っていて。必ず助けてあげるから。
窓の外、細い雨が糸のように垂れ下がり、街を覆っていた。 伯母の胸には、赤い点の残像が焼き付いたままだった。