間章 夏の甘さ
夏の光は、なんだか白っぽかった。舗道の熱が、靴底をじわっと通してきた。
ゴーリキー公園の門の前で、ニキータが指を出す。列のわきを、そっと示すように。 その指は、ただ向きをつくっていただけ。声も穏やかだった。
アイスキャンディーはミルク味。銀紙が指に貼りついて、少しだけ冷たかった。
ベンチに座ると、ニキータが二本の指で、ぼくの白いハイソックスを引き上げた。 ぐいっとでもなく、なでるでもなく――ただ元の位置に、戻すように。
「うまいか」
「うん」
観覧車は静かに回っていた。 遠くから音楽が流れてきた。ニキータの腰で、鍵束が一度だけ当たった。けど、音は鳴らなかった。
――また、会った。
売店の横のベンチ。ポテトチップを一袋。塩のにおい。袋の中で、銀が光った。
「半分やる。あとで食え。喉を休めろ」
「うん」
ニキータが銀紙を折る。二度、折って、→のかたち。 ベンチの板に、静かに置いた。向きは家の方向。 それは、たぶん、「帰れ」の合図。 静かで、はっきりしないけど、わかる合図。
ぼくはチョークで見た矢印を思い出した。門→家。 あの短くて、単純な道。
立ち上がって歩き出すと、影が二つ、地面に長くのびていた。手を振る影と、振り返す影。
――また、会った。
川べり。炭酸の泡が、小さく弾ける音。
「いい声だな、よく届く」
ほめてるのか、ためしてるのか、どっちでもいいような声だった。
ニキータがベルトの鍵束を押さえる。じゃらじゃらさせないように。
「おまえを怖がらせたくないからな」と言って笑った。 歯の欠けた一本の鍵が、ほかのより少し短くて、ちょっとだけ光ってた。
団地に戻ると、掲示板に紙が増えてた。白い紙。 「行方不明」の文字は相変わらず。端が色あせ、ヨレヨレしている。 ニキータはその角を一度だけ押さえた。まっすぐにするみたいに。前にも、そんなふうにしていた気がする。
――また、会った。なんでだろう。よく会った。
商店の裏。棒アイスをもう一本。今度はチョコ。
「夏休みも終わりか。もうすぐ学校だな。楽しみか?」
ぼくは首を横に振らず、肩を少しだけすくめた。
「あそこ、友だちいないから……」
「いじめられてんのか?」
答えなかった。
「息を吸って、四つ数えろ。吐くときもだ。四つで吸って、四つで吐く。手を出す前にな」
ぼくは鼻から、いち、に、さん、よん。 口から、いち、に、さん、よん。静かに。
「悪いやつらにやられても泣くな。泣く声は、遠くへ行く。……おまえの声は、ここにいる」
そうつぶやいて、ぼくの靴ひもを軽く締め直した。
「うん」
短くうなずいて、家に帰った。
夏は短かった。工事も、終わっていた。 でも、それでおしまいじゃなかった。 また、何度か会った。
アイス、スナック菓子、ベンチ。二本の指。鍵束。歯の欠けた鍵。
そのあいだにも、掲示板の白い紙は少しずつ増えていった。 「冬帽子」「襟章」……子どもの写真が、ひとつずつ。
大人の声は、小さく、「気をつけろ」と言った。
子どもの声は、小さく、「知らない」と言った。
ぼくは、まだ知らなかった。 夜になれば、別の名前で呼ばれる仕事をしている人が、ニキータだということを。
記憶に残っているのは、 二本の指の、あの動き。 白いハイソックスの、ずれた位置。 トートのポケットに入っていた、銀紙の軽さ。
夏休み―― そのとき、ぼくの首に赤いスカーフはなかった。