第3章 知らない家
団地の共同階段は、昼間でも暗い。裸の電球が塗料のはがれた緑色の壁をどんよりと照らしている。壁はところどころ朽ち、むき出しのコンクリートには湿った石、古い塗料、生ごみのにおいが染みついている。空気はほこりっぽく重い。
ミレックは耳をふさぐような圧迫感に、息を喘がせた。
二人は階段を上る。ニキータは二段ずつ、ミレックは一段ずつ。番号のついたドアが、ひとつずつ迫ってきては、通り過ぎていく。背中にぴたりと貼りつくように。
狭く開いたドアの隙間から、砂糖と油の甘いにおいがした。鼻につく甘いにおい。ミレックは逃げ場のないにおいを嗅いでいるような気がした。
椅子の脚が床を擦り、行き先のない線を床に引く。テーブルの上には紙コップや紅茶の缶、ビスケットの箱が雑多に置かれ、その向こうではテレビの光が、白く揺れている。背後で玄関ドアの閉まる音。廊下の椅子が、扉に半歩近くに移動した。
ミレックは床を見る。なにも見たくない。見てしまえば選択肢が減る。見なければ、まだ可能性が残るかもしれない。
テレビの前では、坊主頭の男がゲームに夢中になっている。あたかもこれが役割だといわんばかりに。二人が来てもゲームを止めず、驚くふうでもない。工程に慣れきっている人間の無関心さ――坊主頭はそんなオーラをまとっている。
「ここへ座れ」
ニキータの声。ミレックは言われるまま、椅子に浅く腰をかける。坊主頭がようやく口を開く。
「見てろよ。おもしろいから」
画面からは目を離さない。
「入れてやれよ」
とニキータ。親しみを込めた軽い命令。
――友だち? この人が?
坊主頭は片手でコントローラー、もう片方でビスケット。噛み砕く音。もう一度テーブルに手をやり、チョコをつまんでミレックに差し出す。視線は画面。ミレックは受け取り、熊の絵の包み紙に目を落とす。でも、口には入れない。どうしたらいいかわからない。
「電話だ」
ニキータが廊下に向かう。カチリ、ダイヤルを回す音。受話器が戻る音。
ミレックは画面を見ながら、耳は廊下のほうに向ける。ゲーム音の隙間に、受話器から声があふれて届いてくる。誰の声かわからない。相手は一方的に話し、ニキータの声はほとんどしない。
喉が詰まる。スカーフの結び目を緩める。布は冷たい。雨の濡れではない冷たさ。
「次、お前の番」
コントローラーが差し出される。ミレックの指先には、ガムの銀紙のざらつきが残っている。ゲームをする気には到底なれないけれど、進む以外に道はない。
廊下のほうで、またダイヤルの音。声を殺した声が聞こえた。
スタートボタンを押す。画面が切り替わる。
外の雨は、まだ降っている。やんではいない。
受話器が置かれ、空気が形を変えた。丸い笑いが、角のある笑いになる。
ニキータがやかんを持ち上げ、紅茶を注ぐ。
「熱いから気をつけろ」
いつもの優しい声。でも、どこかうわの空だ。
ミレックはスカーフの先を指で整える。布は湿っていて、ひやりとする。
「ピオネールは?」坊主頭がからかう。
「雨で流れたさ」と、ニキータ。笑いが一度だけ起きて、すぐ静まる。
ミレックはゲームに目を戻す。ボタンを押す。二度、三度。単純なゲーム音楽を聴いていると、すっと心が落ち着く。
坊主頭が窓の隙間から外をのぞく。カーテンを少し下げる。 雨粒が、糸のように長く見える。
「今、何時だ」
「十一時前」
ニキータは腕時計に視線を落とし、すぐにミレックの横顔に目を向ける。その目は優しいが、頭の中では何か他のものを見ている――そんな目つきだった。
「電話は……」
ミレックは言いかけて、やめる。
代わりに紅茶を持ち上げる。紙コップの縁が、やわらかく歪む。甘い。温かい。
雨水で濡れていたハイソックスは、足首を残して乾いていた。
坊主頭がリモコンのスタートボタンを押す。再びゲーム音。静かな部屋の中には、これから何かが始まる前の、息苦しさが漂う。言葉は少ない。各々意識はばらばらで頭の中の矢印は別の方向を向いている。その矢印は一つの物音、電話の音で瞬時にして同方向を向く。
ニキータが椅子の背に上着を掛ける。肩のところが重たげ。ポケットの中で、鍵束が小さく触れ合う。と、ふいにミレックが口を開いた。
「おばさんに電話した?」
なぜ、このタイミングで言ったのか、自分でもわからなかった。
ニキータは砂糖を紅茶に落としながら答える。
「大丈夫だ。心配してた。風邪ひくなってさ」
砂糖が音もなく溶ける。
「迎えに来る、って?」
「あとでな」
彼はそう言って、ミレックの髪の水滴を指で払った。子どもにするような、やさしい仕草。指先が、ほんの少しだけ震えていた。
昼近く、窓の外の雨脚が弱まって、光がブラインドの向こうで薄く動いた。再びゲーム音。坊主頭がニキータと向かい合い、対戦ゲームを立ち上げる。
ミレックは紙コップを両手で持ちながら、ふと口を開いた。
「あの……トイレ、貸してください」
ニキータが顎で廊下を示す。
廊下は狭く、電球の下で影が濃い。ドアは半開き。トイレに入るふりをして、その先の隙間から裏口に通じる階段に出た。
空気が少し軽くなる。冷たい雨の匂いが鼻に戻る。
――行ける。
最後の階段を下りかけたとき。
「おい」
静かな声。振り返ると、ニキータが立っていた。怒鳴らず、走りもしない。ただ、そこに立っている。
「ここは危ない。知らないやつらがいる」
淡々とした口調。言い訳のようで、本当のようでもある。
肩をつかまれ、部屋に戻される。ニキータは腰の鍵束を探り、一本――歯の欠けた鍵を取り出した。トイレ脇のドアに差し込み、ゆっくりと回す。金属がかすれ、音が長く伸びた。
鍵の歯が欠けている。簡単には回らない。だが、閉まった。
ミレックの胸に、はっきりとした文字が浮かんだ。
――勇気。
勇気は、出口の向こうにあった。でも今は、閉じられている。
ニキータは何も言わずに戻り、鍋を火にかけた。
「飯だ」
湯気が立ちのぼり、麺の匂いが部屋の湿気に混ざる。ミレックは両手を膝に置き、呼吸を四つ数えて、また四つ。勇気の文字が、喉の奥にまだ残っていた。
器に盛られた麺は熱く、味は濃かった。ロシア文字のアルファベットの形をしたパスタ。ミレックはふうふうと息を吹きかけ、白い湯気の向こうにニキータの顔を見た。
彼は視線に気づくと、笑ってみせる。その笑いは、朝の車の中で見たものと同じ形をしている。――けれど、その奥に、何かを数え続けている目があった。
「なあ、午後はゲームの別のやつをしよう。難しいけど、教えてやる」
「うん」
返事は自然に出た。そう答えることが、今、いちばん簡単だった。
食器の触れ合う音が、合図みたいに鳴る。