第2章 ドライヴ
川を背に、雨のドライヴ。見えない予定表に沿うように、車は曲がりつづける。学校からも家からも、スピードを上げて遠ざかって行く。不安が波紋のように胸に広まる。
「八時二分」
運転席の時計を覗き、ミレックは言う。
「すぐだ」
「すぐって、どれくらい?」
「三、四分ってとこだ」
「すぐ」は軽い。軽いものは風に揺れる。
車は川を背にして走る。住宅街へ。 同じ形の建物が、等間隔で現れては消える。 窓の雨粒が、向こうの景色をゆがめる。
「もうすぐ曲がるぞ」
「学校、こっちじゃない」
「歩いて行ける距離だ」
「ここ、どこ?」
「友だちの家」
「名前は?」
「あとで」
言い方はやわらかい。でも、語尾は固い。「黙れ」とは言わず、無言の中にその言葉を置く。ニキータのいつものやり方。大きな含みを持たせる言葉の選び。
ワイパーが、規則正しくリズムを刻む。 見えない何かが、予定通りにことを運んでいる気配がする。
「この雨、いつまで?」
「モスクワの雨は長い。止んだと思っても、また降り出す」
「うん……」
ミレックはガラスを指でなぞって、曇りに矢印を描いた。けれどすぐ消えた。
「お父さんはどうしてる?」
「数字ばっかり見てる」
「そうか」
「おばさんは紙に矢印を描いてくれる」
「どっちが好きだ?」
「……」
ミレックは問いに答えず、話題を変えた。
「ピオネール、きっと遅刻だ……」
「そんなに気になるか?」
「小太鼓の係だった」
「誰かが撥を持つさ」
「遅刻すると笑われる」
「誰に?」
「ヴァーニャとか……みんな」
「気にすんな」
短いやりとりが、窓の外の雨と同じようにすぐ消えていく。けれど、ミレックの胸には針のように残った。
「もう一度曲がるぞ」と 言いながら、ニキータは腰に手をやり、ベルトの鍵束を指先で押さえる。 じゃらりと鳴りそうになった音を止め、歯の欠けた一本を少しだけ浮かせた。
「それ、なんの鍵? 壊れている」
「出口の鍵だ」
「出口?」
「あとで教えてやる」
言葉の意味はすぐに理解できなかった。 けれど金属の冷たい光と「出口」という音が、ミレックの胸にひとつ重なった。
雨脚は弱まらない。 ワイパーが一呼吸遅れて追うたびに、車の内部が一瞬、揺れる。
車は狭い通りに入り、窓の外の景色が急に近くなる。
「着いた」
ニキータの声と同時に、ミレックの喉の奥で石が一つ動いた。