第24章 結び目のない赤
春――1992年。
掲示板の端に、小さな紙が一枚、貼り出された。
『ピオネール活動 終了のお知らせ』
黒い数字。白い紙。
けれど、その白はどこか軽かった。
赤いスカーフは、もう誰の首にもかかっていない。
風が通り過ぎると、結ばれていない端が、かすかに揺れた。
その日、家に小さな箱が届いた。
差出人の欄には「保護」とだけ。受領印の上に黒い線が一本引かれている。
中には茶封筒と、古い燃料券の半券。
そして、透明ケースに入った一本のカセット。
封筒の中には、欠けた歯のある鍵。
一枚の紙。鉛筆で細く書かれた言葉。
――息を止めるな。
文字は乱雑ではなく、むしろ几帳面すぎるほどだった。
夏に見た銀紙の矢印や、鍵を押さえる二本の指の動きと同じく……。
それは「支える」ための形に見えた。
名前は、どこにもなかった。
カセットの側面には「V-47」とある。
ミレックは息を詰めるようにして、再生ボタンを押した。
かすかな音が流れる。
……ジーマだよ。寒くない。すぐ……すぐ帰る……
……サーシャ……元気。……寒くない……
……コースチャ……大丈夫だ……すぐ帰る……
――黙るのは後だ。今は声……
……ミレックだよ。元気。寒くない。今日は、雨……すぐ帰る……
ミレックの呼吸が一瞬止まった。
掲示板に貼られていた三つの顔が、声になって現れた……。
停止ボタンを押す。
どの声も、温度が同じだった。
同じ手で録られ、同じように切り取られていた。
ためらいも、息継ぎも、丁寧すぎるほど均一に。
――誰かが言わせた声。
それでも、確かに彼ら自身の声だった。
息を吸う。四つ、数えながら。吐くときも、四つ。
あの夏、ニキータに教わったとおりに。
息を止めるな、と、紙の言葉が胸の奥でささやく。
呼吸を数えると、胸の石が、ほんの少しだけ位置を変える。
新品の白いカセットを一本用意し、機械に二本差し込む。
ノイズも空白も、そのまま移す。
ミレックだよ。元気。寒くない。今日は、雨。すぐ帰る。
止める。白いラベルに鉛筆で数字を書く。
三つは戻らなかった声。最後の一つは、自分の声。
引き出しに入れる。隣には、鍵を入れた封筒。折り目のついた紙の星が一枚、薄く重なった。
夕方、川へ向かって歩く。
K-11/12 の橋脚は、変わらずそこにある。街灯の輪が欄干に落ち、川面が低く返す。
欄干には細い赤い布が残っていた。
去年、誰かが結び目を作らずに掛けたスカーフだ。皺は黒ずんでいるが、布としてはまだ立っている。
ミレックは手を伸ばし、欄干の冷たさを指で受ける。瞼を閉じ、大きく息を吐く。
胸の石は小さくなったわけではない。ただ、少しだけ動いた。
封筒からスカーフを取り出し、欄干にかける。
一度だけ通して、端を重ねる。結び目は作らない。
「息を止めるな」
声には出さずに唱え、四つ吸って、四つ吐く。
胸の石が、またわずかに位置を変える。
ミレックの首に赤いスカーフが結び目を作ることは、もうない。
自由になった首に残るのは、ニキータの指の感触だけ。
その指は決して彼を突き放さなかった。
押すように、支えるように――いつも家への向きを示していた。
スカーフの端をそろえ、手を放す。
さよならの儀式。
足元に目を落とす。
――アイスクリーム。ポテトチップ。銀紙のガム……。
涙は音を立てなかった。
靴の脇に一滴、二滴。灰色の地面に溶けて消えた。
帰り道。ベンチの上に銀紙の小さな矢印がまだあった。
二度折られて、「→」の形。向きは、家。
「帰れ」の合図。
ミレックはそれを拾ってポケットに入れる。
「ただいま」
扉を開けると、台所の時計は一時で止まったまま。
けれど胸の中の針は、ゆっくりと動き出していた。
ふと、台所の奥から紅茶の香り。
やかんの湯気のそばで、伯母が静かに立っていた。手が取っ手に触れたまま止まり、ミレックに視線を送る。
声をかける代わりに、ミレックは深く息を吸って――吐いた。
その音だけで、伯母はわかったように頷いた。
奥の部屋では、父の机のランプが小さく灯っている。
紙を揃える音。数字を確かめる鉛筆の音。
声はない。でも、それが父の返事だった。
翌朝。
掲示板の前で、点呼。名前が一度ずつ呼ばれ、返事も一度きり。名前は逃げない。
号令の当番が前へ出る。もうピオネールの号令ではない。新しい時代が、静かに近づいている。
息を四つ吸い、四つ吐く。冷たい朝の空気が喉を開く。
背中では、帰らなかった三人が支えている。
声は渡すためのものではなく、返すものだ。
だから返す。返らなかった三つと、戻った一つのあいだで。
まえへ。
名は一つ。歩幅は自分で決める。
空はまだ、今日の向きを決めていない。
それでも、歩幅だけはもう、誰にも決めさせない。
(了)
完結のお知らせ:本編は本話をもって完結しました。読了・応援に心より感謝します。
【続編予告】
続く『ねじの回転』では、ミレックがボーイ・ソプラノを響かせます。作品舞台はブリテン《Turn of the Screw》。稽古・立ち稽古・本番までのプロセスと、四拍の呼吸で「恐怖の合図」を歌に置換していく過程を描きます。初見向けに【誌面特集/6時のニュース】の資料回から開幕。
※少年誘拐への言及があります。苦手な方はご留意ください。