第23章 戦いのはじまり
一週間後、伯母は心理士の診察室にいた。
壁には子どもの絵が貼ってある。太陽と家と、笑った顔の人。
ミレックが最後に絵を描いたのはいつだろう。
「どのような変化が?」
心理士が手帳を開く。
伯母は膝の上で手を組む。
「言葉が出なくなることが増えました。急に黙り込んで、まるで石になったみたい。それから」
一度言葉を切る。
「笑わなくなりました。完全に」
心理士がペンを走らせる。
「学校では?」
「もともといじめられていたんです。でも今は……」
伯母の声が震える。
「ひどくなってる。あの事件のうわさが広まって、何か言われてるみたい」
「どのような噂ですか?」
伯母は答えにくそうにする。
「嘘をついているんじゃないかとか。本当のことを隠してるんじゃないかとか」
心理士が頷く。
「トラウマ反応としては典型的です。でも回復の兆しもあるはずです。小さな変化でも、何か気づいたことは?」
伯母は首を振る。
「むしろ悪くなってる気がします。一人でボーッとしてることが多くて」
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その午後。
廊下を歩くミレック。壁に寄り、足音を消すように。
けれど、逃げ切れなかった。
「おい、ミレック」
背後から声。振り向くと、ヴァーニャと取り巻き二人。
「こっちへ来いよ」
ミレックは動かない。
「『寒くない』って言えよ」
ヴァーニャが真似る。
「『すぐ帰る』もだ。言え」
取り巻きが笑う。低学年の子まで振り返った。
胸の奥で赤い点が灯る――録音ランプ。
鍵の触れ合う音。湿った倉庫の匂い。低い声――「すぐ帰ると言え」……
「どうした? 言えよ」
ヴァーニャが肩を強く押し、ミレックはよろけて3歩後ずさった。
通りかかった女子のグループが立ち止まり、怪訝な目をヴァーニャに向ける。
「やめなよ」
ポーリャ・イワノワが言葉を放った。
「うるせえ。女は関係ないの」
「いじめるの、やめなよ」
ポーリャが繰り返し、他の女子もざわついた。
「うるせえな」
ヴァーニャはポーリャの肩を強くつき、ポーリャは足を滑らせて床にしりもちをついた。
「パンツ見えた!」
笑いがはじける。ポーリャはスカートの裾を押さえた手を震わせ、それでも顔を上げてヴァーニャを睨んだ。
ミレックの拳が勝手に握られた。
「おい、いいことを教えてやる。ミレックの伯母さん、誘拐犯に値切ってコイツを買い戻したんだ。ドケチ!」
何かが弾けた。
ミレックはヴァーニャに飛びかかる。二人は床に倒れ、上になったミレックの拳が落ちる。骨の硬さが掌に逆流して、皮膚が焼けるように痛む。それでも止まらない。胸に、顔に。痛いほどの衝撃が自分の手をも襲う。だが止まらない。
「やめろ!」
ヴァーニャが叫ぶ。
「先生!」
ひとつの大人の影が割り込み、空気が命令に従って鎮まる。
「やめなさい!」
廊下がざわめき、ヴァーニャは鼻血を出して座り込む。ミレックは先生に押さえられてなお、なお拳を振り回していた。
生徒たちは一瞬、信じられない顔をする。いつも影のように静かだった子が……。
「教室に戻れ!」
先生の声が響く。
「ヴァーニャ、保健室へ」
人の気配が散り、静かになった廊下。
先生はミレックを空き教室へ連れていく。
「伯母さんを呼ぼうか」
教師はミレックの顔を覗き込み、慎重に尋ねた。
ミレックは無言で頷いた。まだ拳を握ったまま。
保健室の前で、ヴァーニャは脱脂綿を鼻に挟まれ、うつむいていた。
看護師が言う。
「あなたも押したわね。次はないわよ」
一時間後。
伯母が学校に到着する。職員室には担任と、目の奥にまだ火を宿したミレック。
「申し訳ございません」
担任が言う。
「こんなことになるなんて」
伯母はミレックの拳を見た。皮が擦りむけて赤い。
「相手の子は?」
「大事には至りません。ただ皆、ミレック君の豹変に驚いて……」
伯母は短くうなずき、ミレックの手を取った。
「帰りましょう」
校門を出る。夕日が影を長くする。
「なんで喧嘩したの?」
伯母が歩きながら尋ねる。ミレックは黙ったまま。
「ミレック?」
「あいつらが、言えって……」
「何を」
立ち止まって、小さな声で。
「寒くない……すぐ帰る」
伯母の血が凍る。あの電話。犯人からの声が蘇る。
彼女はミレックを見つめた。乾いた目。泣けばいいのに――泣かない。戦っているのだ。
「いいのよ」
伯母は低く言った。
「私がいる。もっと殴ってやりなさい」
ミレックは顔を上げた。
初めて、自分の手で境界を守れた。その確信が、胸の奥に灯った。
夕日が二人の影を伸ばす。
ミレックの影は、昨日よりわずかに背が高く見えた。
ミレックの物語をここまでお読みいただき、ありがとうございます。次回はいよいよ最終回です。