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金になる声  作者: Mironow
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第22章 言葉の重さ

 二日後、同じ読書室。

 今度は係官ソコロフの隣に、もう一人の男性が座っていた。穏やかな目をしたその人物は、心理士だと自己紹介した。

「ミレック君の取り調べで、いくつか手がかりが得られました」

 ソコロフが低く告げる。

 ミレックの父と伯母が身を寄せ合う。父は膝の上で手を組んでいるが、指先が微かに震えていた。ミレックは今日も入り口近くの椅子に座っていたが、昨日とは違う。時々、大人たちの方を見る。一瞬だけ――だが確かに見ていた。

 心理士が穏やかに続ける。

「ただし、彼から更なる情報を得ることについては、慎重でなければなりません」

 タチヤーナが身を乗り出す。

「でも、この子が知っていることがあるなら」

 セルゲイが直接ミレックに向かって言った。

「ニキータのこと、もう少し覚えてないか? 背の高さ、声の調子……年齢でもいい」

 ソコロフが手を上げ、静かに遮った。

「落ち着いてください。ここは裁判所ではありません」

 彼の声は強くはなかったが、低く深い響きがあった。

 心理士が補足する。

「そうです、プレッシャーをかけないでください」

 父が低く言った。

「どうか息子に負担をかけないでもらいたい」

「アンドレイ」

 伯母が父の袖を引く。

「座って」

 皆が息を整えるのを待って、ソコロフがあらためて静かに尋ねた。

「ミレック、思い出せる範囲でいい。『バツ印』の場所――そこがどんな建物だったか、何か覚えていることは?」

 視線が一斉に注がれる。

 ミレックは体を小さく丸め、しばし沈黙したのち、やっと声をしぼり出した。

「壁に大きなバツ印があって……でも、眠くて……」

 伯母が慌てて補った。

「麻酔をかけられていたんです」

 一瞬、部屋全体が凍りついた。 タチヤーナは口を閉ざし、セルゲイは唇を噛み、ニーナが鞄を抱きしめる。 ――子どもに薬が使われていた。想像するだけで胸が裂けそうだった。

 だが、次の瞬間には再び声が飛んだ。

「じゃあ眠らされる前は? 何を見た!」

 セルゲイの声は切迫していた。

「建物は大きかった? 何階建て?」

 タチヤーナが続く。

「色は? 窓は? 音は?」

「車の音は? 工場の匂いは?」

 矢のような質問が次々に少年に突き刺さる。

  ――黒い壁。 ――白いバツ印。 ――鼻を刺す甘いにおい。

 記憶の断片が頭の奥からにじみ出る。けれど言葉にはならず、むしろ恐怖が増していく。

 ミレックは椅子の肘掛けを握り、呼吸を乱しながら答えようとする。

「暗くて……よく見えなかった……」

「でも、何か聞いたはずだろ!」

 セルゲイが詰め寄る。

「橋の近くじゃなかったの? ねえ、思い出してよ!」

 タチヤーナの声が震える。 ニーナも叫ぶ。

「お願い、何でもいいの! せめて一つ!」

「やめて!」

 伯母が声を張り上げた。

「これ以上は無理です!」

 それでも質問は止まらなかった。

「バッテンはチョークか? ペンキか?」

「消しかけてあったの?」

 ミレックの顔は青ざめ、呼吸のリズムが崩れる。

「すう、すう……はあ……」四つ数えるはずの息が途切れる。

 そのとき、心理士の声が鋭く響いた。

「ここまでです!」

 全員の動きが止まった。

 ソコロフが机の上のファイルを押さえ、短く言葉を添えた。

「今ここで守るべきは、この子の命です」

 彼の声には怒りはなく、だが父親としての切実さがにじんでいた。

 心理士ははっきりと言葉を区切った。

「これ以上の詰問は、彼を壊すだけです。彼はすでに限界まで語ってくれた」

 部屋の空気が一気に冷えた。誰も次の言葉を出せない。 サモワールの冷めた湯気だけが、細く立ちのぼっていた。

 ソコロフがファイルを閉じた。その音が、ようやく区切りを作った。

「本日の会はここまでとします。捜査は継続します。新しい情報が入り次第、ご連絡します」

 記録係が鉛筆を陶器の中に立て、「コトン」と音が響いた。 それでようやく、部屋の緊張がほどけた。

 だが、誰もすぐには立ち上がらない。 沈黙が長く伸びる。

 伯母は椅子から身を乗り出し、ミレックの肩にそっと手を置いた。小さな肩は硬く強ばり、まだ呼吸が浅い。

 父はその様子を見つめていたが、言葉を失っていた。自分の声では、今はもう届かないと悟っていた。

 ソコロフは最後に冷めきったサモワールを片付けながら、小さくため息をついた。

 家にいる同じ年頃の息子も、こんなふうに震える日が来たらどうするだろう……と、 考えたくもない問いが胸をよぎった。

 重い椅子の脚が床を引きずり、鈍い音が響く。 それが会の終わりを告げる唯一の合図だった。

 誰も「また」とは言わなかった。 それでも足音は、階段の方へ一つずつ消えていった。

 残されたのは、冷えた空気と、机の上の角砂糖の白だけだった。


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