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金になる声  作者: Mironow
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第21章 被害者家族の小会合

 1991年10月――

 地区の文化館の地下、読書室。 白っぽい蛍光灯が低く唸っている。壁はくすんだ灰色。掲示板には重なった白い紙の端がめくれている。押しピンの跡が黒い点々になっていて、端の方には古い写真が三枚。冬帽子をかぶった子、襟章のついた制服、無表情の顔。

 テーブルの上には、湯気の少ないサモワール。紙コップは白。角砂糖の皿の脇に、銀紙がひとつ。誰かが置いていったんだろう。厚手で、二度折れば矢印の形になりそうなやつ。

 司会の席にはソコロフ係官が一人。隣に記録係の女性が座り、白い陶器に太めの鉛筆を二本、立てている。

「はじめに、何点か申し上げます」

 ソコロフは灰色のファイルを開き、淡々と報告を読み上げた。声は抑制されていたが、机の下の拳はわずかに震えていた。橋で耳にしたあの「帰る!」という叫び声が、まだ胸の奥に残っている。

「押収物の鑑定は継続中。音声データには編集の跡。全部同じ傾向です。ひとつだけ、息の回数が四つで揃っている以外は。カセットはコピー中。返還は、配布案内の黒線の下に従ってください。遺留品について――黒と白のニット帽。K-11/12、護岸の茂みから回収。サイズタグなし。内側に補修糸。こちらも鑑定中」

 誰もざわつかない。ざわつけば、感情が高まる。そうすると、だれかが耐えられなくなる。

 伯母と父は、テーブルの前に並んで座っている。どちらも、あまり話さない。

 父の向かいに座るのは、冬帽子の子の母親タチヤーナ。薬剤師。 その隣、セルゲイ。仕立て職人。 さらに隣に、無表情の子の祖母ニーナ。鞄に、子熊の柄のハイソックスをいつも一足入れて持ってくる。「あの子のお気に入りだったやつ。春になったら履かせようと思って」と言って、誰にも触らせない。

 ソコロフは、必要な個所だけ記した報告書のコピーを一人ずつに配っていく。テキパキと無駄なく。だが視線の端で、入口近くにうずくまる少年――ミレックを一度だけ見やった。

 あの時と同じ顔だ……とふと思う。

 橋脚の下で泣き叫んだ声と、今の沈黙が重なり、胸が痛む。

「では、確認を。息子さんのいなくなった時刻、場所、同行者を簡単に」

 ソコロフは淡々と促した。声は事務的に聞こえるが、言葉の奥に慎重な響きがあった。

 話す順番は決まっていないが、自然と事件の順になる。

 タチヤーナが言う。

「朝の8時前。郵便局の角で見かけたのが最後。黒地に白の二本線の帽子。耳がかぶさるようにしてあげました。雪解けで、水たまりを避ける歩き方だった」

 セルゲイが続ける。

「7時半ごろ。玄関で、ブレザーのボタンを上まで留めていた。赤バッジが斜めになっていたので、外して付け直してやった。いつも一人で通学していました」

 ニーナが、鞄の中の布を撫でる。

「この子、カメラの前では笑わないの。あの日は……3時過ぎ。キオスクでジュースのふたを開けてもらって。スーパーの前。それから横断歩道を私より先に渡って……見えなくなっちゃった。夜になって連絡が。ドルとかマルクとか言ってた。うち、そんなお金ないのに」

 沈黙が落ちた。

 ソコロフはファイルを閉じる前に、伯母と父の方に視線を送った。

「アンドレイ・ニコラエヴィチ、何か……」

 父は咳払いを一つして、言葉を探した。

 だが舌の裏に張りついているのは、声ではなく、映像だった。 玄関を出ていく息子の背。白いハイソックスが、ほんの少しずり落ちていた。 直してやればよかった。声をかければよかった。 その小さな所作ひとつが、自分にはなかった。 ほかの親たちが「帽子を直した」「バッジを付け直した」と語るたびに、その欠落が胸に突き刺さる。

 父の喉は震えたが、言葉は出なかった。

 そのとき、伯母が身を乗り出していった。

「8時です。速足で歩いていくのが見えました。『行ってらっしゃい』とベランダから声をかけました。それで角を曲がっていくまで見ていました。よくある朝の光景です」

 タチヤーナがすぐに口を開いた。

「でも……その時、もう誰かにつけられていたんじゃないの?」

 セルゲイも低く続ける。

「ニキータというのは……やはり、本人に聞くべきだ。ここにいる子に」

 ニーナが鞄を抱き寄せる手を強めた。

「一言でもいいの。どんな顔をしていたのか……」

 ミレックは膝を抱え直した。小さな肩がこわばる。

 ソコロフが短く咳払いをして、静かに口を開いた。

「ここで問い詰めるのはやめましょう」

 視線は厳しくなく、むしろ柔らかかった。

「十歳の子に細部を思い出させるのは……私たち大人が思う以上に、負担が大きい。私にも同じ年頃の息子がいます。だから分かるんです」

 その一言に、一同口を閉ざす。煮え立ち、泡立ち、爆発寸前の静けさ。もどかしさといら立ちの入り混じった思いが膨張する。

 ソコロフはちらりとミレックに視線を送った。少年は入口近くの椅子で、膝を抱えたまま。 十歳の子が、どれだけのものを背負わされているのか、と思わずにいられない。

 彼の胸の奥に、家庭に残してきた自分の息子の姿が一瞬よぎる。

「そうは言っても、私は事実が知りたいんだ」

 苛立ちを抑えられずに、セルゲイが言う。

「あの子なら何か知っているはずだ」

 伯母がとっさに身を乗り出し、かみしめるように言う。

「待ってください。あの子にばかり負担をかけないで」

「しかし……」

 セルゲイが低く言う。

「ニキータという人物、この事件に大きくかかわっているのではないか?」

 伯母がまっすぐ返す。

「その人なら、私も見ています」

 場が一瞬、止まった。

「工事現場で何度か。団地の改装工事です。それから橋の近くで」

 伯母の声は強い。

「なんですって?」

 伯母はタチヤーナの目を見てうなずく。

「作業員の格好で、資材を運んでいました」

 親たちがざわめく。

「本当なの?」

 タチヤーナが食い入るように言う。

「どうして今まで……」

 ニーナが鞄を抱きしめる。

 伯母は俯かずに言葉を続ける。

「警察には伝えました。その場で、すぐに」

 ソコロフはうなずいた。

「記録に残っています。伯母さんの証言として」

 セルゲイが握った拳を机に当てた。

「じゃあ、なぜ捕まえられない!」

 伯母は声を荒げず、短く言葉を発した。

「現場で見たというだけです。確証にはならない」

 重苦しい沈黙。心理士が落ち着いた調子で補う。

「ニキータという人物像は、確かに浮かび上がっています。ただ、今ここでミレック君を追い詰めることは避けたい」

 タチヤーナが唇をかみしめ、ニーナは涙をぬぐう。セルゲイは深く椅子に沈み、顔を覆った。

 ソコロフは静かに、配られた報告書の端を整えた。線を引き、角を揃える――それは心の揺れを隠すための所作でもあった。

 ミレックは視線を上げなかった。 壁の写真の子どもたちと、自分の姿が重なりそうになる。いやだ、と首を振る。視線を上げれば、そこに自分も並んでしまう。

 掲示板に残っていた四分の一の空白。そこが自分の場所だと告げる声が、まだ胸に残っていた。

 息を四つ吸い、四つ吐く。数えることで、何とか声を飲み込む。

 ソコロフがファイルを閉じた。

「本日はここまでとします」

 しかし、誰も立ち上がらなかった。帰りたくない気持ちが、部屋に重く沈んでいた。


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