第20章 赤い記憶
1991年9月。
校舎の奥にある会議室の床には、赤い山ができていた。
スカーフ、バッジ、ポスター、旗。昨日まで「未来」を象徴していたものが、今日はただの不要品として放り出されている。
窓を少し開け放った隙間から、秋風が吹き込み、赤い布の端がはらりと揺れた。
煙草をくわえた上級生が窓辺に腰を掛け、白い灰を床に落とす。
「全部まとめて箱に入れろ。放課後までに片づけろってさ」
声はだるげで、命令というより吐き捨てるようだった。
ミレックと同級生数人は、床に散らばったものを無造作に拾い、段ボール箱に投げ込んでいく。
レーニンの肖像、子どもたちの工作、スローガン入りの横断幕――「労働者万歳」。
それらはガサガサと音を立て、赤や灰色の層をつくっていった。
「これ、新品じゃん」
ヴァーニャが真っ赤なスカーフを持ち上げる。アイロンの跡がまだくっきり残っている。
「だから何だよ」
窓辺の上級生が煙を吐く。
「もう使わない。ゴミと同じだ」
ヴァーニャは鼻で笑ってスカーフを箱へ放り投げた。布は軽く舞い、山の上に沈んでいく。
「俺もいらない」
アントンが自分のスカーフを外し、丸めて投げ入れる。
「これで自由だ」
数人が笑いながら真似をする。
ミレックだけが、首に巻いたまま動かなかった。
「ミレック、お前も外せよ」 誰かが言う。
ミレックは結び目に手をかけた。その時、夏の光、銀紙の矢印、伯母の声が脳裏によみがえった。 喉に残る感触は、ただの布ではない。赤い結びは「過去の遺物」以上の意味を持つ。
ミレックは結び目をほどき、端を揃えて丁寧に畳む。そして、誰にも見せずポケットに入れた。
「持って帰るのか?」
笑い混じりの声。
「まだそんなもの信じてる?」
ミレックは何も答えなかった。
その時、誰かがビニール袋を引っ張り出した。中でざらざらと音がする。
赤いバッジ――金色に輝くレーニンの横顔。
「すげえ! 百個以上あるぞ」
「広場で売ろうぜ! 外国人に。記念品だろ?」
子どもたちが笑い、はしゃぐ。
「馬鹿言うな。誰がこんなもん買うか」
窓辺の上級生が言い捨て、吸い殻を靴で踏み消した。
バッジの入った袋も、他のガラクタと一緒に箱へ投げ込まれた。 金属の重い音が床に響く。
「ミレック、これ……お前が書いてたやつだろ」
茶色い表紙の分厚い活動日誌が差し出される。
「記念に持ってけよ」
ページを開く。几帳面な自分の字。
『1990年9月12日 交流会 夏休みの思い出』
その下に、幼い自分の字が残っていた。
――ゴーリキー公園で観覧車に乗った。アイスクリームを食べた。ペプシを飲んだ。とても楽しかった。――
胸がざわめいた。 紙の上では、まだ自分は笑っていた。
その笑顔を、裏切られたのだ……。 あの日、ニキータと一緒にいた記憶。 「怖くないか」と聞かれて「大丈夫」と答えた自分。 アイスの甘さ、炭酸の泡。 確かに信じて、笑っていた。
その笑いは、もうここにはない。
「急げよ、もうすぐ終わらせろ」
上級生の声に、部屋の空気がさらに冷たくなる。
ミレックは日誌を胸に抱き、誰にも何も言わず会議室を出た。
廊下に出ると、子どもたちの笑い声が遠ざかっていく。 赤い山は背後に取り残され、秋風が冷たく吹き抜けた。
その風は、まだ赤い匂いを運んでいた。