第18章 名のない天気
昼の鐘がふたつ鳴った。教室の空気は、チョークと濡れた羊毛のにおい。窓の下半分は白く曇っていて、外の灰色はまだ地面のあたりを這っている。
翌日、ミレックは二時間遅れて登校した。事件からすでに2週間近くが経過していた。
掲示板には新しいお知らせ――「ピオネールの活動について」
誰も見ない。ペプシの蓋やコーラの空き缶がコレクションとして子どもたちの間で行き来する中、古い伝統の名残は、もはや時代遅れの産物でしかない。活動縮小も終了もどうでもいいことだ。
ミレックは掲示板の前に立ち、お知らせを読んだ。背後では、子どもたちがさわぎながら通り過ぎていく。彼らの多くは制服を着ていない。「自由」という言葉への執着は、学校内の秩序も簡単に乱した。何をしてもよいという風潮があっという間に広がり、「同志」という言葉でさえときに嘲笑の言葉として使われる。
掲示板の前に立つミレックの背をどつき、「そこ、邪魔だ、同志」という具合に。
ミレックは制服を着ている最後の生徒の一人だった。
「まだそんなの着ているの? ダサい」ある生徒は言う。調子に乗って「普通の服を持ってないんだろう」と言いかけ、口を閉ざした。ミレックが持っていないはずはない、ということは誰でも知っていることだから。
教室に入り、ロッカーへ向かった。棚の上には学級文庫。夏休み前、本は半数に減っている。ミレックは自分の本を三冊引き抜いて、席に戻った。
ポケットから丸めたビニール袋を広げ――本を入れかけ、手を止める。
隣の席で、友人のトーリャが分厚い眼鏡の向こうからじっとこちらを見ていた。最後の制服組の一人。左手で頬杖を突き、右手でトラックの形を模した消しゴムを行き来させている。ふと少年は消しゴムをミレックに差し出した。
「これ、あげる」
ミレックはしげしげとそれを眺め、受け取った。「なんで?」とは問わない。少年が何を欲しがっているのかはお見通しだ。
「これ、あげる」
ミレックはビニール袋をしわくちゃのまま隣の席に置いた。マルボロの広告付きのショッピングバッグ。このマークがトレンドなのだ。
ミレックはついでに本を一冊少年の机の上に置く。
「これもあげる」
少年は興味に駆られ、本を開いた。『動物図鑑』。ちょっとページをめくってビニール袋に入れ、袋ごと鞄に押し込んだ。
「ねえ、誘拐されたって本当?」
不意打ちにミレックは言葉を失った。
「あいつらから聞いた」
少年は顔をドアの方に向ける。ヴァーニャとその仲間たちが肩をついたり笑いあったりしている。
「なんて言ってた?」
「お父さんが車を売って、君を買い戻したとか。でも、車、まだガレージにあるの見た」
ミレックと眼鏡の視線に気づいてか、ヴァーニャたちがこちらにやってきた。
「きのう、なにしてた」
ミレックの席に手をつくなり、馬鹿にしたようにヴァーニャが言った。間髪入れずに誰かが答える。
「雨宿り」
「長い雨宿り」
別の誰かが言って笑う。
笑いは小さい。小さいけど長く残った。教室の空気に張り付いて、耳の奥で響く。もうひとりが消しゴムをマイクみたいにして向けてきた。
「暗い部屋は寒かったか? 『寒くない』って、言ってみろよ――」
そのとき、先生が入ってきた。音が止まる。教室に、静けさだけが残った。
「あいつら、ほかにもいろいろ言っている」眼鏡の子がミレックに耳打ちする。 「先生に言った方がいいかも」
* * *
休み時間。
廊下に出ると、白い箱。アンケートの箱。「いじめの相談箱」と書かれている。投入口は細くて、角に赤い毛糸が一本だけ絡んでいる。
ミレックは脇にある用紙に手を伸ばした。指先が紙に触れる。でも、ふと思いとどまり、手を引っ込めた。
四つ吸って、四つ吐く。誘拐されていた二日間、この呼吸で何とか持ちこたえた。数を数えれば、時間が過ぎる。恐怖が薄れる。
箱に目をやりながら思う――ここに紙を入れたら、もう一度、大きなことになるのだろうか。人がたくさん来て、質問して、記録して。あのときのように。警察も、カウンセラーも、記者も、みんな彼を「被害者番号○○」として扱った。
ここには声を置かない。それが今、できる選び方。紙は入れない。名前が、またどこかで数字になりそうだから。
* * *
玄関を出て、校庭へ。砂がまだ少し湿っていて重い。靴ひもを結び直して、かかとを一度だけ踏む。
ポケットに手を入れ、銀紙の矢印に少し触れる。――明日は帰ろう、一人で。
歩幅を合わせて、いち、に、さん――四の手前で、向きを前に決める。決まった歩数を数えることで、心が落ち着く。これも、あの二日間で覚えたことだった。
「ミレック……」
伯母の声。
「待たせた? どこかでお昼でも食べましょう。2時に警察よ。行きましょう」
伯母は甥の手を取りかけ、鞄を持ち替えた。甥がわずかに手を引くのを感じたからだ。ぼくは赤ん坊じゃない……無言で訴えるミレックの心は、伯母の胸に熱く、鋭く刺さった。
空の上のほうで、名のない天気が、午後の向きを探っている。