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金になる声  作者: Mironow
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第17章 供述

 救出から12日後――


 灰色の部屋は薄暗く、空気は紙と消毒のにおいに沈んでいた。窓は曇りガラス。外の形は見えない。壁のカレンダーは五月で止まっていて、数字は黒、枠は白。

 机の上に、白紙と方眼紙。角がぴたりと揃えられたファイル。その端に、カセットレコーダー。赤いランプはまだ消えている。

 ――あの時、警察署の掲示板で見た写真が、胸の奥でまだ脈を打っていた。行方不明の子どもたちの顔写真は三枚。もし四枚目があったなら、それは自分だったかもしれない……。

 そう思うだけで喉が固くなり、声が塞がれた。

 係官は一人。低めの柔らかい声で、「ソコロフです」と自己紹介した。

 隣に記録係の女。紙の端を指で押さえるくせがある。まるで、言葉が紙から逃げないように。伯母も傍らに座っていた。その存在がかろうじて支えだった。父は廊下にいて、気配だけが壁越しに伝わっていた。

 ソコロフ巡査部長は言った。

「今日は、君の言葉で話してもらえればいい。止めたくなったら止めていい。いいね」

 ミレックは、喉を小さく動かしてうなずいた。

 女が紙に日付を書き、一本線を引く音がした。判子の朱印が静かに乾いていく。

「赤い光は隠そうか」

 ソコロフが机の引き出しから灰色のテープを出し、ランプの上に貼った。赤は見えなくなった。ほんの少しだけ、胸の石も軽くなる。

「じゃあ、始めよう。名前は」

「ミレック……」

「年齢は?」

「十」

 ソコロフが方眼紙に数字を書いた。

「覚えている場所を言ってみよう。番号でも、色でもいい」

 息を四つ吸って吐いて、それから。 息を四つ吸って吐いて、それから。

「橋。十二の柱が並んで……影が時計みたいに動いていました。ぼくは十一時の位置にいた」

 ソコロフが一瞬手を止める。時計? 伯母は目を伏せたまま、表情を動かさない。これが甥にとって普通の表現だ、と無言で示していた。

「うん……。十一時の影、ね」

 ソコロフは淡々と書き取った。

「ガレージ。四十七。ネオンが、一度だけ点いた」

「音は聞こえた?」

「蛍光灯の点灯音。440ヘルツのハミング。0.8秒間」

「440ヘルツ?」

「ピアノの『ラ』の音です。でも少し低めでした」

 ソコロフは鉛筆を止めた。この子は音楽的に非常に敏感だ。

「了解。ほかには?」

「ボイラー。すごく静か。電話。スタンドの4番。赤い光が、ちょっとだけ光った」

「ガレージに行く前、どこにいたの?」

 時系列を確かめながら、ソコロフが尋ねた。

「バツ印が見えた場所」

「どんなところ?」

「覚えていません」

「でも見たんでしょ?」

「すぐに寝たから……」

「眠くなった?」

「顔に布を押し付けられて」

 記録係が係官をちらりと見る。

 ソコロフは少し声を落とし、方向を変えるように尋ねた。

「一緒にいた人のこと、覚えているか?」

 ミレックは少し考えてから答えた。

「帽子の人は20分おきに時計を見ます。坊主頭の人はずっとゲーム。食事の前に必ず手を洗う。痩せた男は8回、カセットのケースを弾きました」

「8回?」

「数えてました。不安だったから、数を数えると落ち着くんです」

 伯母が小さく息を吸った。甥のこの習慣を知っていた。

「ほかに誰かいた?」

 言葉が途切れる。ミレックは口を閉ざし、目を伏せた。

 ソコロフはその躊躇に気づき、名を出さずに別の問いを投げた。

「その中で、怒鳴らなかった人は?」

 ミレックはうつむき、答えた。

「うん。怒鳴らない」

「叩かなかった?」

「叩かない」

「じゃあ、その人は何をした?」

「多分……二本の指で……支えてくれた。指先は、三角形の爪。冷たかった」

 ソコロフは少し目を細める。指先の形まで? 伯母は視線を動かさず、ただ甥の背に手を添えた。

 記録係の鉛筆が震え、小さな点を落とす。

 ソコロフは頷き、あえて言葉を和らげて続けた。

「その人は、君に何か言ったかな」

 ミレックは小さく息を吸い、答えた。

「あの……『黙るのは後だ。今は声』って」

 伯母の肩が小さく震える。記録係はその言葉を正確に書き取った。

「その人の名前は?」

 答えはない。

 ソコロフは赤いランプの上のテープを指で軽く押さえた。

「言わないって選択もある。今、言えることだけでいい」

 ミレックはポケットから銀紙を出し、二度折る。小さな矢印が『家へ』を指した。それは『帰りたい』という心の叫びだった。

 女が書類の端を開けた。

「そこに置いて」

 ミレックは白い紙の上に矢印を静かに置いた。

 ソコロフは言葉を選んで尋ねた。

「怖かったのは、いつ?」

「……録音中の赤い点が点いて、息ができなくなったとき」

「嬉しかったのは?」

「スタンドで。車のドアが開いて……誰かが背中を押してくれたとき」

 伯母が小さく息を落とす。

「泣いた?」

 ミレックは目を伏せ押し黙る。何か言いかけ、小さくうなずいた。

「一度だけ……橋で」

「いいんだよ」

 ソコロフは優しく言い、レコーダーのスイッチに指をかけた。

「最後に、もう一度だけ。声をもらえたら」

 短くうなずく。録音が始まる。

「名前は?」

「ミレック……」

「元気?」

 ためらい、4つ息を吸って言う。

「元気」

「寒い?」

「寒くない」

「帰れる?」

 ミレックは喉に手を置いた。「……帰る」

 スイッチが止まる。白い紙が閉じられる。

 ソコロフは言った。

「今日はここまで。続きは明日でも明後日でも。歌の時間にしたっていい。うちの子も、そうやって気持ちを落ち着けるから」

 伯母が、ほんの少しだけ笑った。笑わせようとして笑ったのではなく、ただ、胸に置いていた重みがわずかに動いたから。


 * * *


 廊下に出ると、父がベンチに腰を掛けて待っていた。二人を見ると短く頷くだけで、ほとんど何も言わなかった。

 外の灰色は淡くなっていた。ミレックはポケットに手を入れ、銀色の矢印にちょっとだけ触れた。

 歩道の線に足を合わせ、半歩だけ――前へ。



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