第15章 灰色の廊下
救出から一週間後。
警察署の廊下には、消毒液と古い紙の匂いがこもっていた。蛍光灯は低くうなり、灰色の掲示板には「内務省」の通達が押しピンで留められ、角はすり減って丸くなっている。
窓口では、伯母が迷いなく答えていた。
「名前」「生年月日」「連絡先」――声はまっすぐで、線が乱れない。
金属のベンチに腰かけたミレックは、靴のつま先を半歩だけ床の線から引き、そこに小さな落ち着きを見出していた。奥の部屋からは、タイプライターの音がカタカタと響いてくる。工程、外貨、伝票……父の声が混じっていた。数字の話になると、やさしい響きが消え、硬い調子に変わる。
その同じ音を、隣室でも聞いていた。ウラジーミル・イワノフ――自治会長――は背筋を伸ばして座り、ソコロフ警部の「事実だけで結構です」に小さくうなずいた。
「掲示は三枚目でした。管理人立会い。角は画びょうを二度、小槌で。縁は透明テープで一周。貼付記録は『№3/本日付』、施錠を確認」
「施錠の直後、路地の陰で葡萄色のラーダが一度だけライトを点け、すぐに消灯。運転手は見えません。車種は不詳、色だけを記憶しています」
タイプバーが紙に乾いた音を刻む。ソコロフは相槌も評価も与えない。必要な線だけを鉛筆で引き、端をそろえる。
「以上です」
イワノフはそれだけを置き、椅子の脚を音を立てない角度で戻した。
イワノフが出ていくのと入れ替わりに、伯母が呼ばれた。案内されたのは、別室だった。狭い部屋には机と椅子が二つ、窓は厚いカーテンで覆われている。そこにソコロフ警部が立っていた。
「エレーナさん」
彼の声は低く、いつもより慎重だった。
「ここだけの話にしていただきたい」
伯母は静かにうなずいた。
ソコロフは書類の束を机に置き、指先で整えながら言った。
「救出のきっかけになったのは、匿名の通報でした。『子どもを連れた男たちがいる』――その報せが、定点巡回の位置と重なった」
伯母の心臓が一度だけ大きく打った。
「匿名……?」
ソコロフは視線を落としたまま続ける。
「記録には残せません。ですが、通報はただの市民からではなかった。線がすぐに動いたのは……『あちら』からの指示が入ったからです」
伯母は息をのんだ。『あちら』がどこを意味するか、説明はいらなかった。
やはり、あの人……。
「公式には誰にも言えません。あなたにも……甥御さんにも」
「分かっています」
声は硬かった。だが胸の奥で、複雑な感情が交錯する。
なぜ彼は、私に何も言わず『あちら』に電話を? 恐れから逃げたのか、それとも……。
扉が再び開き、父が取り調べを終えて出てきた。目の下には深い影が落ち、歩みは重かった。廊下で、伯母と父は短く言葉を交わした。
「待たせたな。すまなかった」
「大丈夫だった?」
父は何も言わず、視線を逸らした。
***
三人は警察署を出て、学校へ向かった。校門の前で伯母はミレックのズボンのほこりを払い、靴の紐を結び直してやる。最後に、白いハイソックスをきゅっと引き上げた。
「すぐ迎えに来るから」
ミレックはうなずき、背筋を伸ばして教室へ向かっていく。小さな背中が角を曲がって消えたとき、父がふいに口を開いた。
「三時まで、少し時間がある。……食堂に行かないか」
伯母は一瞬ためらった。気分ではない。だが父の声には疲労がにじんでいて、強くは断れなかった。
「行きましょう」
二人は並んでトラムに乗り込む。窓の外で街路樹が逆向きに流れた。伯母は腕を組み、父は何度も時計を確かめる。言葉は少ないが、それぞれの胸には別の声が渦巻いていた。
そのころ、校舎の中。ミレックが教室へ入ると、背の高いヴァーニャが近づいてきた。
「ピオネールの日、どこにいた?」
にやりと笑い、前の席の子がくすっと笑う。
「雨宿り……」
答えると、ヴァーニャは肩をすくめた。
「長い雨宿りだな」
チョークの粉がまだ爪の隙間に白い。ミレックはそれを見て、口を閉ざした。
***
大学の本部棟。赤い星を掲げた棟の二階にある教員食堂。昼下がりの店内は、授業の合間を縫う人々で賑わっていたが、ピークを過ぎて空席も目立つ。白いエプロンのウェイトレスがトレイを軽やかに運び、窓辺では別の教授が孫を連れて食事をしていた。少年がケーキを欲しがり、母親にたしなめられる。その笑い声が一瞬こちらまで届く。
二人の前に並べられたのは、遅い昼食の定食。スープ、肉料理、黒パン。父はカウンターで小瓶のワインを受け取り、グラスに注いだ。
伯母がため息をつく。
「研究と数字のことばかり考えているんですね……」
「私の立場もある。教授会、外国からの来客、学会。切れ目なく続く」
父の声は低く、硬い。
「少しは休んで。限界なのはわかっている」
伯母は少し間を置き、続けた。
「あなたが一度も電話に出なかったことについては、何も言わない」
父はグラスの縁に指を置いたまま、しばらく動かさなかった。指先がかすかに汗ばむ。視線が窓の外にほどけ、戻る。
「受話器に手を伸ばした。でも……取れなかったんだ」
「それもわかっている。あなたは自分のやり方で、できることをした」
父は目を伏せる。
「でも今は、別の助けが必要なの」
伯母は弟の顔を見据える。
「三日でもいいからここを出て。仕事を忘れて」
「そんなこと不可能だ」
父は目をそらし、足を組み替えた。横顔に七歳のころの幼い面影が重なる。精神を病んだ女の家――警官が取り囲み、怒号が飛ぶ。狂った部屋、異常な壁の中、女に抱きすくめられ、涙が止まらなかった三日間。知性や名誉で塗り固めてきた傷は、ふとしたことでまた開く。事情聴取の若い警官が、何気ない調子で問うたときの、口元に走った一瞬のゆがみ――その映り込みが、いまも離れない。
「壊れた人間扱いするな」
「壊れてなんかいない。傷ついているだけ」
「同じことだ」
「違う。あなたを助けたいの」
伯母はテーブルクロスの皺を指でなぞって整えた。
「クリニックの住所、メモに書いた。行くか行かないかは、あなたが決めて」
父は頷きも否も持てず、腕時計を二度見る。秒針の音だけが耳に残った。
「電話は、わたしにかかってきた。あなたじゃない」
「そうだろうが、世間はそうは思わない。私は父親だ。あの子を守るのは私の役目だ」
「だからこそ、アンドレイ。休みを取って、行って」
父は椅子に背をもたせ、乾いた笑いを一度だけ短く漏らした。
「無能だとはっきり言えばいいだろ」
「言ってほしいの? 言わないわよ」
白いエプロンのウェイトレスが伝票を持って近づいたが、張り詰めた空気に押されて足を止めた。小さく「すみません」と言って、そっと後ずさる。
二人の間に残ったのは、食べ終えた皿と、冷めかけた紅茶だけだった。