第1章 雨の朝
1991年5月――
去年の白い線は、雨に消えた。あのチョークの道はもうない。でも、その上に、新しい線が引かれようとしていた。
祝日の朝。雨は止んだかと思えば、すぐに細かく降り始める。雨はやんでは戻る。ときおり雲の切れ間から細い光が窓越しに差し、金の糸のようなミレックの髪を撫でた。すぐ消え、色はまた元に戻る。残る色はシャツの白とスカーフの赤、半ズボンの紺とハイソックスの白。
ミレックはシャツの襟を押さえ、赤いスカーフの結び目をきゅっと締めた。
1991年5月、今年もピオネール(ソ連時代の少年団)の恒例イベントが行われた。プログラムは例年の半分。行かない子が多い。後ろの笑いも来ない。だから行く。いじめっ子に合わずにすむのなら。でも、気は重い。
ミレックは時計をちらっと見る。時間が迫っている。 息を吸い、四つ数えて四つで吐く。
右手を上げ、鏡に向かって「サリュート!」
左を向いて、「まえへ!」
自分で自分に号令をかけ、気持ちを前進させる。廊下を行ったり来たりしながら、ピオネールの歌を小声で歌う。 ソプラノの声が旋律を描く。鈴を転がしたような、自慢の声。でも、ふいに止まる。
――結び目が、変だ。
ミレックはスカーフを緩めた。鏡の前に立ち、もう一度結びなおす。苦心して作ったのは、またしても不格好な結び目。けれど、結びなおしている時間はもうない。
「そろそろ出かけるのか?」 書斎から父の声。
「遅刻しそう」
「急げ。車は出さない。どこも混んでいる。歩いた方が早い」
渋滞は理由の半分、時間がないというのが半分。
父は忙しい。台所に立つことは少なく、二人の外食は大学二階の教員食堂で済む。言葉は短く、列の先頭にすぐ席を譲る。ここでも列。どこでも列。買う列は店の方へ、売る列は道路の方へ伸びる。運転席に座るたびに、父はぼやく。プーシキン広場に「西側」の人気ハンバーガーショップがオープンしてからというもの、渋滞がひどくなった、と。黄色いMマークの前から列は長く伸び、一駅分を超える。それでも最後尾は見えない。人混みが車道を封鎖し、通りはいつも詰まっている。父は運転席で短く息を吐き、回り道の石畳を白いラーダで走り抜ける。ライオンの光る車は新車のままガレージだ。アスファルトの凹みで車体を傷つけたくないから。
少し前までは、渋滞も列もほとんどなかった。外の車も外の店もなかったが、棚は今より満ちていて、進む向きは前もって決まっていた。十歳のミレックはよく知らない。ただ、背中のすぐ後ろに、別の暮らしが確かにあった。
変化は、気づいたときにはもう終わっていた。経済が傾くのといっしょに、市民の「向き」を決めていた大きな矢印も斜めになった。矢印の担い手だったはずの像は、台座に足首だけを残し、消えていった。その残骸――ギザギザの金属は容赦なくスプレーが吹き付けられた末、黄色や白の文字となった。通行人の笑いを誘う文字。
「なんて書いてあるの?」
広場の前を歩いていたとき、ミレックは落書きを指さして父に聞いた。父は横目で見る。何も言わない。音のない声だけが、「知らないでいい」と告げた。
ミレックは今、鏡の前で最後の支度にとりかかる。シャツの袖のボタンを留め、両手で金髪をなでつける。赤いバッジのピンを外し、胸ポケットの上に差し込む。
書斎からは、スピーカーが低い音を立てている。時報はまだ。アナウンサーは「改革」「自由」を繰り返す。昨日は額にあざのあるあの人が一日中しゃべっていた。あの声は決して枯れない。
アナウンサーに続き、天気予報の声。今日は雨。降ったりやんだり。風向きは北東。
「今日は寒い。タイツを履いていけ」と父。
「いいよ、これで」
ミレックはアディダスの白いハイソックスをひざまで引き上げ、靴ひもを結んだ。
「行ってきます」
父の声を受け取らないまま、急いで外へ飛び出した。
背後にドアの閉まる音。靴底が踊り場でねっとり音を立てる。時計は見ない。けれど背中は押される。遅刻票、グループの目、リーダーの目、遅刻の罰則、叱責と嘲笑。これらが靴底の小石みたいに、歩くたびにそこにいる。
七時五十五分。集合は八時。旗の掲揚と歌、点呼。
階段を駆け下りる。二色に塗られた壁には雨の筋。鉄の手すりは、夜の匂いをまだ少し抱いている。
空は灰色。水たまりに雲がぼんやり映り、通りを行く足音だけが長く上に伸びた。
校庭のほうから歌がかすかに流れてくる。言葉は風で崩れ、数える声だけが残る。
「いち、に、さん……」
四のところで足が止まる。角を曲がると、男が待っていた。
――また、会った。
ニキータ。黒いコートの襟を立て、手はポケット。その目には柔らかい光が宿っている。ミレックが来るのを知っていたかのように、彼はそこに立っていた。
大人の黒と空の灰色の狭間で、ミレックの赤いスカーフの結び目が明かりのように小さく灯る。
「おう」
「あっ……おはよう」
「急がなくていい。濡れるな。送ってやる」
「学校のほうに?」
「そうだ」
「大通りは混んでる。点呼に遅れたくない」
「名前は逃げない。遅れることにも意味がある」
ミレックは何も言わない。意味を問い返す前に自分で考えたい。でも、あとで。
「今日、当番か?」
「違うよ」
「なら平気だ」
「平気じゃない。歌が二曲あって、終わったら……」
「二曲なら、もう一曲目が始まってる」
ニキータはキオスクの列の脇を早足で進む。ビニールが擦れる細い音がつづく。立て看板の白い板に、子どもの顔写真が三つ。紙は新しく、端だけが劣化している。写真の上に「行方不明」の文字。活字は古びても意味は色あせない。
ミレックはそれを目にしながらも、見なかったふりで素通りする。その存在を知っているはずなのに、無意識のうちに目を逸らした。
「寒いか」
「少し」
ニキータが銀色の包みを出す。外国製のガムを半分。
「ありがとう……あとで噛む」
ニキータは一度だけ、その看板に視線を向けた。ほんの一瞬の、誰にも気づかれないような、かすかな目の動き。
角を曲がると、黒い車が路肩に寄っていた。窓が少し下がる。ニキータの紫色のラーダとは違う、少し大きい四角い車だ。
「乗れ」
ミレックの足がすくんだ。
「歩いたほうが早い」
「濡れるぞ」
「いつもの車じゃないね……」
「社長のだ」
ニキータはドアを開け、目で「早くしろ」と告げた。ミレックは立ち止まり、もじもじと足踏みする。ニキータと一緒なら……との思いが一瞬胸をかすめた。車体に潜り込み、冷たいシートに腰を下ろす。乗らなければよかった、とすぐに後悔する。車内にはゴムとガソリン、煙草の匂いが充満し、胸が悪くなりそうだった。やっぱり降りる、と言いかけたときには、すでに遅い。ワイパーが動き、ガラスを白く塗りつぶした。運転席の痩せた男は無言のままハンドルを切り、通りを迂回して逆方向にスピードを切った。
頭上のどこかで、名もない天気が、今日の行き先をもう決めている。