第14章 病院の白い灯の下で
白い蛍光灯が廊下を容赦なく照らし、薬品の匂いと消毒液の冷気が肌にまとわりついた。
担架の車輪が硬い床を叩き、金属音が響く。伯母は息を切らしながら横を走り、父アンドレイはスーツの上着をはためかせ、乱れた呼吸で後を追った。
病室の扉が開かれると、医師と看護師が一斉に動き出す。脈を取り、瞼を開き、酸素マスクが顔に押し当てられた。
モニターの電子音が不規則に鳴り、白いベッドの上でミレックは小さな影となって横たわっている。
「どうだ!」
父は扉の枠に両手を突き、声を震わせて叫んだ。
医師は淡々とカルテに目を落とし、静かに告げた。
「命に別状はありません。ただし――きわめて危険な状態でした」
言葉は冷静だが、その内容は鋭い刃のようだった。
「食事はほとんど取っていなかったはずです。脱水は重度で、血液の数値は危険域です。……声帯に炎症があります。長時間、叫び続けていたか、過呼吸を繰り返した痕跡です」
父の肩が震えた。
「ご覧ください。首にはスカーフで強く締められたような跡。さらに、揮発性薬品――エーテル系の反応が出ています」
伯母は口を押さえ、父はその場に崩れそうになった。
「酸素不足、衰弱、脱水。この三つが重なれば……あと数時間で命を落としていたでしょう」
その説明を聞きながら、父の頭の奥に別の記憶がよみがえる。
――息子が虫垂炎の手術を受けた夜。
「大丈夫だ」と言い残して仕事に戻ったあの日。冷静を装い、自分の恐怖から逃げた。だが今、目の前で小さな胸が上下するのを見た瞬間、冷静さも肩書きも、すべて吹き飛んだ。
「ミロスラフ!」
抑えていた声が決壊した。父はシーツに縋りつき、顔を押し当てた。
「ほら、ミレック! お父さんだ! お願いだ、戻ってきてくれ……!」
嗚咽で声が潰れ、言葉は途切れ途切れになる。
乱れた髪は額に張りつき、ネクタイは胸元でほどけ、教授としての威厳も男の体裁も、粉々に砕けていた。
「神さま……! どうか、息子を助けてください!」
信仰を口にしたことのない男が、狂おしいまでの祈りを吐き出す。
看護師が止めようと駆け寄るが、伯母が低く首を振った。
「いいの。泣かせてあげて」
その声は遠い水底から響くように、ミレックの耳に届いていた。
意識は霧に閉ざされ、言葉も形も曖昧だった。
――それでも確かに、自分の名を呼び、泣き崩れる父の声だけは胸の奥に残った。
やがて力尽き、看護師と伯母に抱き起こされる父。
「離してくれ……あの子のそばにいさせてくれ……!」
抵抗する姿は、教授でも権威者でもなく、ただ一人の父だった。
そのとき――
父の脳裏に、ある光景が閃いた。
家を出ていく息子の後ろ姿。振り返らずに去っていく小さな背中。 そして、ずり落ちかけた白いハイソックス。
直してやればよかった。声をかけてやればよかった。 あの一瞬の怠慢が、すべての後悔の起点となった。
病室には、点滴の雫が落ちる音と呼吸器の低いうなりだけが残った。
ミレックは瞼を閉じたまま、胸の奥に小さな波紋を感じていた。 それはやがて三十年後、父の病床で「あの時の声」として蘇ることになる。 今はただ、白い光の中に封じ込められていた。