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金になる声  作者: Mironow
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第13章 給油スタンド

 UAZ (バン型軍用車両)は雨の糸を切って、灯りの少ないスタンドに滑り込んだ。 舗装の黒はぬめり、白線は剥げかけている。

 ポンプ番号――四。胸の高さに赤い四角の非常停止ボタン。

「満タンじゃなくていい」

 帽子の男が助手席のドアを開けながら言った。

「人がいる」痩せた男が低くつぶやく。

「いつもいるだろう」帽子の男は短く返し、売店へ向かった。

 痩せた男がノズルを引き出す。銀のキャップが外れる音がやけに大きく響いた。 金具が冷たい音を二度鳴らし、ポンプの数字が回り始める。

 ――時計の針が加速している。

 ミレックの耳にはそう聞こえた。

 ニキータの手がミレックの肩にそっと触れた。 少年の皮膚は焼けるように熱い。 泣かないと自分に誓った子どもが、今にも泣き崩れそうに震えている。

――もう持たない。

 胸の奥で、誰にも聞こえない声がした。

 ニキータは歯の欠けた一本の鍵を、少年の掌に押し込んだ。 冷たい金属が汗で濡れ、滑りそうになる。

――これは逃げ道だ。お守りにしろ。後で使える。

 スタンドの端。ミリツィアの車の青い回転灯が、音もなく回っている。 青い光が舗装ににじむたび、心臓が縮む。

 もし警察が踏み込めば、連中も自分も終わる。 だが――この子の声は、もう「商品」じゃなくなる。

 半開きのドア。赤い四角が目に入る。 非常停止ボタン。

 腕を伸ばし、ボタンに触れたとき、ほんの一秒、指先がためらった。

――押せば全てが崩れる。だが押さなければ――この子は消える。

 カチリ。 警告灯が一瞬だけ光り、ポンプが「息を止めた」。 ノズルの先から、ガソリンが一滴落ちる。

 ――声は渡した。身体は渡さない。

 その言葉が胸に閃く。耳にはあの「帰る!」という叫びが焼き付いていた。 耳障りではなく、なぜか火を灯す声として。

「右に出ろ。柵がある」 囁きは指示であると同時に、願いでもあった。

 次の瞬間、ミレックが飛び出した。 靴のない足裏に冷たい舗装が突き刺さり、白いハイソックスが泥をはねる。 ミレックは死に物狂いで地面を蹴った。 呼吸はちぎれ、肺が焼ける。耳の奥で血が轟く。

 柵が見えた。肩を差し込む――その瞬間。 痩せた男が首のスカーフを引き、少年の体が宙に浮く。

「戻れ!」

 肺が爆ぜそうな子どもの目が、ニキータの目をかすめた。 その瞳には「助けて」が刻まれていた。

 ニキータの心臓が一瞬止まり、次の拍動で――痩せた男の手が緩む。

「待て!」帽子の男の怒声。

 だがもう遅い。 ミレックは柵をくぐり抜け、影の中へ消えていった。


 * * *


 闇の中。 青い光を背に、黒いシルエットが浮かび上がる。

「ミレック」

 伯母の声だった。小さく、鋭く、まっすぐ。

 走る。肺が裂けるほど吸って、吐いて。 伯母は走らない。ただ影を沿うように歩き、声で道を示す。

「こっち」

 角を曲がる。鉄板を踏み、音が響く。 伯母の手が一度だけ手首に触れて、すぐ離れる。つかまない。 迷いと決意が混じった触れ方。

 路地に小さな車が鼻を突っ込んでいた。ドアが開く。

「乗れ」

 その声で足が動いた。

 背後で UAZ のエンジンが吠える。砂利が跳ねる前にドアが閉じた。

 車が滑り出す。ミレックは肩で息をしながら窓に額を寄せる。 息を四つ吸い、四つ吐く。

 伯母が腕を伸ばし、ミレックを痛いほどぎゅっと抱き寄せる。 ――もうどこにもやらない。 両方の腕を小さな体に回し、そのぬくもりを確かめる。

「私がついているから、大丈夫。よく頑張ったね」

 甥は何も言わない。うなずきもしない。

「ミレック……」

 見ると、小さな甥は伯母の胸に顔をうずめたまま、意識を失っていた。


 後ろに残ったニキータは、赤い非常停止ボタンをもう一度見た。 それは自分の選んだ線だった。

 そして心の中でつぶやいた。

――これで俺の背中は焼けるだろう。だが、それでいい。

 UAZが走り去った方向とは逆へ靴先を向け、車列の間を走り抜ける。車線を踏み、道路を横切り、やがて駅に降り立つ。キオスクのラジオから流れ出る速報の声が耳に入り込んでくる。それでも、歩を緩めない。陽光に煽られ、風に流されるかのように、その場から消えた。




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