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金になる声  作者: Mironow
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第12章 ボイラー棟

 裏手のボイラー施設。煉瓦の壁に太いパイプが何本も張りつき、継ぎ目から白い蒸気がこぼれている。圧力計の針は微かに震えていて、音は、ないわけじゃないが静かだ。呼吸をやめた巨人の心臓がまだ動いているような、そんな静けさが空気を支配していた。

 出入り口の小さな庇。割れたガラスはテープで止められている。床は濡れたところと乾いたところがまだらに縞を描いていた。守衛が黒いダイヤル電話をこちらに向ける。コードは硬く、凍り付いているかのようだ。机の隅には伝票が差し込まれていて、角が一枚だけ、犬の歯で噛まれたように欠けていた。

 帽子の男が受話器を手に、名乗らない誰かと短く話し始める。彼は「上」と直接つながりのある唯一の男だ。

「ああ……」

「子どもは手元に。紙が来ても動くな。連絡するまでそのまま」

 相槌はない。受話器の重さのほうが、言葉より多い。指が灰皿の縁を、コトンと一度だけ叩いた。

 ミレックは白いハイソックスのつま先を床の乾いた線に合わせる。濡れたほうに踏み出せば、冷たさが脛まで突き上げる。靴は今もラジエーターの前だ。履かせてもらえぬまま、ここへ連れてこられた。小さな指が無意識に赤いリボンの結び目を押さえ、荒くなる呼吸を喉の奥に押し戻す。――泣かない。絶対に泣かない。

 痩せた男が帽子の男に小さく声を落とす。

「ルーブルで。屋根の支払いが先だ」

「外貨のほうが早い」

 帽子の男は受話器の口を手で覆い、鋭く答える。

「今の相場で?」

 痩せた男が詰め寄る。

「動いてるから、今なんだ」

 二人のやり取りを、ニキータは黙って聞いていた。ふと横目でミレックを見る。

 小さな肩はこわばり、唇の色は薄い。もう限界が近い――そう悟った瞬間、彼の胸に重い決意が沈んだ。

 ――声だけじゃ終わらない。このまま渡したら、この子は生きて帰らない……。

 ほんの一瞬の視線。それだけで、彼は自分の向きを変え始めていた。

 通話が終わる。守衛が顎でメモを示した。

 ――給油スタンドで指示を待て――

「何番だ?」帽子の男。

「四」守衛の答え。

「おばさんに『寒くない』とだけ言え。場所は言うな」帽子の男が振り返らずに言った。受話器がミレックに向けられる。

 遠くで、何かがつながる。紙の向こうから届くような、かすかな呼吸。

「ミレックだよ……」

 声が震え、低く出た。喉の奥で丸い石がゴクリと動く。

「寒くない。元気……」

 次の言葉を言う前に受話器は取り上げられた。黒い樹脂の冷たさが手のひらに残る。

「十分だ」

 帽子の男が切り捨てる。通話はそれで終わった。

 その横で、ニキータは拳を握った。声が今にも潰れそうな少年を、もうこれ以上は持たせられない。

 ――次で……終わらせる。

 そう胸に刻み込む。

 痩せた男が言う。

「ここには長くいられない」

「スタンドに移動だ」帽子の男が短く返す。

 守衛が窓の外を見やり、言った。

「巡回をずらした。十五分は空けた。――今だ」

 鍵束が机に置かれる。金属音が短く跳ねた。

 ニキータはその鍵を一度だけ見つめ、すぐに目をそらす。

 ――声だけのはずだった……。

 だが、すでに別の選択肢を心の奥で抱えた男がいた。

 外に出ると、パイプのかすかな音が背中を押した。蒸気の匂いが雨に混じり、遠くに給油スタンドの赤い光がにじんでいる。



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