間章 向かいの白
夜、窓が二つ。向かいの団地と、こっちの団地。
三階のおばさんの部屋には、本が多い。壁に証書が額に入って掛けてある。おばさんはモスクワ大学出。お父さんより七つ年上。あまり怒らない人。たぶん、ぼくにとっていちばん近い大人。
台所では、やかんの湯気が白く揺れていた。
「明日はここからね」と、おばさんが紙に矢印を三つ描く。門→横断歩道→三階。
ぼくは、うなずく。いち、に、さん――歩幅の数。
おばさんが引き出しの奥から白いハイソックスを出してくる。ドルショップで買ったもの。口に小さな黒い葉の刺繍。
「すぐ汚れちゃうから、帰ったらすぐ水にね」
「うん。これ、かっこいいね」
おばさんは、二本の指でハイソックスの口をそっと整える。引っぱるんじゃなくて、少しだけ触れて揃えるみたいな。
「似合ってるよ」
向かいの窓はお父さんの部屋。机の上は、図面と相場と伝票でいっぱい。 お父さんもモスクワ大学。経済の先生。外国ともやり取りできる人。見本市のパンフをめくりながら短く言う。
「ここは耐荷重」
「これは規格」
言葉はいつも短い。
夜更け。窓が向かい合って灯っている。 おばさんの部屋では、白い糸がハイソックスの口に一目だけ足されている。 お父さんの部屋では、黒い数字が一行だけ増える。
ぼくは紙に矢印を一本だけ描く。家→おばさんの部屋。
赤いスカーフは椅子の背に。まだ、結び目はつくらない。
朝、鍵はお父さんのポケットへ。白いハイソックスはおばさんの洗面器へ。 ぼくは鏡の前で、自分の白/濃紺/白を見て確認する。
外は灰色。名のない天気は、まだ今日の向きを決めていない。
でも、窓がある。向かいに灯る窓が一本あれば、帰る矢印はそれだけで足りる。