第11章 父の沈黙
書斎の灯りは薄かった。 蛍光灯の低いうなりが、為替の表に影を落としている。 鉛筆で線を引いても、数字は頭に入ってこなかった。
電話は鳴らない。 だが、もし自分が出れば、声の調子一つで息子を殺すことになるかもしれない。 その恐怖が、胸の奥で硬い石のように膨らんでいった。
名刺の束を揃え、呼吸を整える。 静かに見せるしかない。 しかし実際には、心の内は乱れていた。
姉に任せている自分を軽蔑しながら、それでも受話器に手を伸ばす勇気は持てなかった。
やっと電話が鳴る。 一本目、仕事。二本目も仕事。 三本目――姉からだった。
「声が来た。聞いたわ」
背筋がこわばる。受話器を握る指が湿る。
「お金は?」
抑えた声。震えが漏れぬように。
「今日中に用意する」
「私の口座を開ける」
「待って。大丈夫。今のところ
姉の声ははっきりしていた。迷いはなかった。
受話器を置いたあと、父は机に肘をつき、額を支えた。 頭に浮かぶのは数字ではない。
そのとき、机の端に差し込んでいた名刺が目に入った。
「内務省」の刻印が押された一枚。 教授会で交換したまま、使ったこともない。
気づけば、その番号を指先でなぞっていた。 ほんの数秒。 そして、恐怖に背中を押されるように、ダイヤルを一度だけ回した。 回線がつながる前に、彼は受話器を置いた。
――それでも、その一度きりの「動作」が、どこかへ波紋のように広がっていく予感がした。
朝、家を出ていく息子の姿が目に浮かぶ。
ちらりと目に入ったのは、少しずり落ちた白いハイソックス。 直してやればよかった。 見送ってやればよかった。 それが、最後に見た息子の後ろ姿だった。
冷静さの仮面をかぶりながら、胸の奥では別の声が響いていた。
――動け。 ――いや、動くな。
二つの声に挟まれたまま、父は机に突っ伏すように座り続けた。 そして後悔は、その瞬間から始まった。