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金になる声  作者: Mironow
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第10章 ガレージ V-47の朝

 白いペンキの縞が塗り重ねられた鉄の門に、かすれた数字があった。V-47。七の横棒は錆びて消えかかっている。

 ガレージの扉が持ち上がり、カラカラと乾いた音が二度。油と鉄と濡れた土の匂いが混じり合う。

 ネオン管が一度だけ瞬いて落ち着く。ラーダ。工具。瓶。小さなストーブ。

 土と埃の入り混じった冷たい床の上で、ミレックは揺り起こされた。

「おい……」

「起きろ……ほら……」

 重い倦怠感の中で目を覚ます。ひどく気分が悪かった。首を絞められたかのように喉が痛み、息をするのもやっとだった。

 男の声が聞こえた。

「起こせ。声がいる」

「もう起きている」

 二人の声。

「ミレック、起きろ。これを飲め」

 炭酸水が口に注がれる。喉で泡がはじけ、頭が澄んだ。

「ここはどこ?」

 無意識に問いかけたが、答えはなかった。

 橋で伯母の顔を見た後の記憶は、靄に包まれている。怒号。ひどいにおいの布。鼻腔に焼きついた甘苦い匂い。そして――途切れる意識。

 ただ一つ、くっきり残った像がある。

 黒っぽい壁に描かれた白い大きなバツ印。

「何かを外した跡」のように見えたその印は、まるで彼を沈黙させるためだけに塗られていたかのようだった。

 再び意識が遠のき、次に目を覚ましたときは靴を脱がされていた。ミレックには短い夢のように思えたが、実際には六時間以上が経過していた。

「靴はあそこだ。乾かしとくから」

 ニキータが顎でラジエーターを示した。

「走れないほうがいい」

 痩せた男が低く言った。

 ミレックは膝を抱えて座り直した。白いハイソックスがコンクリートの粉を吸っている。

 ニキータがしゃがみ込み、低い声で言った。

「大丈夫か?」

 うなずくと、彼は小さくため息をついた。

「すまなかったな」

 そう言って、手にしたペットボトルの水をぐいと飲む。

「なあ。橋で落としたろ。銀の紙」

 ミレックはうなずいた。

「拾われるといいな」――その声には、自分自身への慰めも混じっていた。

 扉が上がり、帽子の男が入ってくる。廊下へ向かい、受話器を持ち上げる。円盤の数字穴に指が入り、カチ、カチ、カチと戻る音が二度、三度。回線の呼吸がつながる。

 廊下の向こうから、男の低い声。

「声は渡した。昨夜だ。上手く撒いた……ああ……」

 やがて声の主が部屋に戻る。冷気をまとったような顔で告げる。

「上が動いた。連絡が入り次第、移動だ」

「上に渡すのか」

 ニキータの声は低く震えていた。

「そうだ」

 空気が凍る。

 ――声だけで済むはずだった。

 だが「上」に渡されると聞いた瞬間、ニキータの計算は音を立てて崩れ落ちた。戻るのは金だけ。子どもは帰らない。

「聞いてない」

 思わず声が漏れた。

「今、言っただろ」帽子の男が声を荒げる。

「消せば早いのに」痩せた男が呟く。

「線を越えるな」

 ニキータの低い声が場の向きを変えた。

 帽子の男は紙の角を揃え、「電話だ。ボイラー棟へ移動だ」とだけ告げた。


 * * *


 移動前の車内。

 雨が斜めに流れ、ワイパーが一呼吸遅れて追う。

 ミレックはニキータと並んで後ろのシートに座り、話しかける瞬間を待っていた。ドア側に座ったニキータは窓の外に目を向け、不機嫌そうに押し黙っている。声を出していいのかすらわからなかったが、一瞬の逡巡ののち、小さな声がすんなりと出た。

「どうして……どうして、ぼくを?」

 ミレックの声は震えていた。ニキータが振り返るより先に、次の言葉が出そうになる。

 ――誘拐するため、ぼくと友だちになったの?

 寸でのところで、言葉をごくんと飲み込んだ。答えを聞くのは怖いし、どうせ嘘をつくに決まっている。

 ニキータは前を見たまま、短く沈黙した。

「お父さんは外貨を触るだろう。だからだ」

「でも、ぼくじゃなくても」

「ここで浮く子は少ない。かわいい声ほど、向こうの心拍は上がる」

 ミレックは言葉を探したが、見つからなかった。鼻にこびりつく薬品のにおいが、瞼を重くする。

「ごめんなさい。ぼく……もう泣かない」

 その言葉は幼い決意であると同時に、泣くことを自ら禁じる呪いの言葉でもあった。

 この瞬間から――彼は本当に泣けなくなった。三十年もの長いあいだ。

 眠りに沈んでいきながら、ミレックはニキータの低い声を聞いた。

「悪いのは俺だ」

 そのときは理解できなかった。

 ただ――ずっと後になって思い返したとき、あれは赦しを乞う声ではなく、すべての向きを引き受ける決意の声だったと気づいた。




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