間章 計画
1991年2月――事件発生の三か月前。
モスクワは揺れていた。広場には数万人の人波。プラカード、叫び声、割れたガラス。ゴルバチョフ退陣を求める怒号は冬の曇天に突き刺さり、街角には放置されたトラムの残骸や、炎に焼けただれた車が転がっていた。
国家が軋み、崩れ落ちていく音が、どこにいても耳の奥に残った。
その喧騒から少し離れた倉庫街。 鉄扉の隙間を抜けた冷気の中で、裸電球だけが揺れ、埃をかぶった棚が影を落としている。机の上には新聞記事の切り抜きと学校の集合写真。掲示板から剥がされた子どもたちの顔写真が三枚――「冬帽子の子」「襟章の子」「笑っていない顔の子」。
いずれも行方不明になり、時が経過していた。
帽子の男が煙草をくわえ、写真を指で弾いた。
「前の三人のときは、金の出どころが小さすぎた。結果は見ただろう。次はもっと価値のあるやつにする」
痩せた男が鼻で笑う。
「小魚を釣っても腹はふくれん」
坊主頭の男が口を挟んだ。
「なら、こいつはどうだ。親父が馬肉の輸出入で羽振りがいい。十二歳。まとめて出せる」
帽子の男は渋い顔で首を振る。
「声が普通だ。見た目も平凡。肥満児は足手まといになる」
痩せた男が新しい写真を机に滑らせた。
「市内に最近三つ店を出した家だ。母親は専業主婦。息子は十四。裕福だし、多少は出す」
「十四か……声がもう変わってるな。扱いにくい」
帽子の男が即座に切り捨てる。
沈黙。写真がまためくられる。
残ったのは、白いチョッキと半ズボン、金髪の少年。白いハイソックスがぴたりと伸びている。
「こいつだ……」
帽子の男の声が低く落ちる。
「声を聞いたか? 金の鈴みたいだ」
痩せた男も頷いた。
「見た目もいい。家は裕福だ。父親は学者でビジネスにもたけている。特権。伯母はアカデミー。出す金は二重にある」
「つまり、高く売れる」
空気が重く沈んだ。裸電球の光の下で、写真の少年の髪が白く浮かび上がる。
ニキータはその写真をじっと見つめていた。 夏にアイスを食べて笑った顔。炭酸水の泡に揺れた声。自分がそっとハイソックスを直してやった感触。――その一つ一つが、胸の奥に突き刺さる。
そのとき、黒電話が鳴った。
帽子の男が受話器を取る。押し殺した低い声が響いた。
「子どもは声が命だ。金はそこから動く。金の鈴を渡せ」
「承知しました」
帽子の男は短く答え、受話器を置いた。
「『上』のお言葉だ」
「決まりだ。ターゲットはこの少年。声を渡す」
守衛が低く付け加えた。
「ガレージ V-47 は整えてある。電話も置いた。準備は済んでいる」
帽子の男は煙草を灰皿に押しつけた。
「じゃあ始めよう」
――ニキータだけが動かなかった。
思い出すのは夏に交わした言葉。
「悪いやつらにやられても泣くな。……泣く声は、遠くへ行く」
だが今、遠くへ行くのは少年の「声」そのものだった。
計画はすでに動き始めていた。止められなかった。