第9章 車内の混乱
エンジンの唸りとタイヤの軋む音。
黒い車は雨に濡れた舗道を急ぎ走っていた。
ミレックは後部座席に押し込まれていた。小さな体は両脇から荒い手に押さえつけられ、胸は上下に激しく波打っている。外で落とした銀紙の矢印が脳裏にちらつく。拾ってもらえるかもしれない――その望みだけが細い糸のように彼を支えていた。
だが、胸の奥に込みあげるものは抑えられなかった。目に布がきつく巻き付けられると、パニックに拍車がかかった。
「帰る!」
震える声が、初めて大きな叫びに変わった。
「おばさんのとこに帰る! 今すぐ!」
自由は手の届くところにあった。あと一歩でおばさんと一緒に帰れるはずだった。それが、無理やり引き離され、振出しに戻った。失望と恐怖が幼い心を満たし、ミレックは誘拐されて初めて声をあげて泣いた。
痩せた男が後ろを振り向き、冷たい目を光らせた。
「黙らせろ」
帽子の男が顔を歪め、舌打ちをする。
「うるせえな、口をふさぐぞ!」
痩せた男はジャケットのポケットを探り、布をつかもうとして、指を止めた。
「ない……」
「は?」帽子の男。
「落としたかもしれん。さっきの橋で」
「金か?」
「カセット」
痩せた男はつぶやき、はっとなる。
車に急ぎ、乱暴に乗り込んだ時、何か硬いものが石を打つ短い音がした。パン、と一度。その時は気に留めなかったが、音だけは耳に残った。
「クソッ!」
運転席の拳が、ハンドルを一度だけ叩く。
「あれをなくしてどうする! 取りには戻れない。追手がいる」
「ダビングだ。なくしたわけじゃない」
「なら急げ」
帽子の男の声は冷たい。
痩せた男は別のポケットから布を引きはがし、後ろのシートに放った。
「噛ませろ。縛れ」
その声は怒気を含む。怒りが一気に泣きじゃくる少年に向けられる。
「やめろ」
低い声。ニキータだった。
彼は隣でミレックの肩を押さえ、必死にあやそうとした。
「泣くな。落ち着け。静かにすれば――」
「いやだ!」
ミレックは涙と一緒に声を絞り出した。
「帰るんだ! おばさん!」
声は裏返り、車内に反響する。
帽子の男が短く言い放つ。
「眠らせろ」
一瞬、空気が凍った。
ニキータの顔に迷いが走る。
(まずい……このままじゃ――)
三人の少年の末路が脳裏をよぎる。彼らは泣き叫んだ。四六時中、泣いてばかりいた。三人の少年の泣き声は、ある日を境にぱったり途絶えた。ガレージに静寂が戻ったとき、彼らはもうこの世にはいなかった。
「ニキータ!」痩せた男が急かす。
「早くやれ!」
「……」
短い沈黙のあと、ニキータは布を受け取った。手がわずかに震えていた。
「やめて! 帰る!」ミレックは体をよじる。
「おばさん! おばさん!」
「しっかり押さえろ」
帽子の男の低い声。
次の瞬間、布がミレックの顔に押し当てられた。鼻を刺す異臭。
「いやだ――っ!」
叫びは布に吸い込まれ、途切れていく。
ニキータの腕に力がこもる。だが、その指先は震えていた。押さえているのか、支えているのか――ニキータ自身にもわからなかった。
視界が揺れ、赤いランプのような幻が瞬いた。
「おばさん……」
最後の声はかすれ、闇に溶けていった。
車は雨の夜道を進む。ワイパーの音が、残酷な子守歌のように響いていた。やがてその音すら遠のき、ミレックの世界は闇に沈んだ。
* * *
目を覚ましたとき、ミレックは波打つような頭痛にうめき声をあげた。
「う……」
寝返りを打ち、頭に手をやる。痛みの原因はすぐに見つかった――頭にきつく巻かれた目隠しの布。
ミレックは冷たい手で布をわしづかみにすると、一思いに放り出した。まぶしい光線に目がくらむ。かすかに瞼を開けると、薄暗い光の中に黒い壁が見えた。でこぼこした漆喰の黒――そこに白い、いびつなバツ印が描かれていた。
それは「何かを封じ込めた痕」のように見えた。異様なまでに鮮烈で、幼い脳に焼きつき、網膜に刻まれた。
――三十年後になっても消えることのない像。
眠気はやがて薄れ、眼が冴えてくる。もう一度寝返りを打つ。体に激痛が走る。うめきとともに口からあふれ出たのは、伯母を呼ぶ幼い声だった。
「目を覚ましたようだ」
男の声。
ミレックは声のほうに顔を向け、目を細める。人影が見えた気がした。だが、それも一瞬のことだった。黒い布で視界が遮られた。
「眠らせろ」
「真夜中だ。そのうち眠るさ」
「泣き喚いて喉をつぶしたら価値が下がる。眠らせろ」
体を床に押さえつけられ、薬を嗅がされたことは、ミレックの記憶に残らなかった。
その後、記憶は断片的に途切れた。抱きかかえられて運ばれる感覚、冷たい雨。遠くでサイレンの音がかすかに響き、やがて消えていく。
そして最後に――
「お父さん……お父さん……」
幼い声は闇に吸い込まれ、ガレージ V-47 の冷たい床にたどり着いた。
長い夜が過ぎていたことを、彼は知らなかった。