第8章 橋 K 11/12
階段は湿って暗い。手すりの鉄に触れると粉が指につく。足音は布に吸われ、自分のものかどうかもわからなくなる。外に出ると、冷たい匂い――雨の名残だ。
黒いヴォルガがキオスクの角に停車する。列のできたキオスクの前で、誰かが箱の角を確かめている。犬が水たまりを避けて歩いていた。
ニキータはミレックの肩に手を置く。その重さは、ミレックをここに留めておくための留め金のようだ。
車の中。運転席に痩せた男、後部に帽子の男。窓を半分だけ開け、煙を外へ細く逃がす。痩せた男は時計も見ずに「時間は押している」と言い、車を出す。
トロリーバスの竿が電線を擦る音が、遠くでする。レールの継ぎ目を越えるたびに、車が少し跳ねて、ミレックの心臓も一緒に跳ねた。
街は濡れていて、黒が光をかすかに返している。
川沿いに出ると、空が急に広くなる。水は濁って、どこか重たい色をしていた。橋桁から落ちる雫が規則正しく丸い波紋を広げる。車はU 字のカーブを抜け、K 11/12 の橋の手前で速度を緩めた。
「ここだ。降りるぞ」
帽子の男が言う。
ニキータがうなずき、ミレックを先に降ろす。石畳は湿っていて、靴底が吸い付く。刺繍は見ない。見ると向きが変わりそうで。
橋の下。声が反響する。何度も返ってくる。低い笑いも足音も、少し遅れて別人のように返ってくる。
柱の陰に三人の男が立つ。帽子の男が顎で合図し、位置が決まる。
ニキータはミレックを柱の手前で止め、「ここで待て」と低く言う。
冷たい風が水の匂いを運ぶ。どこかで鳩が羽ばたく。ミレックは呼吸を小さくして、自分の息の音を耳で聴く。規則的だ。ポケットの角で銀紙が一度だけ指に触れる。落とさない。まだ落とす場所ではない。
「おばさんが来る。お前は声を出すだけだ」
ニキータがささやく。
「それで終わる」
終わり――その言葉に頼るしかなかった。
遠くで別の車の音が聞こえる。二つの足音。歩幅が違う。橋脚の陰が少し深くなる。
来た。黒いコートにプラトーク。布のトート。伯母だ。足元は見えない。途中で一度だけ立ち止まる。薄暗がりが顔の半分を連れていく。瞳がミレックを捉える。形が、痛みの形に変わる。
伯母は声を出さない。出してしまうと、全て決まってしまう気がするから。
ミレックの目は乾いている。彼はわかっている、泣く場所はここではないことを。
「声を出せ。余計なことは言うな」と、帽子の男。
「おばさん……」
ミレックは言う。
「ぼく、元気。寒くない」
伯母はうなずき、言葉を選ばず、
「よかった。じゃあ、帰ろう」
痩せた男がトートに視線を下ろす。
「約束のものは?」
伯母はコートの内側に縫い付けた布をつまみ、封筒の口を二度折って差し出す。
「ここでは勘定するな。風が強くなる」
ニキータが低く言う。
痩せた男は鼻で笑い、橋脚の陰へ消える。帽子の男がそれに続く。背中が薄闇に溶ける。
短い沈黙。雫の音だけが数を数える。
伯母がミレックのほうへ歩みかける――でも、止まった。ニキータが前に立ちはだかる。動かない。
「あなたは……」
伯母が言いかける。
「待てよ。すぐ済む」
ニキータの目は、水面の先を見ている。
後ろで足音がして、痩せた男が戻る。顔色は変わらない。
「足りない」
と、痩せた男。
「足りるはずよ」
伯母の声は決してぶれない。
「相場が動いた。さっきも言っただろう」
帽子の男が言う。
「だから最初の額で終わらせるべきだったのよ」
と、伯母。吐き捨てるように。
痩せた男が肩をすくめた。
「じゃあ……子どもは、こっちで預かる」
空気が、見えない角度で傾く。ミレックは息を四つ数え、赤いスカーフの端を指で押さえる。
伯母はトートの底をまさぐって、もう一つ封筒を取り出す。動きは静かで、強い。
痩せた男は受け取らない。手を出したのはニキータだった。受け取り、開けもせず、痩せた男に渡す。
「足りる」
ニキータは言い、ミレックの肩を軽く押す。伯母のほうへ行け、という仕草。
その時――橋の向こうでサイレンが鳴った。
一瞬で全員の視線がそちらに引き寄せられる。
「放すな!」
帽子の男が叫び、少年の肩に腕を伸ばした。
陰の奥――橋脚の影に、二人の私服警官が立っていた。声をあげることも、銃を構えることもできず、ただ状況を見守るしかない。
その一人がソコロフ巡査部長だった。
彼の目には、帽子の男に抱え上げられた少年の姿が映っていた。痩せた体、必死に腕を振りほどこうとする小さな手。
「おばさん! 一緒に帰る! おばさん!」
その叫びが胸を突き刺す。
――うちの子と同じ年頃だ。
声を失ったらどうなるか、この子はもう知ってしまったのか。
涙が出そうになるのを必死で抑えながら、ソコロフは動けなかった。撃てば終わる。だが終わるのは少年の命かもしれない。
ただ、声だけが耳に残った。
その声を胸に刻むこと――それが、せめてもの「警官」と「父親」としての彼の選んだ行動だった。
痩せた男が車に飛び乗り、帽子の男が子どもを抱えて後ろのシートに潜り込む。
そのとき、ミレックの手から銀紙がはらりと落ち、濡れた石に小さな矢印を描いた。
それは「家へ」のしるし――助けを求めるミレックの心そのものだった。
ニキータは横目でそれを見た。だがすぐに顔をそむけ、大股で進んだ。
伯母は気づかない――だが、あとで必ず目に入る。