プロローグ 去年の夏
1990年7月――モスクワ、南西地区。
ある夏の昼下がり。 団地の中庭は、熱でかすかに揺れていた。
ミレックは白いチョークで地面に線を引く。 門→ベンチ→売店→家。 矢印をつなげて、自分だけの道を描いていく。
道はでこぼこ。スノータイヤの跡はまだ残り、癒えない。 傷は頑丈で、消えることはない。
小さな手の中でチョークがつまずき、折れて、粉が散った。 そのとき、背後に三つ、灰色の影が差した。
「外国帰りなんだろ」
「見せろよ、それ。アディダスだろ?」
声が落ち、笑いが短く切れる。三人が輪をつくり、じりじりと寄ってくる。
先頭にいたのはヴァーニャ。膝をついてミレックの足をつかみ、白いハイソックスの小さな刺繍を上に向けた。 黒い葉っぱのロゴ――西側の象徴。ドルショップでしか買えない品だ。稀に闇市に出回ることがあるが、価格が買い手を遠ざける。一般の子供から見れば、高嶺の花だ。
ヴァーニャは刺繍をこすりながら、ハイソックスの口にぐいと指を食い込ませた。
「脱げよ」
布を引っ張りながら繰り返す。
「脱げよ、ほら」
「おまえんち、車あるだろ。ライオンが光るやつ」別の子が言う。
「いやだ」
ミレックは足を寄せる。身を固め、息を震わせて吐く。 足を引けば転ぶ、出せば奪われる。取られたくない。
そのとき――
ガチャン!
鈍い金属の音。重たい鍵が触れ合う音が割り込み、その場の空気を変えた。
「おい」 低い声。荒くはない。
少年たちは動きを止め、同時に背後に視線を向けた。
作業手袋を外しながら、男が近づいてくる。腰には工具。ベルトの鍵束が揺れ、歯の欠けた一本が鈍く光った。
「水を二本、工事の方に運んでくれ。急ぎだ」
口調は命令ではなく、仕事の段取りのような調子だ。
三人は顔を見合わせる。
「あとでな」
ややあって三人は身を起こし、言葉を吐き捨てて走り去った。
喧騒は消え、静けさだけが残る。
男はしゃがみ、二本の指でハイソックスを小さな膝まで引き上げた。そっけない、大人の仕草だ。
「立てるか」
ミレックはこくんとうなずく。
「声、よく届くな」
短い褒め言葉には、品定めするかのような響きがある。
「ぼくの声は金の鈴。ひと鳴りで遠くまで届くって、みんな言ってる」
男はポケットから銀紙にくるまったガムを取り出し、半分にちぎった。
「あとで噛め。今は喉を休めろ」
ミレックは一瞬ためらい、ややあって差し出された銀紙を手にする。
「ありがと」
男はミレックの心の揺れを見逃さない。知らない人からものをもらってはいけないと、たいていの子どもは理解している。それなら、「知っている人」になればいい。
「あの棟の工事を手伝ってる」
男は言い、顎で工事中の一棟を示す。
「あそこだ」
顎が示す先には、外壁の足場と白い養生布。厚い布の間から出入り口の扉だけが顔をのぞかせ、その前には、自治会掲示板が立ちはだかる。
男は数歩ミレックから離れ、掲示板に歩み寄る。板には古い紙の上に重ねられた一枚紙と「行方不明」の文字。新報ではない。古いニュースに視線を向ける者は、今ではめったにいない。活字と紙だけがそこにある。
男は古い紙の角に触れ、四角の画鋲の頭をまっすぐにする。活字には目もふれず、画鋲の丸い頭を念入りに回して押す。
ベルトの鍵束が揺れ、歯の欠けた鍵がガチャンと短く鳴った。
「そこ、おばさんち。三階」ミレックが言う。
「名前は?」
「ミレック」
「そうか。ニキータだ」
「いくつだ」
「九歳」
「いつもひとりで?」
「うん。友だち、いないから……」
ニキータは靴ひもを締め直し、ハイソックスの刺繍を指でなぞった。
「かっこいい。取られるなよ」
そのとき、売店の方から三人の気配。こちらには来ない。少年たちは二人を避け、長い影を引っ張りながら、広場の方に消えていった。
「もう平気だ」
ニキータはそれだけ言って、資材置き場へ向きを変える。その背中は足場の影に消え……また現れ、すぐに見えなくなった。その場には、音だけが残る。
ミレックは半ズボンのほこりを払い、手をはたいた。
静けさと工事の音が混ざり合って、風に乗る。太陽は少しだけ西に傾いた。
「ニキータ……」
ミレックは声に出してみる。
二本の指の仕草。ハイソックスを引き上げる感触。銀紙の軽さ。それらが薄れずに残った。
――友だち。そう思っていいのかな。
そう問いかけながら、チョークの矢印をもう一度なぞる。
――ひとりぼっちじゃない。
と、何かが小さな胸にささやきかけた。