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 甲州軍は山に囲まれた鳳来寺郷で、静まりかえっていた。その孫子の旗が示すように、「山の如く」動かなかった。祐の方の四九日が過ぎるまでという信玄のことばどおりだとすれば、四月に入るまでこの状態が続くことになる。

 それが貞能には心苦しかった。

 信玄がこの地を去って西上してくれたら、心の闇も過去のものとなるかもしれない。しかし信玄は我が本拠地の近くに、どっしりと山の如く動かないのだ。手打ちにならずに済み、しかも口止めに甲州金まで山と積まれた以上、自分は許されたということは明日だ。ただそれでも、あの出来事は彼の中に今でも暗い影を落とし続けていた。


「父上、信玄公は本当に、天下人になりましょうや」


 ある日貞能は人払いをしたあと、父の道文入道に聞いてみた。日焼けした顔に幾筋ものしわを浮かべて、父はじろりと貞能を見た。


「そなたは、そうではないと言うのか」


 貞能は急に反問され、何と答えはよいのか分からず、ただ黙ってうつむいていた。

 かつては今川氏に仕えていた親子が桶狭間で今川義元が信長に討たれて以来、松平元康――今の徳川家康へついた。そして今は武田家に属している。いずれも父の決断に、貞能は従ったまでのことであった。

 その武田軍は、今は動きを止めてしまった。その間、天下の状況はどう変るかわからない。何しろ刻一刻と状勢が激しく変化する乱世である。そのことを言おうとして、貞能は顔を上げたがやめた。思えば甲州軍の今のような状況を作ってしまったのは、自分ではないか。


「そなた、なぜ急にそのようなことを? 武田家の命運に、不安でもあるのか?」


「は、はい、それが……」


 貞能はうつ向いたまま、ふと思いついたことを言った。


御年筮(ごねんぜい)に出ました()は『馬前に人去りて、仮軍となる』ということでございました。馬すなわち午歳の前は巳歳。お屋形様は巳歳のお生まれですし」


 御年筮――一年の始めに行なう武田家のその年の吉凶を占う易では、たしかにそのような卦が出ていたのも事実である。


「それで近々、信玄公は亡くなるとでも?」


 道文は声をあげて笑った。すぐにその顔を、厳しい表情に戻すと、


「そのようなこと、ゆめ他言するなよ!」


 と、父は低い声で言った。


 

 作手城に来客があったのは、その日の夕刻であった。

 油川(あぶらかわ)左馬介(さまのすけ)と名乗る男は、貞能よりほんの少し年配のようであった。


「はじめてお目にかかり申す!」


 城内唯一の畳座敷で、みごとな髭をたくわえて武骨そうな男は、貞能の前に両腕をついた。


「それがし、お屋形様の身内の者にて…!」


「え?」


 貞能は慌てて上座を譲ろうとしたが、左馬介はそれを辞退した。


「身内と申しても、お屋形様とは又従兄弟(またいとこ)でございましてな、武田一族の中でも祖父の代より油川の姓を名乗っておりますので、今や家臣の一員でござる」


「さようでございますか。で、今日は?」


 さっそく貞能は、左馬介の来意を尋ねた。あの事件以来、人づきあいにも神経質になっているのだ。


「妹の祐のことでござる!」


「祐?」


「お屋形様の側室であった…」


「お方様のことで? それが、お妹御?」


「さよう。それがし、祐の兄でござる」


  一瞬からだが硬直した。貞能の額には、汗さえにじんできた。そして、少し間を置いて、


「み、みどもに何用で?」


 と、震える声で貞能は言った。


「それがし、妹の死についてどうも不審な点がござってのう。急な病と伺ってはおるが、どうしても納得がいかぬ。病というよりも斬殺された形跡があるとも、一部では取り沙汰されておりましてな。で、貴殿はたしかその折、妹の世話役でございましたな」


「は、はあ!」


 今度は声だけでなく全身が震えだすのを、貞能は感じていた。


「貴殿ならば何か、ご存じではないかと思いまして、お伺いした次第でござる」


 貞能は目を伏せて、しばらく黙っていた。返す言葉が見つからなかった。


「いかがですかな。何かご存じのご様子だが、聞かせては頂けませんかな!」


「い、いえ、あの折はすでに、世話役は解任されておりまして……!」


「ん?」


 左馬介の眉が動いた。


「あの折…と申すは、やはり何かあったのでございますな。教えて下され」


「い、いえ、それは申せませぬ!」


 貞能はしまったと思った。狼狽のあまりそう言ってしまったが、それが左馬介の膝を、一歩進めさせることになってしまった。


 沈黙が流れた。どうしたらいいのか、貞能には分からなかった。どんなに時が流れても目の前に左馬介がいて、自分を見据えているという状況からは、逃げ出せるすべもなかった。


「何も存じませぬ。お方様は御病(おんやまい)で…」


「いや、貴殿は申せぬと言われた。と、いうことは、何かご存じのはず!」


 左馬介の視線に汗びっしょりになった貞能は、もはやこれまでと覚悟を決めた。


「申し訳ござらぬ!」


 大声で叫ぶと、一歩下がって貞能は、畳に頭をこすりつけた。


「お方様は長篠城内である者と不義密通され、その者ともどもお屋形様にお手打ちになったのでございます。すべて、世話役としてのそれがしの至りませなんだこと。なにとぞ、お許しを!」


「そうか、お屋形様が祐を斬ったのか…やはりな…」


 左馬介は、すくっと立ち上がった。


「いかにお屋形様といえども…」


 それまでの紳士的な物腰ではなく、悪鬼のごとき表情で吐き捨てるように言った左馬介は、平伏したままの貞能を見下ろした。


「貴殿のせいではござらぬ。憎きはお屋形様よ。いや、よう話して下された。礼を申す!」


 立ったまま一礼して、左馬介は出ていった。


 まずは、貞能は大きくため息をついた。

 しかし後味が悪かった。あれほど口止めされていたことをしゃべってしまった。しかも自分に都合の悪い部分のみは、嘘でごまかしたのだ。せっかく過去の出来事となりつつあったあの事件が、これで貞能の中で蒸し返されることになる。左馬介が信玄を糺弾したりしたら、真実を知るのは自分だけなのだから、自分は必ず信玄の怒りにふれよう。

 信玄には特に五郎盛信と十郎信貞にだけは言うなと釘を刺されていた。だが、自分がしゃべった相手は、その五郎君や十郎君ではない。そのことで自分を正当化しようともしたが、いずれ左馬介の口から五郎君、十郎君の耳にも入ろう。正当化はもろくも崩れた。

 そればかりではない。左馬介が真実を知ったら、自分は左馬介の怒りをも被ることになる。


 貞能は時間を逆戻りさせた上でどこかへ奔走してしまえればと、とにかく悔やんだ。今川、徳川と仕え、武田家で三家目だ。だがこんな事態に追い込まれたことは、今まで仕えていた所ではなかったことだった。

 父の意に反してでも武田家から離れた方が、身のためではなどと考えてしまう。しかしいざ信玄が天下人になったりしたら、この奥平家は……。こんな時に、ふとあの御年筮が思い出された。一層のこと、信玄が死んでくれたら、……。しかしそれは、あまりにも大それた考えだった。


「どうしたらいいんだ」


 貞能はひとりの畳座敷で、頭をかかえてうずくまった。

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