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 その晩、信玄は泣いた。老いの涙を誰にも見せることなく、ただ亡き愛する人へ、しかも自らの手で冥土へ送ってしまった人へと捧げた。


 とにかく今は、貞能の口さえ封じておけばよい。貞能を殺すわけにもいかない。だからといって罪を祐の方にきせることもできず、そこで祐の方は病死ということにした。

 もしあの時自分が貞能を斬っていれば、山家三方衆を失うことになったであろう。となると祐の方は身をもって、武田家を救ってくれたことになる。だから信玄は今さらながらに、祐の方が哀れに思えてしかたがなかった。


 しかし今信玄がもっとも恐れているのは、家臣よりも身内だった。自分自身がまず、父を追放した張本人だ。さらに長男の義信が、まるで自分が父にしたのと同じようなことを、自分にしようとした。だから義信を幽閉し、義信は自刃して果てた。

 五郎盛信や十郎信貞とは、同じようなことになりたくはない。盛信には仁科家を、信貞には葛山家をそれぞれ継がせているとはいえ、二人は自分と祐の方の間の子だ。特に盛信は十七歳という多感な年頃、真実を知れば自分に刃を向けてくるは必定。だから貞能に口止めしておく必要があった。

 そう理性で考えながらも、信玄にとって最愛の女性を失った悲しみは、別の次元で紛れもない事実だった。天下人を目指す彼が抹殺しなければならない感情であることは分かってはいても、今宵だけはひとりの女を愛した「ひとりの男」でいたかった。明日になれば、武田家の当主という立場に戻らなければならなくとも……。

 もはや誰を怨むでもなく、信玄は声を殺して泣き続けていた。

 

 祐の方の葬式は、長篠城から山間(やまあい)に入った鳳来寺で行なわれた。そこは山家三方衆の帰依も厚く、奥三河随一の大山岳寺院であった。

 時にすでに初夏を迎え、ともすれば汗ばむ陽気であり、山の麓は色とりどりのさまざまな花が満開であった。戦々(いくさいくさ)で倦み疲れていた信玄の目には、よく晴れた空の下に明るく輝く景色は心を和ませるものとして映った。だがそれも束の間、この郷へ来た目的が祐の方の葬儀であるという現実が、暗く重く彼にのしかかる。

 鳳来寺は文武天皇の勅願寺という古い由緒のある寺で、鳳来寺山という山全体がその寺域だった。麓の鳳来寺郷は本当にまわりが山に囲まれたわずかな谷間の里で、まるでここだけ時間が止まっているかのようにひっそりと静かにまとまっていた。ところが今やその静かであるはずの里に、長篠城をひきはらった武田軍三万の兵が入り込み、宿房や民家に駐屯していた。里から見上げると、周りを囲む山々の中でも鳳来寺山はひときわ高くそびえ、緑の中の所々に垂直の岩肌を見せているという奇観だった。


 本堂は、山の中腹まで人工の石段を登った所にある。山に入ったとたんに、鬱蒼たる杉木立の中を石段は蛇行して登るので、なかなか先が見えない。葬儀の行列は厳かに、そんな神秘な霊山を登っていった。石段とほぼ並んで沢が流れ落ちてくる。まわりは杉の大木の密林だが、時々巨大な奇石が姿を現したりもした。

 やがて本堂にたどり着いた。葬儀の導師は法性院(ほうしょういん)大憎正の称号を持つ信玄が、自ら勤めた。祐の方の死因が死因だけに、読経の声すら重々しく堂内に響きわたった。

 祐の方を荼毘(だび)に付した後、信玄は弟の信廉(のぶかど)と山の麓の宿房で対座していた。二人は同母兄弟であり、ほとんど双生児に近いくらいよく似通っていた。


「兄上は本当に、お方様の四九日が過ぎるまで、この地にお留まりになるおつもりか」


 信廉のことばには、あきらかに不満がこめられていた。


「ああ」


 信玄の答えは力がなかった。(せい)(こん)も尽き果てているような様子だった。


「心中お察し致すが、今は上洛目前のいちばん大切な時。その時にこのような所へ長期滞在しては、近隣諸侯はどう思いますやら。下手をしたら徳川が、一気に巻き返しにくるのではとも思われましてな」


「あの小僧に、そんなまねはできんよ」


 信玄は微かに笑った。


「野田城も落とした。山家三方衆もわが味方だ。地の利も当方にある。それに朝倉と盟約して信長を挟み討ちすることになっているのは五月、まだたっぷり日はある。それまでの時間かせぎと兵たちに休養を与えるという意味でも、しばらくここにおってもよかろう。こんな山の中だ。まさかこのような所に武田軍が潜んでいるとは誰も思うまい」


 甲斐も山国だったが、遠くを山に囲まれている盆地であった。それに比べれば、ここは本当の山中の谷間の里だ。すべてが外界から遮断されているような気にもなってくる。


「しかしその朝倉ですが、信長が近江から兵を引いたとたん、本国の越前へひっこんでしまったではありませんか。これでは信長包囲陣は成り立ちませぬ」


 信玄は少しうなって、首を垂れた。が、すぐに顔を上げた。


「わしとの盟約を忘れずにいてくれたなら、五月には必ず朝倉義景は出てこよう。わしは信じておる。すべては五月に命運が決まる」


「はあ…」


 信廉はまだ、浮かない顔をしていた。

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