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 祝宴でも聞いてやろうと、信玄は思った。

 戦の陣中なので華やかにはできないが、妻子を取り戻した山家三方衆にこれからの働きを促す上でも必要なことだと、彼は考えたのだ。


 だがその今の武田家にとってなくてはならぬ山家三方衆の中に、どうにも困った存在がある。奥平監物貞能――この男もなくてはならぬ男ではあるが、自分の側室に手を出した。本来なら即刻お手打ち者だが、やつが恐怖に震えているのが昨日の会見でわかった。自分がその不義を知ったと察したのだろう。

 やつは自分が恐いのだ。それは当たり前だと、信玄は思った。自分は恐がられている。家臣たちはおろか、近隣諸国の大名たちに自分は恐れられているという自負が、信玄にはあった。

 北条も自分を恐れているからこそ、同盟を復活させたのだ。そればかりではなく、行く手を阻む織田信長も、自分を恐れているに決まっている。だからこそ年が明けてから、自分の同盟者の家康が信玄に歯向かった三方ヶ原の戦いを「信長の迷惑!」などという書状を送ってよこしたのだ。


 酒宴はその日の夜に、長篠城の大広間で行なわれた。

 自分を恐れぬ者は誰もいないという自信があるだけに、その席でもおとなしくしている貞能があわれでもあり、その分怒りも鎮火していくのを信玄は感じていた。宴が始まって以来、貞能は全く自分と視線を合わせようとはしない。怯えきった猫のように背を丸め、黙々と杯を口に運んでいる。

 だがその姿を見ているうちに、やはり信玄の中に耐え難いものがこみあげてきた。


「監物、飲んでおるか!」


「は、はい!」


 やっと貞能は、信玄の顔を見た。充分に罪の意識を感じているらしい。もしそうではなく彼が自己正当化を計るように平然としていたら、信玄の怒りは爆発したであろうし、その反面必要以上に悩まなくて済んだかもしれない。


「わしの杯をとらす。もっと飲め」


 貞能の恐縮は、破格の杯を頂戴するという恐縮にあきらかにとどまってはいなかった。


「さあ、飲め!」


 貞能に渡した自分の杯に、信玄は侍女に酒をつがせた。


「飲め!」


「ちょ、頂戴致します」


 貞能は、それを震える手で口に運んですぐに飲み干した。


「さあ、もう一杯!」


「あの…」


 突然貞能は、信玄に向かって平伏した。


「せっかくのご好意でございますが、ここのところ体もすぐれず、酒は医者よりも自重するようにと…」


「ならぬ! 飲め!」


 信玄は怒号を発して、立ち上がった。


「何をしておる。杯を持たせい。酒をつげ!」


 今度は侍女へ怒鳴りつけた。しかたなく貞能が持った杯に、侍女が酒をついだ。貞能はそれを再度口に運んだ。


「さあ、もう一杯!」


「ご、ご勘弁を」


「ならぬ!」


 また、酒がつがれる。しかたなくそれを飲む。


「さあ、もう一杯じゃ!」


 貞能はもはや、抗うことをしなかった。その罪の意識からか、黙って酒の責め苦を受けているかのように見えた。

 この状況の異常さは誰もがすぐに察し、一同静まりかえって貞能の酒を飲む口元を凝視していた。


 信玄は思った。自分に対する不義をはたらいたこの男を、この場で一刀両断にしようと思えばできる。しかし彼は冷静に、それを思いとどまった。

 さきほど貞能が平伏した時、実は信玄は一瞬冷やりとした。自分への不義をこの男は、この場で告白して詫びる気なのかと思ったのだ。最愛の女と臣下が密通したなど、主君にとって最大の不覚である。いや、男としても最大の屈辱だ。幸いその恥を一同の前にさらされずには済んだ。

 それでも屈辱感は残るが、今は忍ぼうと信玄は思った。今やつを罰すれば、自分の恥を人前に披露することになる。しかも今は上洛途上。とにかく上洛という大目的が逹せられるまでは、目をつぶろう。今は何をおいても上洛を果たし、天下に号令することが最優先だ。それに比すれば今の自分の感情は、ささやかな私事だ。いわば大事の前の小事ではないか。


「さあ、どうした、監物。もう一杯!」


「い、いえ、本当にもう……」


「ならぬ!」


 まるで機械的に、侍女は貞能の手の杯が空になるたび、それへ並々と酒をついだ。

 ついに貞能は倒れた。

 信玄は席を立った。うしろに貞能が運び出される気配があった。今なら貞能の寝所へ行き、刀を使わずにその首をしめて、酒で中毒死したということにすれば、自分の恥もさらさずにやつの命もとれる。


 やめておこう――信玄は廊を歩いた。

 貞能を許そうと思った。やつは自分の酒の責め苦を受けて倒れた。それで充分としよう。男としての屈辱を思えば、絶対に許せない。しかしそれは「ひとりの男!」として許せないのであって、今や自分は「ひとりの男」ではない。天下に号令すべき天下人にならんとしている身だ。自分の中の「ひとりの男」は消してしまわねばならない。

 そこまで考えてふと、信玄の頭に父のことがよぎった。信玄の父の信虎は少し気に入らないことがあると、どんどん家臣を手打ちにした。重臣とて例外ではなかった。それだけではなく、弟の信繁を偏愛していた父は、この自分さえをも手打ちにしかねないことがたびたびあった。そんな父のやり方に家臣団の心は離反していき、やむなく自分が父を追放しなければならない事態にまで陥っていったのだった。

 人の罪は責められない。父を追放した罪は罪で、自分にはまだ残っている。しかしその父にも罪はあった。そしてその父と同じ罪を重ねることだけは、信玄はしたくなかった。


 許そう――もう一度信玄は繰り返した。父のように家臣を手打ちにはしたくはない。まして全くの私事では――。それに今奥平貞能を罰したら、同じ山家三方衆の菅沼家も動揺しよう。それは困る。勢力の近接地点の豪族は、それをいかに先に味方にとりこむかで、勢力拡張の優劣が決まる。だからせっかく手に入れた山家三方衆にこんな小事で武田家から離反されたりしたら、武田家にとっては絶対の不利だ。

 とにかく今は上洛直前、貞能を許すしかなかった。

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