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翌朝早々に、奥平貞能のもとに、信玄からの通達があった。
祐の方の世話役は解任。ただちに作手城へ戻れとのことであった。
貞能は全身が震えた。信玄に知られてしまった。そうとしか考えられない。昨日のことが、できればあの女が主君の側室だと知らないでのことであったのならと思ったりしたが、無駄であった。彼は知っていた。知っていて慾情に負けた。妻が人質にとられているのだからということを心の中で繰り返すことだけが、唯一の精神の逃げ場だった。もちろんそのようなことが、何の言い訳にもならないことは分かってはいる。いずれにせよ昨夜はあくまで過去であり、決して未来にはならない。
作手に帰る途中の馬上でも、彼はいろいろと考え続けた。
武田家にとっては新参者の自分を側室の世話役にしたということは、よほど自分を信頼してのことだったろう。ところが自分はその信頼を裏切った。そうなると、自分の徳川から武田家への寝返りさえをも疑われるのではないか、自分は徳川の間者だと思われはしないか――。
作手城に戻ると、気分がすぐれぬと言って彼はひとり部屋に閉じこもった。
まだ妻は徳川に人質になったままだから、いっそうのことまた徳川に帰参しようかとも思ったが、大義名分がない。
貞能は頭をかかえこんだ。こんな年になってこのようなことをしでかし、そしてそれで悩むなどとは思いもしなかった。息子の九八郎にも会わせる顔がない。もし血気盛んな若武者である息子が同じことをしたとしても、若気の至りですませることもできるだろう。しかし自分はもはや、そのような言い訳ができる年でもない。
そのまま幾日かが過ぎた。信玄は依然、長篠城から動かない。そんなある日、とうとう信玄の使いが作手城に来た。長篠城へ出頭せよとのことであった。
貞能の胸騒ぎは、いつしか全身の震えに変わっていた。重い足取りではあったが、主命である。だがまだ信玄が、自分とあの女との不義を知ったと断定できるわけではない。別に現場をとりおさえられたわけではないのだ。そう思うことだけが、かろうじて貞能に馬を長篠城へ進めさせていた。
寒狭川(現・豊川)と大野川(現・宇連川)の合流点に、長篠城はある。東と南の二方が川に面しており、その川はいずれもかなり低い所を流れているので、城域から川へは垂直の深い断崖となっていた。このあたりが山地と平地の境目だが、平地にあってもこの城は天然の要害であった。
呼ばれたのは貞能ひとりではなく、当長篠城主の菅沼正貞、田峯城主の菅沼定忠が、すでに本丸の奥座敷に着座していた。いわば山家三方衆がそろったわけである。何のために――分からない。ただ、三人で雑談をかわす間もなく、信玄が現れた。三人は一列に並んだまま、そろって平伏した。信玄は本来ここの城主である正貞のすわる座についた。
「面を上げてくれ」
信玄は穏やかに言った。心なしかその声に、力が入っていないように感じられた。
全身が小刻みに震え、呼吸をするのさえ困難になっていた貞能は、信玄の穏やかな顔を見て、幾分の安堵の感からゆっくりと息も吸えるようになっていた。
「この城内に」
低い声で、信玄は語りはじめた。
「捕虜として捕らえておる野田城主の菅沼新八郎定盈と、徳川方の武将の松平与一郎忠正のことだが」
「は」
自分の不安とは別の所へ、信玄の話は飛んでいく。ようやく貞能も、かなり平常心を取り戻しつつあった。
「わしはその捕虜を、徳川方へ帰そうと思う。徳川との交渉も成立した」
驚いて顔を上げたのは、菅沼正貞だった。
「もしやお屋形様は、野田城主の菅沼新八郎が我らと同族ということで、お情けをかけて下さるおつもりで?」
信玄は黙っていた。
「それには及びませぬ」
菅沼定忠も信玄を直視し、膝を一歩進めて言った。
「かの新八郎は我らの誘いをも断って、徳川へ残ったのですから徳川方。我ら二人、それに奥平殿を加えての山家三方衆は、今や歴とした武田家の家中の者でございます!」
信玄はその時、ちらりと貞能を見た。貞能は一瞬身をすくめた。定忠はさらに言葉を続けた。
「同じ菅沼一族とて、我らと新八郎は今や敵味方。我らへのお心遣いはご無用に」
「さよう。新八郎を徳川へ帰したとて、我われは嬉しうもございません。むしろ説得して新八郎をお味方へということでしたならば、大歓迎でございますが」
正貞の言葉のあと、信玄は微かに笑った。
「ちょっと待てい。たしかにそなたたちのためというのは、それはその通りだがな。そなたたちはこの武田軍の三河における最先鋒、なくてはならぬ存在だ。だが、わしが考えているのは、それだけで定盈を許すということだけではないわい。わしもただで、捕虜を返したりはせぬ」
「と、おっしゃいますと?」
正貞が信玄の顔を見据えた。信玄はその笑みの度合いを強くした。
「もともとは定盈の切腹を条件に野田城の降伏を認めたのだが、その定盈に腹を切らせなんだのは考えがあってのこと。つまり定盈を、徳川に人質になって浜松にいるそなたたちの妻子と交換しようと思ったのだ。何日か前から交渉しておったのだが、ようやく先方が承知したのでな、それで今日そなたたちを呼んだのだ」
菅沼家の二人の顔は、パッと輝いた。ただ、貞能だけが浮かぬ顔をしていた。
「どうした、監物。嬉しうはないのか!」
「は」
貞能は慌てて平伏した。
「有り難き幸せで、御恩、骨身に染みて感じまする」
そう言ってから顔を上げた時、もはや笑みの消えた信玄の顔から、刺すような鋭い眼光が自分だけを直撃しているのを感じ、貞能は心臓が破裂しそうになった。
何も言葉が出ない。全身が金縛りにあったように身動きができないのだ。信玄の視線はますます鋭く、自分を射る。
額に汗がにじみ出た。糾問を受けているようなその視線を浴びて、貞能ははっきりと悟った――信玄は知っている。その側室と自分との不義を知っていると、貞能は魂を縮みがあらせた。
信玄はすぐにもとの表情に戻り、三人をそろって見渡した。
「いずれにせよ、三河の小僧を蹴散らして野田城も落とした今、わしはいよいよ本格的な上洛の途につくことになろう。その前に信長と正面きって、ぶつかり合うことになるやもしれぬ。そこで三河と遠江を、そなたたち山家三方衆に任せようとわしは思っておるんだ。そのための今回の計らいなのだ」
「は、かたじけのう存じまする」
三人は一斉にひれ伏した。
「大義であった!」
信玄は立ち上がると、すぐにその場をあとにした。貞能は恐れていた「監物は残れ!」の声は、かろうじてなかった。
広間には山家三方衆の三人だけが残されたが、信玄がいなくなると早速、あとの二人の菅沼正貞、定忠の二人は互いに笑みを交わし、手を取り合わんばかりにして喜んだ。だが、そこに貞能は入っていなかった。二人は笑みを消して、貞能の顔をのぞきこんだ。
「監物殿、いかがした? どうもご様子がおかしい」
定忠の言葉を、すぐに正貞が受けた。
「さよう。このようないい話を頂戴したというのに、お元気がないではござらぬか。今日最初にお会いした時からご様子が変だとは思っていたが、お屋形様からこのようなお話を伺ってもそのままであるし」
貞能は、ゆっくりと首を横に振った。
「いえいえ、ご心配なく。なんでもござらぬ」
平静ならどんな些細なことでも互いに話し合い、行動を一にしてきた仲間なのである。しかし今回ばかりは、たとえこの二人に対してでも言えない事態を貞能は抱え込んでいるのであった。
長篠城南東の角で寒狭川と大野川は合流するが、その合流点の角に本丸よりかなり低くなっている野牛郭がある。さらにその角の先端に野牛門があるが、門の外にはさほど川幅はない二つの川の合流点へ降る道があるだけだった。ここはちょうど城の断崖の下で、ちょっとした石の河原になっていて、道はそこで行き止まりだ。左右から来る激しい川の流れが目の前でぶつかり一本になった川は、ここから急に川幅が広くなる。両岸とも川岸までは、かなり高い断崖を登らねばならない。まるで地の底のような、谷底の空間だ。
あたりはもうすっかり春の陽気でぽかぽかと暖かく、風の中には初夏の香りさえ感じられた。緑も濃くなりつつあったまわりの山々も見下ろすその河原で、捕虜と人質の交換は行なわれた。貞能たちが信玄に呼ばれた翌日の午後だった。
「苦労をかけたな」
もはやあり得ないかもしれぬと思っていた妻との再会に、冷淡ともいえるような態度を貞能はとった。妻も武家の妻らしく、取り乱したりはしなかった。妻との再会の喜びを押し殺してしまうほどの恐怖――怯え、それらが今の貞能のすべてを支配していたのだった。




