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作手城に篭っていた貞能の耳に、風説が入ってきた。
三万の甲軍は鳳来寺郷を引き払い、全軍北上を始めたという。そのことについて貞能は、信玄から何の連絡も受けていなかった。
もっとも、やっとこれで信玄が奥三河からいなくなってくれたわけである。「鳳来寺郷からのお屋形様のお使者です!」という小姓のいやな取り次ぎも、もう聞かなくてすむのだ。
空も青さを増し、新緑が目に痛い季節に、甲軍は甲府に到着したという情報が入った。信玄は馬上人々の歓声に応えながら、堂々と躑躅ヶ崎の別館へと帰還したという。おそらく次男仙千代も、甲府に連れていかれたであろう。
しかし、なぜなのだろうと思う。
馬上で帰還したということは、病ももうすっかりよくなっているということになる。それなのに信玄は、なぜ上洛を中止したのか――? そもそもは上洛とは名目だけで、最初から今の時期には甲府に戻るつもりだったのか……それはあり得る。
武田軍三万とはいっても、そのほとんどが平時は農民である。従って、農閑期にしかこのような大規模な遠征軍は出せないのであり、農繁期もさらに彼らを拘束していたら領内の農産物の出来高に影響する。そのような理由も、可能性として貞能の頭の中を飛来していた。
ある日、作手の城に届けられた一通の書状が、そんな貞能の疑問をすべて氷解させた。
「信玄公服毒之事、南蛮渡来之砒霜てふ毒薬而、微量也者雖不即死、四月中ニ者逝去必定ニ候。某仇討之事果畢候間、往何処者不知候。 汝能慮可決向後事肝要ニ而候。
(信玄公に盛った毒は砒霜(ヒ素)という南蛮渡来の毒薬で、微量なので即死はしないけれども四月中には死ぬことは間違いない。私は仇討ちを果たしたのでどこへかはわからないが去る。貴殿もよく考えて今後のことを決するのが大切だと存ずる)
元亀四年四月
左馬介(花挿)」
貞能は書状を握りしめた。
――馬前に人去りて、仮軍となる――
御年筮の卦をもう一度つぶやいてみて、そしてほくそ笑んだ。
信玄は死んだ。もうこの世にはいない。甲府に帰還した信玄は、信玄ではなかったのだ。おそらく弟の信廉あたりが、信玄に化けていたのだろう。だが、そのような策を弄したということは、信玄の死は天下には公表されてはいないらしい。上杉も織田も徳川も、そして北条もおそらく、信玄の死をまだ知らずにいるのであろう。
しかし信玄は死んだ――自分は知っている。そして知っているだけではない。直接殺したのは左馬介だが、もし自分が徳川にいたならば信玄は殺されずにすんだであろう。自分の所為で天下の形勢が大きく変った。
「信玄は死んだ。信玄は死んだ。信玄は死んだ。信玄は死んだ!」
と、貞能は何度もつぶやいていた。そのまま、櫓に上った。奥三河の山々は、真っ赤な夕陽に染めぬかれていた。
空は晴れていた。もうひとついえることは、もうびくびくして暮す生活は終ったということだった。恐怖の元であった信玄は、もういない。貞能の心も空と同様に、いつしか晴れていった。
これでよかったのだと、もう一度彼はつぶやいた。
あとはこれからのことを、考えねばならない。
貞能はさっそく一族の者を、本丸屋敷の広間に集めた。
もともと貞能には、武田家お家乗っ取りの意志などなかった。だからいつまでも、武田家にいる必要もない。今度こそ父が何と言おうと徳川へ帰属しようと、実は一族の待つ広間に入る前から貞能は決心していた。
勝頼は戦上手だが、武田全軍を統括する腕を持っているとは思えない。そんな大将に仕えても意味がない。国境の土豪はいかに天下をとる大将に仕えるかで、その家の運命が決まる。だから形勢を見ての寝返りは、彼らの宿命であった。
一族を前に貞能は固く口止めした上で信玄の死を知らせ、自らの徳川への帰属の意志を告げた。
「だが徳川が、また受け入れてくれるかのう」
やはり不承知のような態度を見せた父に、貞能ははっきりと言った。
「信玄の死の情報という手土産を持参すれば、かつての裏切りも許してくれて、徳川は喜んで迎えてくれるに違いないと存じますが」
ところがその貞能に向かって、
「父上、それがしは絶対に反対です!」
と、突然大声を出したのは息子の九八郎だった。
「甲府には仙千代が、人質としてとられているのですよ。それがしにとっては、大切な弟です。今徳川についたら、仙千代はどうなるか… 父上はご自分の息子が殺されてもいいのですか」
「おだまり!」
そこへ母、つまり貞能の妻の一喝がとんだ。
「あなたは何を言うのです。小義のゆえに大義を害しては、家は滅びて自身も殺されますよ。今は奥平の家のことだけを考えなさい。弟を思うてもそれで家が滅んだら、智者とはいえますまい!」
封建思想が根本理念であった頃である以上、それは全くの正論であった。個人の情よりも、お家大事なのである。もはや九八郎は何も言えなかった。
「その通りだ!」
貞能が妻のことばを受け継いだ。
「信玄亡き武田家は、これからは落日だ。これにひきかえ徳川はまさしく日の出の勢いだ。徳川の盟友の織田弾正忠は、この三月にもまた上洛しているというぞ」
そのひとことで、ついに奥平家の徳川帰参は決定した。
天下の大勢も大きく変っていった。秋になってから京では織田信長が将軍義昭を追放し、ついに室町幕府は滅亡した。その同じ頃に奥平家は信玄の死という情報、それを手土産に徳川方に再び寝返った。
これまでなら山家三方衆は常に合議して、その行動をともにしてきた。しかし今回は他の菅沼二家を出しぬいての、奥平家の単独行動であった。これで山家三方衆は、敵味方に分かれてしまったわけである。
その菅沼二家のうち菅沼正貞の居城である長篠城は徳川の攻撃を受けて開城、徳川の手に移った。
貞能によって徳川にもたらされた信玄の死という情報は、徳川の勢いをますます盛んにさせたのである。
貞能が寝返らなかったら家康も信玄の死をまだ知らずに、未だに情勢を様子見していたかもしれなかったのである。
その頃、年号も元亀から天正と改められた。
秋も終りの頃、武田家に人質となっていた貞能の次男仙千代は、奥平の寝返りに対する武田勝頼の激怒にふれて殺された。
それもわざわざ甲府から三河まで送り付けられ、鳳来寺郷で磔刑にされたのである。
もとより貞能にとってはあらかじめ覚悟していたことだったので、さほど驚かなかった。しかしその刑場が鳳来寺郷の金剛堂の前だったと聞いた時は、さすがに背筋に冷たいものが走った。
それは信玄が毒殺された場所ではないか。
勝頼がそのことを知るはずもない。しかし、偶然にしては話ができすぎている。信玄の幽冥からの復讐が始まっているのか……ふと貞能は、そんなことを考えてしまった。
それから二年後の天正三年二月、貞能にとって因縁の深い長篠城の城番に、彼の長男の九八郎貞昌が任じられた。武田勝頼が三河に侵攻してきたのは、まさしくその直後の三月であった。
そして手始めに武田軍は六千の兵で、わずか五百ばかりの手勢が守る奥平貞昌の長篠城の攻略にかかった。つまり甲軍は真っ先に、奥平の城を攻めたのである。
無論勝頼の奥平の造反に対する恨みもあるだろうが、貞能にとってはまたしても信玄の幽冥からの復讐を感じないではいられなかった。
長篠城には家康が援軍を申し入れてきた。だが九八郎貞昌は信長の援軍をも依頼した。よって援軍は一万八千もの大軍となり武田軍と設楽原で激突、世にいう長篠の合戦の火蓋が切って落とされた。
織田・徳川連合軍は鉄砲三千挺の鉄砲隊を使って大勝、以後武田家は衰退をたどることになる。
一方その後の奥平家だが、貞能の長男九八郎貞昌は織田信長から諱の一字をもらって信昌と改名、家康の娘の亀姫を妻に迎えた。
その後信長は、本能寺にて非業の最期を遂げる。そして秀吉の時代には貞能は秀吉の労によって美作守に叙任、そして時代は秀吉の死と関が原の戦いを経て徳川の天下になるわけだが、奥平家は譜代大名とはなっても信昌が上野・小幡藩三万石を経て関が原の戦いの後に美濃・加納藩十万石に封じられ、その加納藩は三男の奥平忠政が継いだがその子の忠隆の代で絶家となった。
一方、信昌の長男の家昌は宇都宮藩十万石、その子の忠昌下総・古河藩十一万石を経て宇都宮藩に十一万石で再封され、その子昌能は「興禅寺刃傷事件」の責任を取らされて山形藩へ九万石の減石移封、その後二代で再び宇都宮へ転封、さらに丹後・宮津藩九万石を経て豊前・中津藩十万石で入封して九代後に明治四年の廃藩置県に至る。
また、信昌の次男家治は徳川家康の養子となって松平性を名乗り、早世したため信昌四男で弟である忠明がさらに家康の養子となって松平を名乗り、各地を転封させられた後にその子孫は七代にわたって伊勢桑名藩十万石、最終的には武蔵忍藩十万石で五代、明治維新に至っている。
奥平貞能がはじめ徳川から武田へ寝返ったことが、信玄謀殺の発端となった。つまり結果として徳川には幸いしたのである。
貞能がそのまま徳川にいたら信玄も死なず、信玄は上洛して、織田・徳川を破り、天下人となっていたかもしれないのだ。そして三年は喪を隠し通せと遺言した信玄の意に反してすぐに家康が信玄の死を知り得たのも、貞能を通してであった。
そのことを考えると徳川幕府の奥平家への処遇は、冷淡といえるかもしれない。
しかしそれは当然のことであった。
奥平貞能は徳川へ帰属した後も信玄が死んだことは語ったが、その死因に自分が関係していたことや信玄の死に関する深いいきさつについては終生黙し通した。
無論、真実は何の記録にも記されてはいない。
(長篠城の落日 おわり)




