最初の使徒
事件から三日後。
都内は表向きの“平穏”を保っていた。怪物の襲撃や異形の光柱の出現は、すべて「設備の誤作動」や「特殊映像効果の演出」として処理され、一般メディアにはほとんど取り上げられていない。
だが、蓮の目には分かっていた。
世界はすでに“異変”を隠しきれなくなっていることを。
「……はぁ。日常に戻ったってわけじゃねぇな」
高校の教室。空席だらけのクラスで、蓮は一人ため息をついた。クラス全員が異世界に転移したあと、教師たちは「急な転校」として処理していたが、その裏に“誰かの手”があるのは明白だった。
「相変わらず、特別扱いされてんな。俺だけ“戻ってきた”ってことになってるし」
机の上には書類と端末。新藤から渡されたデータには、各地で起こっているゲートの発生座標と、未知の存在の干渉ログが並んでいた。
「次の襲撃がいつ来てもおかしくない。けど、問題はそれだけじゃない……」
蓮の頭の中に、ある“少女”の顔がよぎる。
—高瀬 美月
転移前、唯一蓮に声をかけてくれた少女。
勉強も運動も得意で、誰にでも優しく、まるで太陽のような存在だった。
(あいつも、今は異世界にいるのか……)
心の奥に、わずかな痛みが走る。美月の笑顔は、蓮にとって過去の中で唯一、救いだった。
「……助けたい。だけど、俺が行けるのは現実世界だけだ。……くそ」
その時だった。教室のドアが開き、見慣れない制服の少女が入ってきた。
「如月 蓮さん、ですよね?」
「……あんたは?」
その少女は、黒髪に深い紅の瞳。整った顔立ちに、どこか非現実的な雰囲気をまとっている。彼女の手には転入届があった。
「わたしは、シエラ=ル=ヴァレンタイン。今朝からこの学校に編入されました」
「外国人……? っていうか、この名前、どこかで……」
「記憶にあるはずです。如月さんに関係ある“世界”から来た存在ですから」
蓮は直感で察した。彼女は——人間ではない。
だが、それと同時に、彼女の瞳には恐怖も敵意もなかった。
「どうして、俺の前に現れた?」
蓮の問いに、シエラは静かに微笑んだ。
「あなたの“ギフト”に惹かれました。……いえ、それだけではありません。あなたという存在に、興味を抱いたのです」
「は……?」
「わたしは、“第一使徒”。この現実世界に送り込まれた、最初の“交渉者”です」
教室の空気が一変する。時間が止まったかのような感覚に包まれ、シエラの周囲に魔力が漂い始めた。
だが、彼女の声は優しかった。
「お願いがあります。如月 蓮さん。わたしと、協定を結んでいただけませんか?」
「……協定?」
「この世界の崩壊を止めるために、あなたとわたしが手を組むのです。そして——」
彼女は、ふと困ったように視線をそらした。
「わたし、あなたのことをもっと……知りたいんです。どうしてだか、心が騒ぐんです」
その言葉に、蓮の心はわずかに揺れた。
(こいつ……敵じゃない。でも、完全に味方とも限らない)
シエラの頬がかすかに赤く染まっていた。それは、使命としての言葉ではない。“個人”としての想いが、そこに込められていた。
蓮は、彼女の手を見つめた。伸ばせば届く距離。
この少女は、異世界から現れた“恋の予感”と“脅威”を、同時に孕んでいる。
「……おもしれぇな。あんた、いきなり人の心をかき乱してくるタイプか」
「ふふ……すこし、緊張してるだけです」
静かに笑うシエラ。その笑顔は、どこか美月に似ていた。
——だがその瞬間。
校舎の窓の外に、再び“裂け目”が現れた。光が空を引き裂き、真紅の雷が奔る。
「また……ゲートか!」
「いけません! 今回は、“侵攻者”です!」
シエラの表情が強張った。蓮はすぐさまナイフを創造し、立ち上がる。
「……交渉は後回しだ。やるべきことは変わらねぇ。俺がやるべきことはただひとつだ!」
赤黒い稲妻とともに、第三の“使徒”が、現実世界に現れようとしていた。
赤黒い稲妻が校庭に落ちた瞬間、空気がビリビリと震えた。裂け目の奥からにじみ出る黒い瘴気は、まるで現実そのものを侵食するかのように、世界の色を変えていく。
「来ます……“第三の侵攻者”です」
シエラが低くつぶやいた。彼女の瞳が、まるで過去の何かを思い出すように曇っている。
蓮は、一歩前に出た。
「じゃあ迎え撃つだけだ。……シエラ、あんたも来るか?」
その呼びかけに、シエラは小さく笑う。
「当然です。わたしは、あなたの“パートナー”ですから」
そう言ってシエラが手をかざすと、空間がねじれ、銀色の魔力がその身を包んだ。
彼女が召喚したのは、漆黒の槍。魔法陣から出現したそれは、見る者の精神を試すような妖しさを放っていた。
「へぇ、随分と物騒な趣味してんじゃねぇか」
「ご期待に添えるかと」
そのやりとりを終えたとき、校庭に出現した裂け目から“それ”は姿を現した。
人型。しかし、人とはかけ離れた異形。
全身が白い甲冑のような外殻で覆われ、頭部には仮面。瞳のない眼孔からは黒い炎が漏れている。
「“彼”の名は、【憤怒の使徒・ガルザ】。強大な魔力を持つ、純粋な破壊衝動の塊……!」
「名前付きかよ。こっちも容赦できねぇな……!」
蓮はポケットから何も取り出さず、代わりに右手を開く。
「創造」のギフトが発動し、空中にきらめくエネルギーが集束する。
形になったのは、一本の漆黒の剣——否、“対魔構成兵器・エリミネーター”。
「——いくぞ」
二人は、同時に飛び出した。
衝突。刹那、地面が陥没する。
ガルザの腕が振るわれ、風圧だけで周囲の木々がなぎ倒された。
「でかい……けど、動きは重い!」
「気をつけて、パターンが変わります!」
シエラの言葉と同時に、ガルザの仮面の目が光る。
無数の魔弾が空から降り注ぎ、校舎の壁を撃ち抜いていく。人間ではありえない演算速度、破壊力。これは完全に“対異世界戦”の兵器だ。
「……だったら、こっちも“異常”で返すだけだ!」
蓮はエリミネーターを構えたまま、加速する。
時間がゆっくりになる錯覚の中、動体視力が極限まで高まり、一瞬の隙を捉えた。
——“斬る”。
黒い光が奔り、ガルザの左腕が吹き飛んだ。だが、それでも奴は動じず、右腕を叩きつけてくる。
「——蓮さん!」
その声と共に、シエラの槍がガルザの腕に突き刺さった。
封印術式の魔方陣が展開され、ガルザの動きが数秒間、止まる。
「今です……!」
「ありがとよ、シエラッ!」
跳躍。蓮の剣が、真っ直ぐにガルザの胸部を貫いた。
黒い炎が爆ぜ、空が歪んだ。裂け目が閉じ始め、ガルザの肉体がゆっくりと崩壊していく。
「これで……終わりか?」
「ええ。ですが……これは始まりにすぎません。これから、もっと多くの“彼ら”が現れます」
シエラの声には緊張が滲んでいた。
——静寂。
戦いが終わり、風だけが校庭を吹き抜ける。
ふと、蓮は彼女の顔を見る。
彼女は静かに視線を下ろしていたが、何かを決意したように口を開いた。
「蓮さん……わたし、実はもう一つ……言いたいことがあるんです」
「ん?」
シエラは少し戸惑いながらも、目を見て言った。
「わたし、あなたのことを……“好ましく”思っているのかもしれません。使命を超えて……一人の“あなた”として」
蓮は、虚を突かれたような顔をした。
「……おいおい、いきなり何を……」
「ふふ。驚かせてしまいましたか? でも、私、今の世界で唯一信じられるのはあなたなんです。だから、これからも……」
その瞬間だった。
蓮のスマートフォンが震え、画面にメッセージが表示される。
《警告:日本国内で新たな“ゲート”反応を確認。出現位置——高瀬 美月の自宅》
「……美月……!?」
震える指でメッセージを読み返す。シエラもその名前を見て、少しだけ表情を曇らせた。
「彼女……大切な人なんですね」
「ああ。放っておけるわけがねぇ……!」
戦いは終わってなどいない。むしろ、ここからが本当の始まりだ。
蓮は剣を握り直し、シエラとともに走り出す。
(待ってろ、美月。今度は、俺が——助ける)