異常事態
朝のニュース番組では、いつも通り天気予報が流れていた。7月、湿気を含んだ風と薄曇りの空。通学路には蝉の鳴き声が響き、誰もが「平常運転」の一日を迎えているように見えた。
だが——如月蓮の目には、それがすでに“異常”だった。
「……誰も、気づいてないのか……」
蓮は、教室の窓から校庭を見下ろしながらつぶやいた。昨日の出来事。クラス全員の異世界転移、自分に与えられた神からのギフト。そして現れた異形の怪物。
あれは夢でも幻でもない。新藤というもう一人の“取り残された者”もいる。だが、教師たちは平然としていたし、ニュースにも何一つ出ていない。
転移したはずのクラスメイトの机には、まるで最初から存在しなかったかのように、名前すら貼られていない。
「記録まで……消えてる?」
そう、誰も彼らの存在を覚えていないのだ。彼らの机は空席ではなく「初めから空いていた」ことになっている。
そして、誰一人として「何かがおかしい」と口にしない。
「《現実越境者》の能力……もしかして、俺だけじゃなく“神”にも作用してるってことか?」
蓮のギフトの一つ、《現実越境者》は、異世界の理や存在を現実に“持ち込む”力。だとすれば、異世界転移そのものが“現実から見れば最初からなかったこと”になっているのでは——?
「まるで、世界の書き換えだな……」
蓮は内心の冷たい恐怖を抑え込みながら、ノートの隅に小さく呟きを書き込んだ。
――世界は嘘をついている。
「よう、如月」
肩を叩かれ、振り向くと、新藤諒が私服で立っていた。
「お前、今日登校してんのかよ。律儀だな」
「逆に、お前はなぜ来てるんだよ、私服で」
「学校行事とかどうでもいいけど、気になるだろ? この“世界”がどこまで壊れてるのか」
新藤は窓の外を見ながら、ポケットから紙のようなものを取り出した。
「昨日の“アレ”が落とした欠片、拾っておいた」
それは、漆黒の鱗のような破片だった。触れると微かに振動し、まるで何かの“電波”を受信しているかのような感触があった。
「解析してみたら、物質的にはこの世界の物じゃない。しかも微弱だけど、座標データみたいなものが埋め込まれてた」
「……転移用のコードか?」
「たぶん。もしくは、“向こう”とこっちを繋ぐリンクだ」
蓮はそれを手に取り、ギフトの《神速演算》で即座に解析を開始した。脳内に流れる情報の海。その中に、ひとつの文字列が浮かぶ。
「“アストラ・ゲート第4層、接続不安定”……?」
「ゲート?」
「つまり……向こうの世界と現実をつなぐ、歪んだ扉が開きかけてるってことだ」
蓮が言い終える前に、校舎の向こう側から悲鳴が響いた。
——キャアアアアアア!!
二人は即座に駆け出した。廊下を走り、階段を飛び降り、叫び声のした中庭へと飛び出す。
そこには、二人の女子生徒が地面に尻もちをついて震えていた。その視線の先にいたのは——
「また、出たか……!」
昨日と同じ、いや、それ以上におぞましい異形の存在。背中に巨大な羽のような器官を持ち、爛れた皮膚の隙間から紫色の炎が漏れている。
完全に現実の生き物とは異なる、“異世界の怪物”だった。
「やれやれ……どうやら、もう始まってるらしいな。“侵食”ってやつが」
新藤は鱗の破片をポケットに仕舞い、構えを取る。
蓮もすぐにナイフを召喚し、即席で“強化”を施した。
「《創造因子》、銀繊維+衝撃吸収、重心調整完了」
光を纏った刃が掌に現れる。敵が一歩踏み出すと、地面が焼け焦げた。
「こいつ……ただの怪物じゃない。魔力……いや、現実には存在しない“構造情報”をまとってる」
「構造情報?」
「簡単に言えば、物理法則の上に“物語的な強さ”を持ってるんだ。まるで、異世界のRPGキャラみたいに」
この現実世界に、それは“あり得ない”はずだ。
だが、《現実越境者》の力により、その“あり得ない”が形を持ってしまったのだ。
蓮は足を一歩踏み出し、敵と真正面から対峙した。
「新藤、行けるか」
「おう、やるしかねぇだろ。“こっち”で無双するって決めたんだ。……お前と一緒にな」
――異常はすでに始まっている。
現実という枠が軋み、ひずみ、異世界の“法則”が滲み出してくる。
蓮は強くナイフを握りしめ、目の前の怪物に飛びかかった。
刹那、蓮の身体が地を蹴った。彼の肉体はすでに人間の限界を超えている。《神速演算》によって戦闘中の判断と動作はほぼ自動化され、同時に《創造因子》によって強化された武器が軌道を描いた。
銀色のナイフが空気を裂き、異形の怪物に向かって一直線に突き刺さる。
——ガッ。
だが、その刃は、怪物の皮膚に突き刺さることなく弾かれた。
「硬っ……!」
「如月、下がれ! 今のうちに“構造”を解析する!」
新藤が後方から叫び、鱗の破片を地面に叩きつけた。そこから立ち昇った波動が怪物の姿を包み込み、情報の霧を晴らしていく。
「見えた……! こいつ、“重複構造”持ちだ!」
「何だそれは!」
「二重の身体! 外殻が現実の構造、内殻が異世界の魔力! 現実の攻撃じゃ通らない!」
理解した。つまり、この怪物は“現実”と“異世界”を同時に存在している。どちらか片方の法則だけでは倒せない。
蓮は奥歯を噛み締めると、ナイフを握り直した。
「だったら、《現実越境者》でこちらも両方に干渉する……!」
頭の中で、刃の構造を書き換える。銀繊維に魔力因子を注入し、《存在干渉値》を持たせる。言い換えれば、異世界の法則に対する“当たり判定”を付けるということだ。
「創造因子、構造改変。魔法式転写、ナノブレード構築——!」
ナイフが青白い光を放ち、まるで“魔剣”のような姿へと変化した。
怪物が咆哮する。空気が振動し、近くの窓ガラスが割れ、破片が宙を舞う。だが蓮の意識は、すでに音を遮断していた。
次の瞬間、蓮の身体は地面を滑るように前進し、まっすぐに怪物の中心を狙った。
——ズバァン!
ナイフが、今度こそ深く刺さる。青い血液のような液体が噴き出し、怪物がのたうつ。だが、それでも死なない。
「新藤!」
「任せろ! 接続ポイントを抑えに行く!」
新藤はポケットからコードを取り出し、怪物の影に向かって走る。そのコードは、座標データとリンクするための“閉鎖キー”だ。
「《アストラ・ゲート第4層》、強制遮断開始……っ!」
まるでプログラムを叩き込むようにコードを打ち込む新藤の周囲に、現実とは思えない無数の魔方陣が展開される。
「制御下にない情報干渉、発信源不明! 接続座標、強制遮断まであと5秒!」
蓮は怪物に最後の一撃を加えるべく、全身の筋肉に神経を集中させる。
「《神速演算》、極限モード。残存リソース、全解放!」
——一歩。
二歩。
風を斬る速さで踏み込み、ナイフを怪物の胸部に突き立てた。
青い光が爆ぜ、怪物が絶叫する。その瞬間、新藤のコードが最終実行された。
「強制遮断——完了ッ!!」
怪物の身体が、まるでガラスが砕けるように光となって四散した。
静寂。
砕けた破片が宙に舞い、やがてすべて消滅する。現実世界の空気が、ようやく“本来の温度”を取り戻したような錯覚。
「……ふぅ……間に合ったか」
蓮は地面に膝をつき、大きく呼吸を整えた。新藤が肩を貸しに近寄ってくる。
「どうやら、ただのチートじゃ済まねぇな。お前の力は」
「お前もな。……で? 次は何が起きる?」
新藤は黙って、携帯を取り出し、画面を見せた。
——“謎の爆発音、都内各地で複数報告”
——“空に浮かぶ光の柱、SNSで拡散中”
——“学校施設、設備破壊の原因調査中”
現実世界が、ゆっくりとだが、確実に異常を“知覚”し始めていた。
「ゲートはひとつじゃない。おそらく、全世界に点在してる。つまり……まだまだ“侵食”は序章だ」
「……だったら、こっちの準備もしないとな」
蓮はナイフを手のひらで光に還し、静かに立ち上がった。
「現実で無双するってのは、敵を倒すってだけじゃない。これから起こる“異変”のすべてに、俺が向き合わなきゃならないってことだ」
その瞳には、迷いはなかった。
彼は今や、現実の中の“唯一の異端”であり、最前線に立つ者となった。
「ようやく本番か……“異世界転生しなかった”俺の物語が」
空には、かすかに亀裂のような光の筋が走っていた。
世界は、静かに壊れ始めている。