八話 あたらしいヒビ
真琴は今でも、あの時の渡をよく思い出す。
困るのだと、そう言って迷子のように途方に暮れた顔をしていたから印象的だったのだ。
白岩場にある無機質な建物の影で休んでいた真琴は、近づいて来た足音を聞いて重たい腰を上げた。
「やっと見つけた。こんなところに一人でいるなんて危ないよ」
「ごめん、九打。その忠告はちょっと遅かったみたい」
真琴の頭に乗っていた渦がよろよろと離れると、九打の目が驚きに見開かれた。
「その怪我は何。誰にやられた」
「分からない。でも思いっきり殴られた」
「医務室に行こう」
真琴の頭部からは、絶え間なくだらだらと血が流れ落ちていた。九打が背負ってくれたが、頭が揺れると痛い。思わず呻くと、我慢しろと諫められた。
建物の中に入ると、数多の目がこちらに向けられた。その中には敵意の混ざったものもあると、真琴はすでに理解している。
「気にしなくていいから」
そう言う九打の表情は硬い。
真琴が渦と契約してから、こうしたことが度々起こるようになっていた。いくつもの反感を買ってしまっているのだ。例えば夜矢丸を支持している人や、葉王を支持している人からも。特に後者は凄まじい陰湿さだ。今もこちらを見てニタニタと笑っている。真琴を殴った奴らも、きっとあの中にいるに違いない。
「葉王派は、渡様の躍進が妬ましいんだよ。真琴と言う優秀な人材が渡派にいることを良く思っていないんだ。あんなに分かりやすい挑発は流しておけばいいさ」
「そうするよ」
医務室には誰もいなかった。
九打がテキパキと処置してくれる。消毒液はひどく染みたが、今度は呻くことを我慢できた。
「無事か」
そこへやって来た渡は、同じ言葉を投げかけてしまいたいほど憔悴しきっていた。
「今日も無理をなさっているようですね」
「仕事が忙しいのでな」
「もう騙されませんよ」
ずっと、渡は仕事で忙しいからいつも疲れているのだと思っていた。けれどそれが大きな間違いだったと気づいたのはつい最近だ。渦を得て、一日の大半を白岩場で過ごすようになり、やっと分かった。渡はずっと、真琴を多くの敵意から守るために奔走していたのだと。渡がいなければ、この頭の傷一つでは済まなかっただろう。
渡があの時、困ると言った意味の一端を、遅ればせながらも真琴は理解したのだ。
強い消毒液の匂いを感じながら、真琴はぼうっと渡を見た。
九打が教えてくれた通り、白岩場は善意と敵意が見えやすい、窮屈だけれど安全な場所だ。これが渡の目が届きにくい場所だったなら、真琴の立場はもっと危ういものになっていたという確信がある。
「渡さんが俺のこと守ってくれてるって、ちゃんと分かってますよ。だからこそ言わせてもらいますけど、あまり無茶をしないでください。もうお年なんですから」
「まだまだ現役だ、年寄り扱いするでない」
「年寄りはみんなそう言うんです」
鋭い眼光がこちらを睨みつけたがすぐに鳴りを潜めた。それから躊躇った後に小さく言葉を零した。そこに言わずにはいられなかったような本音が垣間見える。
「守れておらんでは無いか。其方が怪我をしてここにいることが何よりの証拠だ。本来、子供である其方が、くだらない権力争いに巻き込まれる必要など微塵も無いというのに」
きっと、この言葉以上にある渡の葛藤を、全て理解することは難しい。今の真琴に分かるのは、必死に守ろうとしてくれる渡なりの愛情だけだ。厳しい中にも、我が子に向けるような温かさが彼にはある。それを信じられるほどには、真琴は渡を慕っている。
だからこそ、真琴は伝えるのだ。
「俺を殴った奴が、一つ気になることを言っていました。渡さんの耳に入れておきたくて」
もうすぐ真琴が表国へ来て半年が経つ。
落葉の第二葉はとっくに旅立った。今はその帰還を待ち、平行して第三葉の準備を進めている最中である。
相変わらず騒がしい楽心園。粛々と表国を管理する白岩場。絶対的な地位を守る葉流城。その水面下で動く黒い影がちらりと視界の隅を掠めるから、無視してはおけなかった。
「殴られたとき半分意識が飛んでいて、ぼんやりとしか聞こえなかったんですけど、渡派の一部が葉王暗殺を目論んでいると言っていたんです」
「おい、冗談にもならないことを言うな!」
すぐさま声を荒げたのは九打だった。
真琴の胸倉を掴んで、すごい剣幕で怒っている。だから真琴は意識的にゆったりとした口調で諭すように続けた。
「それが俺を殴った理由だと言ってやがったんだ。いや、本当は殴り殺すつもりだったかもしれないな。俺をどうにかして渡派の勢力を削ぎ、暗殺を止めようとしていたみたいだから」
重たい沈黙が流れる。真琴の胸倉からするりと手を離した九打は、ここ最近で一番の大きな溜息を吐いた。
真綿で首を絞められるように、ゆっくりとけれど確実に不穏な気配が近づいている。この場にいる誰もがそう思った。
時計の秒針が三周したところで、真琴はこの場の空気を入れ替えるようにことさら明るく言った。
「俺が裏国に帰れば、俺が来る前の表国に戻れる。これ以上均衡が崩れてしまう前に、どうにかしないと」
我関せずと言った様子で、真琴の周囲をふわふわと浮遊する渦を指で突く。
裏国へ降りる気のないこの渦がその気になってくれさえすれば、全て解決するはずだ。
「こいつの心が読めれば良いのになあ」
「それは諦めなさい。例え心が読めたとて、神である渦と我ら人間が真に分かり合える時など来るはずが無かろう」
温度の無い言葉だった。渡は真琴の頭を不器用に撫でる。それから、諦観が込められた目を向けた。
「それよりも考えるべきは馬鹿な噂話だ。さて、どうするかな」
「噂話で片付けてしまうのは、残念ながら間違いですよ」
音もなく真琴の背後にやってきた折糸が口を挟んだ。
驚いて飛び上がったのは真琴だけだったから、手遅れではあるが何食わぬ顔で冷静を装った。
「今しがた、葉王暗殺未遂の容疑で渡派の数名が捕らえられたと情報が入りました」
「何だと。葉王は?」
「ご無事です。他に負傷者もいません。確認しに行きますか?」
「参ろう」
心臓の奥底がどくどくと鳴っている。真琴は服の上から自分の左胸に手を当てた。
暗殺を企んだ人間がいる。絶対的な存在であるあの葉王を亡き者にしようと行動した者たちがいる。そしてそいつ等は、あろうことか渡派だと宣っているのだ。
「何て愚かなことを」
渡が葉王を尊敬し、葉王が渡を信頼していることなんて、傍で見ていればすぐ分かる。本当に渡派であるのなら暗殺を目論む理由が無い。
「そいつら渡派って言うより、渡さんの威を借りて自分たちの思想を押し付けたいだけでしょう」
折糸は首肯した。それから連日の徹夜でやつれた顔に、少しの呆れを滲ませる。
「ですが実際、派閥なんてそんなものですよ。勝手に上の者に自分の理想を押し付けて、そこに少しでもズレがあれば糾弾する。それを傍から見て、愚かだ私は違う、といくら思っていようとも、私たちが渡様に付き従う限り、いつだってその立場になる可能性はあります」
折糸は話しを終わらせるように軽く手を叩いた。
「さて、行きましょうか。ご案内しますね」
☆
勝手に想像していたのは黴臭い地下牢だったから、到着してすぐに肩透かしを食らった気になった。
渡一行は葉流城の龍の間に通された。
宴会場のように広い。四方八方に使われている黄金の襖のせいで、目がちかちかする。
「よくもやってくれおったな、夏見よ」
「殺し損ねてしまったがね」
夏見と呼ばれた妙齢の女は座敷に座り込んでいた。乱れた黒髪を白々しく整えながら、真っ赤な唇に弧を描く。切れ長の目は真っすぐに渡を見ていた。
二人の間に走るのは少しの緊張感と、嗅ぎ慣れない強い香の匂いだった。それは夏見の傍らに丸まっている二人の女から漂ってくる。
不慣れな真琴は、すぐに口元を袖で覆った。
「薬を使ったのか」
「これでも薬師だからね。殺すならそれが手っ取り早いだろうさ」
「この香は?」
「催淫効果のある香だ。そんなに強いものではありゃせんよ」
この女、暗殺未遂を犯したくせに何をのうのうと喋っているのだ。真琴が疑念を抱いていると、葉王がやってきた。無事だと知っていたが、思っていた以上にけろりとしている。
「夏見、薬師の資格は剥奪するぞ」
「そうかい、残念だけど仕方ないね。なんせ葉王を殺そうとしたんだからさ」
夏見に縋って体を丸めている女たちが、えぐえぐと泣き始める。
気がつけば、大罪を犯そうとした者との面会の割には、あまり締まりのない空気になっていた。
葉王が渡の背中を叩く。
「渡、どうする。これはまた厄介な女に絡まれたぞ」
「私を殺せばいい。そうすれば解放されるじゃないか。あんたも、私も」
弧を描いていた真っ赤な唇は、見間違いかもしれないが少しだけ引きつっているように見えた。
葉王が困ったように眉を下げる。
「殺せたなら苦労はしない。夏見を殺したくないと分かれ」
「分かっているからこそ、こんな暴挙に出たんだよ」
夏見は偉そうにふんぞり返り、葉王を目だけで促した。
この場にいる全員が夏見を取り囲むようにして床に座った。そのような様子から、真琴はこれがただの暗殺未遂事件ではないと何となく感じ取った。
「まずは俺を殺そうとした理由を述べてみろ」
「相変わらず強引な男だね。まあいい、理由は単純明快だよ。三葉主の屑に唆されたのさ」
「楽心園の駆爺か」
「そうだよ。私が逆らえないのはあの人ぐらいだからねえ」
葉王は再び眉を下げた。
会話をかいつまんで聞いていた真琴は、夏見を使って葉王を殺そうとした黒幕がいるということを知った。つまり、そいつも捕まえないといけないのではないか。
「そいつが黒幕って分かっているなら、早いところ捕まえましょうよ」
渡の腕を激しく揺らす。渡はとても鬱陶しそうな顔をしていたが、振り払いはしなかった。その代わり、けっこうな力で額を小突かれてしまったが。
「三葉主の一人、しかも楽心園を担当する駆爺を相手に、我々は簡単に手出しできん」
「何故です。葉王を殺そうとしたのに」
「其方の疑問はもっともだがな」
どうか説明を、と促す。
それでも渋る渡に代わって口を開いたのは、意外にも葉王だった。