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通り雨には毒がある  作者: 白宮しう
一章 表と裏
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五話 白岩場の稽古

 勢いよく畳に倒れ込んだ真琴は、荒い呼気を吐き出した。

 滝のように流れ落ちる汗を拭う気力は残っていない。


「きっつ」

 

 吐き捨てた言葉に対して返ってきたのは、呆れを含んだ素っ気ない笑い声だった。

 最上階にある稽古場は、小さいころに習わされていた道場にそっくりだった。一面畳の床と、熱のこもった匂いが懐かしい。

 ごろりと寝返りを打った真琴は、渡の背中に声をかけた。


「表国って変なところです。裏国じゃこんなことできない」

「素質があれば裏国の者でもこなせる。其方のようにな」

 

 銀縁眼鏡をかけた折糸が、渡の後ろで激しく頷いていた。


「裏国から来たとは思えません。初日でこれほど気を練れるとは思いませんでした」

 

 そう言われると素直に嬉しい。もう動けないと思っていた体を起こした真琴は、手を付いて深々と頭を下げた。


「ご指導ありがとうございました。今日はここまでで結構です」

「それを決めるのは私だ。もう一度だ、真琴よ」

 

 真琴は返事を渋った。

 渡が稽古をつけると言うから大人しく着いてきたことは、早計だったと言わざるを得なかった。稽古場に入るなり座禅を組まされ、ろくな説明もないまま気を集中させろと言ってきたのだ。何を言っているのだと思いながら、目の前に置かれた蝋燭の火をひたすら見続けること数分で、状況は一変した。

 一度、炎が大きく揺らめいたと思ったら、花が枯れるかのように儚く消えてしまったのだ。


「消えてしまいましたね。どこからか風が入っているかもしれません」

 

 そう知らせた真琴は、周囲の反応を見て不思議に思った。

 珍しく驚いている渡と、呆然と立ち尽くす折糸。その間から青ざめた顔をした九打がやってきて、再び蝋燭に火をつけた。


「ねえ、もう一度やってみせてよ」

 

 真琴は蘇った小さな火を見つめた。先ほどと同じように意識を集中させると、今度は爆ぜるようにして舞い散った。

 ここでようやく、真琴自身が火を消したことに気付いたのだった。

 それから、こうして真琴が倒れ込むまで延々と同じことが繰り返された結果、今に至るわけである。どういうわけか、火を消す度に体が重たくなっていくのだ。いくら裏国に帰るためとは言え、今日はもう無理だと匙を投げた。

 どうしても頷かない真琴に、渡は苦笑を漏らしてから首肯した。


「分かった、今日はもう終わりにしよう」

 

 稽古場を出ると、天窓の向こう側はすっかり暗くなっていた。それだけ長い時間、ここに閉じ込められていたのだと知って、明日が少しだけ憂鬱になる。

 背中を丸めると、九打が労うように肩を組んできた。


「ただ火を見ていただけなのに、こんなに疲れるものなんだなって」

「気を集中させるには体力と気力が必要だからね。気づかなくても消耗しているはずだよ」

「そっか。明日もするのかなあ、しんどいなあ」

「こればかりは仕方ないよ。渦と契約する為には、気を練ることが必要不可欠だからね」

 

 九打と折糸とは施設の出入り口で別れた。これから仕事に戻るらしい。明日から、渡がいない時は彼らが代わりに稽古をつけてくれるのだと教えられた。

 渡の家に帰ると、鼻腔をくすぐる美味しい匂いとともに紅乱が出迎えてくれた。真琴を見るなり、有無を言わせぬ一言が飛ぶ。


「まずはお風呂ですね」

 

 真琴は檜の湯船にどっぷり浸かりながら、帰りの馬車で渡と話したことを思い返していた。


「其方は気を練れたが、それに耐えうる体力が欠けておる。明日からは体力向上に努めなさい」

「気を練るより大変でしょうね。運動には自信がありませんので」

 

 渡の扇子で頭を小突かれた。抗議しようと睨みつけると、思いのほか真剣な顔をしていたから怒りは飲み込んでしまった。


「あの小さな火を消すまでに、優秀な九打でさえ一年かかったぞ」

「え、そうなんですか」

「ただの思い付きで其方にやらせてみたが、本来は体力を付けてから数年かけて気を練る稽古をするものだ」

 

 渡が言っていることが事実なのだとしたら、真琴は間違いなく異例だ。だからこそ、思い当たるところがあった。


「俺が渦に追いかけられたことと何か関係あるんでしょうね」

「かもしれんな」

 

 ちゃぽんと湯が跳ねる音に、意識が引き戻された。

 心地良い疲労感と檜の匂いに包まれた真琴は、少しだけ名残惜しく思いつつも湯船から上がった。

 すりガラスの引き戸を挟んで、紅乱から声がかかった。


「ご飯、運び始めますね」

「はい、よろしくお願いします」

 

 食べて寝て、明日に備えよう。こんな日がしばらく続くのだろうから、早く慣れてしまいたいと真琴は思った。


 白岩場一帯に広がる立方体の施設は、同じ眺めが続くせいで歩いていると方向感覚が失われる。

 真琴は歩いて来た道を振り返ってみたが、ここを進んできたのだと言う確証は持てなかった。

 楽心園へ下れる大きな坂の近くに着くと、白い岩が敷き詰められた谷底があった。なかなか深いから、落ちてしまったら簡単には這い上がれないだろう。


「それで、ここで何をするんだ?」

 

 真琴をここへ連れて来た張本人である九打に問う。今日は施設に着くなり渡に仕事が入ってしまったから、九打と二人きりなのだ。

 返答の代わりに、にんまりと口角を釣り上げた九打と目が合った。

 危険だ、と真琴の直感が告げていた。


「九打、何する気だ」

「いいから落ちて」

 

 軽い調子で九打が言う。見かけの割に強い力で、真琴の胸をどんと押した。

 当たり前のように谷底に落ちて行く真琴は、既視感のある光景にうんざりした。見上げる先には、悪戯が成功してはしゃぐ子供のような九打がいる。


「ちくしょう!」

「大丈夫、柔い石だから大した怪我はしないよ。こっちに戻ってきな、すごく良い体力づくりになるからさ」

「そういうことは事前に言ってくれよ!」

 

 九打の言った通り、背中に受けた衝撃は大したものではなかった。しかし、やはり這い上がるのは簡単では無さそうだ。

 皮膚のようにぶよぶよしている白い岩の上では、真っすぐ立つことすらままならない。小鹿のように震えていると、九打がお腹を抱えてけらけらと笑うから癇に障った。

 どうにかして登ってやる、と息巻いた真琴は、ぶよぶよの岩壁へ足をかけた。


「真琴って、本当に運動が苦手なんだなって理解したよ」

 

 九打にそう言わしめた真琴は、数刻前と変わらず白い谷底にいた。

 ここに来た時は真っ青だった空が、今は立派な茜色である。見惚れそうなほど美しい眺めではあるが、切羽詰まっている真琴には響かなかった。


「くそ、どうしてだ」

 

 一日中岩壁に食い込ませていた指が痛みを訴えている。

 足と手を使い、テレビで見たロッククライミングを真似てよじ登ろうと何度も挑戦してみたのだが、まるで歯が立たない。ぶよぶよの岩に跳ね返されてしまう。

 そもそもこのぶよぶよの岩は何だ。岩とは言わないのではないか。思考が逸れ始めたところで、一本の縄が垂れてきた。


「引き上げるから掴まりなよ。真琴でもそれくらいの体力はあるよね」

「九打あ!」

 

 やっと谷底から脱出できることに歓喜した真琴は、いそいそと縄を握り締めた。

 そうして久しぶりに地上へ戻った真琴は、間を置かずに表情の読めない渡と再会を果たした。

 極度の疲労により立つことを諦めた真琴は、寝転がったままあははと愛想笑いを作る。


「お久しぶりですね、渡さん」

「其方には早かったかもしれない。まずは走るところから始めよう」

 

 九打が信じられないとでも言いたげな目で渡を見る。


「それじゃあ町内会の活動と変わらないじゃないですか」

「ちょ、町内会」

 

 真琴は夏休みを思い出した。近所の友達と一緒に、早朝のラジオ体操に参加していた時のことを。小さな子からお年寄りまで、けっこうな人数が集まるのだ。毎年のように皆勤賞を貰っていたなあ、とそれほど懐かしくも無い過去を懐かしんでみる。


「そうか、俺は町内会でしかろくに運動してこなかったから、そうなるのか」

 

 何かと理由をつけて体育を休み、極力動かないでいられるように休日は自室に引きこもっていたツケが回って来たのだろう。


「渡さん、俺ちゃんと走って町内会で鍛えます」

 

 渦との契約に体力が必要なのだから、逃げずにやるしかないのだ。そうでないと真琴は裏国へ帰れない。

 決心して息巻く真琴を、二人の生暖かい眼差しが見つめた。

 程なくして、一心不乱にこちらへ走ってくる折糸の姿が見えた。


「渡様、至急お伝えしたいことがございます」

「申せ」

「はい。本日の総会にて落葉の第二葉だいにはの出征要員が決定しました。その中に夜矢丸も含まれておりますが、これは渡様のご意向でしょうか」

「そうだ。夜矢丸には二葉でも落葉の統率を取ってもらう」

 

 折糸はずかずかと渡との間合いを詰めた。への字に曲がった口を開く。


「私が夜矢丸と相性が悪いから、今回も選ばれなかったのですか」

「それは違う。折糸の適性は分かっているつもりだ。今の研究室を任せられるのは其方しかおらん」

 

 折糸はそれでも気が済まない様子ではあったが、しぶしぶ食い下がった。一礼して、足早に帰って行く。

 その背中を誰かが引き留めることは無かった。居心地の悪さは残ったが、すぐに霧散する程度のものだった。

 手応えの無かった稽古を終えて家に帰ると、蜜花がいた。


「おかえりなさい、真琴様」

「ただいまです。えっと、何故ここに」

「なかなか葉流城に来て下さらないから会いに来ました。ちゃんとお父様から許可を取って来たので心配には及びません。そうよね、早瀬はやせ

「いやはや、ご宿泊には良い顔をしておりませんでしたが、蜜花様が散々ごねたおかげでどうにか許可を取れた次第でして」

 

 真琴たちの送迎をしてくれている御者が、後から家に入って来るなり申し訳なさそうに言った。

 たくさんの呆れと諦めを含んだ顔をした渡は、どうにか「一先ず食事にしよう」とだけ言葉にして、すたすたと廊下の先へ消えて行った。


「良かった、渡様のお許しもいただけて」

 

 蜜花の柔い手が真琴の手首を掴む。ここでようやく、いつものように家中が美味しい匂いに包まれていることに気が付いた。

 真琴の腹が音を立てたが、はしゃぐ蜜花のおかげで誰にもばれなかった。

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