四話 落葉と透
早朝、日が上り切らないうちに叩き起こされた真琴はとても不機嫌だった。
「蹴らなくてもいいじゃないですか、渡さん。俺が泣けば虐待ですよ」
「加減はした。それに、五回は声をかけてやったのに起きない其方が悪い」
言い合っていると、てきぱきと朝食の片づけをしていた紅乱が割って入って来た。
「お二人とも、遅刻しますよ」
温度は無いが圧力のある声に負けて、二人はすごすごと家を出た。
外には一台の馬車が止まっていた。操縦席からひょっこりと顔を出したのは、昨日の御者だった。
「おはようございます。それでは白岩場に向かいます。飛ばすのでしっかり掴まっていてくださいね」
昨日のように頼りない紐をぐっと握りしめると、馬車が勢いよく動き出した。
白岩場に到着したのは、日の出がはっきり見え始めたころだった。
昨日も白岩場を超えて葉流城まで行ったはずだが、その時は軍事施設なんてものは見えなかった。だから今日、真琴は初めてその全貌を目の当たりにした。
「これって、ちゃんと中に人がいるのでしょうか」
真っ白な漆喰で塗り固められた、巨大な立方体を見上げる。
真琴が疑問に思ったのは、この建物のどこにも窓が見当たらなかったからだ。
「心配せずとも、どの施設も天窓が備えられているから日は入る」
渡が見ている方向に顔をずらすと、同じような建物がずらりと並んでいた。まるで工場地帯のように殺風景だ。聞くと、白岩場全体がこの建物で埋まっているらしい。
すたすたと進んでいく渡の背中を追いかける。人は見当たらず、辺りはしんと静まり返っている。
「楽心園とかけ離れた雰囲気で驚きました」
「すぐに慣れる。こちらへ来なさい」
大きなサイコロとサイコロの間を縫うようにして歩く。そのうち、自分が小さくなってしまったような心地になった。不思議の国のアリスのように。
「ここが入り口だ」
扉も壁と同じように漆喰が塗られていた。目を凝らさなければ、ここが入り口だと分からないだろう。
恐る恐る中へ入る。
途端に、音が洪水のように流れ込んできた。
人々が忙しなく歩き回っている。あちらこちらの会話が混じって雑音になっている。中には大声で誰かを呼んでいる者がいる。
皆、和服の上に白衣を合わせた見慣れない恰好をしていたが、似たような光景を知っている。裏国の通勤通学ラッシュ時の駅構内そのままだ。
どっと疲れが出た真琴は、人の波に流されそうになっているところを僅かな気力で耐える。
「渡さん、俺ずっとここにいないと駄目ですか」
「二階へ向かう。ここよりは落ち着いているはずだ」
渡が扉を閉めて屋内を歩き出すと、すれ違う人たちが慌てて歩を止め、頭を下げていた。
「構わず続けなさい」
渡のその一言で、機械人形の如く活動を再会する人々とすれ違う。大人たちの顔に覇気は無く、裏国の満員電車で見慣れた顔と一致した。
「忙しそうなところですね」
「白岩場は軍事施設だと言っておったが、分かりやすくかみ砕くと、便利屋みたいなところだ。表国で何か問題が起きれば、白岩場の者たちが渦に乗って飛んで向かう。忙しくない日は無い」
階段を上ってすぐに扉が一つだけあった。第一研究室と書かれた半紙が乱雑に張りつけられている。
「失礼する」
渡に続いて中に入ると、大勢の疲れた顔が揃って真琴に注がれた。挨拶をするような雰囲気でも無かったから、強張った顔で会釈するにとどめる。
一拍置いてから、どこからか大きな溜息が聞こえた。やはり無理矢理にでも挨拶は必要だったのかもしれない。
一人で反省会を開いていた真琴の目前に、部屋の奥からやってきた白衣の女性が腕を組んで立った。
銀縁眼鏡の奥から、切れ長の鋭い目が真琴を睨んでいる。
「お言葉ですが、この少年は誰ですか? 落葉では無いですよね」
「ああ。だが渦を与えてやろうと思っている裏国の子だ」
「なるほど。理由は何にせよ、仕事が増えるってわけですね」
分かりやすく額に手を当て意気消沈する女性。しばらくしてから、綺麗に髪をまとめていた簪を引き抜いて、渡に恭しく頭を下げた。
艶のある綺麗な黒髪がはらはらと舞う。
「三日連続徹夜でしたので、これから仮眠を取らせて頂きます。私に話しがあるならその後にしてください」
「そうする。いつもすまないな、折糸」
「その分、お金になってくれるので耐えられますよ、まだ」
折糸がひらりと手を振って颯爽と去って行くと、張りつめていた空気が緩んだ気がした。
その場を仕切り直すように、渡が手を叩く。
「落葉よ、この子をよろしく頼む」
遠巻きに様子をうかがっていた人たちが、わらわらと真琴の元へ集まって来る。興味津々の目や、何かを疑っているような目、好意的な目も感じ取れた。
その中に、真琴と歳の変わらない少年がいた。彼は渡に向かって挙手した。
「目的は何ですか?」
「この子を裏国に帰す。それから、個人的に面白いと思った事象があったから、調べるのも兼ねてと言ったところだ」
「理解しました」
少女のように見える中性的な顔をした彼は、真琴との握手を求めた。
猫のような大きな目が楽しそうに細められる。
「僕は九打。よろしくね」
九打は歳が近い人と接することが久々らしく、真琴を喜んで受け入れてくれた。にぱりと笑った口から見える八重歯が、よりいっそう猫らしくて和む。
今は九打に食堂や稽古場に案内してもらっているところだ。後ろから渡も着いてきているが、度々話しかけられていて距離は遠のく一方である。
「渡様は落葉で一番偉い方だから、いつも忙しいんだ」
こてんと小首を傾げた真琴を見た九打がそう教えてくれた。
他にも表国についていろいろ教えてくれた。渦を得られた選りすぐりの力を持つ者たちを集めた組織を落葉と言うのだと。逆に、渦を持たない人々は透と言うのだとも。
九打は吹き抜けの最上階から、サイコロみたいなこの建物と、行き交う人々を見下ろす。
真上の天窓から射しこむ日差しは、項をじんわりと焦がすかのように強い。
「白岩場は、戦力の要である落葉が住まう場所。だからこうして手厚く囲われ守られている。窮屈だけれど、これほど安全な場所は無いよ。だから真琴も安心すると良い。渡様の傍にいるのなら、君に脅威が降り注ぐことはないだろうからね」
「脅威って?」
「説明が難しいね。そうだなあ、我が表国だって裏国と同じく、人が覇権を握っているのは同じだってことだよ」
みしり、と空間が軋んだ音がした。
直感的に地震だと思った真琴だったが、予想は外れていた。
一階まで照らす大きな天窓が、ぎいぎいと叫びながら開け放たれたことが原因だった。
「すごい風だ」
上から下へ、叩きつけるような激しい風が巻き起こった。身が飛んでいきそうになった真琴は、咄嗟に柵にしがみ付く。そこから一階を見下ろすと、あれだけいた人々はすでにいなかった。
隣にしゃがんだ九打が、空を指差した。
「落葉の第一葉がお帰りなさった」
空に目を凝らした真琴には、それが豆粒ほどの黒い点にしか見えなかった。けれど点は途轍もない勢いで大きくなり、やがて真琴の頭上にある開け放たれている天窓をすっぽりと覆った。
一瞬、夜が来たのかと思うほどに視界が真っ暗になる。しかし、ずっと目を凝らしていた真琴は、これの正体が渦だと分かっていた。
渦はするすると身を小さくし、たった一人分の足元に収まる形になった。再び明瞭になった視界の先には、小さな渦の上に乗った人々が映った。
何十もの渦と人の群れが、真琴の目の前にある吹き抜けを通って一階へと降りていく。
奇妙な光景であるはずなのに、彼らはどこか神々しささえ感じるほどの威厳を放っていた。
「落葉の第一葉、無事に帰還いたしました」
溌溂とした声に続いて、地響きが沸き起こる。それが人々の歓声だと真琴が気付くまでに数秒かかった。
九打に腕を引かれて立ち上がる。
「残念だけれど、第一葉の対応で渡様はますます忙しくなるだろうね」
「そうでもない」
後ろから落ち着いた声がした。そこには揚々と扇子で仰ぐ渡がいた。
天窓が再び耳障りな音楽を奏でながら閉まっていく。思わず顔を顰める真琴とは違って、渡の表情はずっと凪いでいた。
真琴たちが仮眠をとっていた折糸と再会したのは、食堂で腹を満たした後だった。入口に、血色の悪い顔をした折糸が覚束ない足取りでやってきたのだ。
日替わり定食を乗せた盆を手にした彼女が、隣の席に腰掛けた。吐き出される深い溜息と低い呻き声には年季が入っている。
「最悪。第一葉の奴らに、微妙な時間に起こされたわ」
あれだけの歓声で起きない方が難しいだろう。可哀そうに、と子供ながらに同情心を寄せた真琴と、眼鏡を外した折糸の目がはたと合ってしまった。
「あ、どうも」
「はあ、どうも。用件があるなら食後に聞きますので」
分かりやすく心の壁を作られた手前、引き下がらないでいることは難しかった。お互い静かに視線を外す。そうして真琴は席を外している渡と九打の帰りを大人しく待った。
程なくして食堂がざわついた。
「折糸、久しぶりだな。相変わらず三葉主様にこき使われているようで何よりだ」
「これはこれは、夜矢丸様ではありませんか。まさか挨拶に来てくれるとは思いもしませんでしたよ」
意図せず棘のある会話に挟まれてしまった真琴は、そうっと席を立った。
折糸に絡んできたこの男には見覚えがある。天窓から降りてくる、落葉の第一葉の中に彼もいたはずだ。額から顎にかけて大きな切り傷があったから記憶に残っていた。
殺伐とした雰囲気に巻き込まれないよう、このまま立ち去ろうとした真琴だったが、運悪く渡が帰って来てしまった。
「何を騒いでおる、夜矢丸よ」
「そんなつもりはありませんよ。折糸にただいまって伝えに来ただけです。やめてください、三葉主であるあなたに凄まれると怖くて泣いちゃいます」
軽薄な笑みを見せた夜矢丸は、それはもうわざとらしく折糸の頭を撫でてから食堂を後にした。真琴は折糸が「気持ち悪い。今日は絶対家に帰って風呂入ろ」と決意を口にしたのを聞き逃さなかった。