三話 葉王
鳥居を出てから人子一人いなかったのに、坂を登り切ると景色が一変した。
眼下に広がる街には、溢れんばかりの群衆がひしめき合っていたのだ。
活気づいた賑やかな声がここまで届くことにも驚いた。
「ここから中心街までは下り坂です。速度が出ますのでしっかり掴まっていてくださいね」
御者の忠告通り、車体は倍近くの速度で走った。真琴は蜜花を真似て、天井から吊るされている頼りない紐に縋りついた。
そんな中、何とも無い顔をしている渡が車窓の向こうに目を向ける。
「ここは表国の中心街、楽心園だ。商いや芸が盛んでな、とにかく人が集まるから昼夜問わずこの調子だ」
「へえ、都会よりも人がいるんじゃないかってくらいですね」
勢いのまま中心街に馬車が突っ込むと、耳が痛いくらいの賑わいが襲ってくる。けれど嫌な感じはしなかった。誰もかれもが楽しそうに見えたから、真琴は夢中になって楽心園を観察していた。
時代劇に出てくる長屋のような建物が所狭しに続いている場所も見つけた。道は舗装されていないが、歩道と車道は分かれていた。歩道は人がぎゅうぎゅうで歩くのに一苦労しそうだが、車道は割と快適に進めている。
「渡さん、あれは何ですか」
「あれは学舎だ」
長屋と長屋の間に、一つだけ大きな瓦屋根の建物が不自然に鎮座していたから気になった。大名屋敷かと思ったが、まさか学校だったとは。
「表国にも学校ってあるんだ」
「当たり前だ。無学では何も始めることは出来ぬ。それは裏国も表国も同じであろう」
葉流城までの道すがら、真琴は二人から様々なことを教えてもらった。例えば表国は四つの山で形成されており、それが階段状に続いていることや、楽心園がその最下層に位置することも。
「楽心園の上には白岩場。白岩場の上には清水郷。そして、最上層におりますのが葉流城」
蜜花が歌うように言う。
真琴は車窓から顔を出し、進行方向に目を走らせた。天高く続く、青々とした葉をまとった雄大な山脈を見上げて息を飲む。
キャンプ場の山なんてちっぽけに思えるほど大きい。
日が暮れたころになってようやく馬車が止まった。何度か休憩を挟んで進んでいたおかげで疲れは無い。
外に出ると、視界いっぱいに広がる城壁が待ち構えていた。至る所に提灯がぶら下げられていて周囲は明るい。お祭りでもやっているのだろうか。
「渡様、わたしもご一緒します」
「ただ挨拶するだけですぞ」
「構いません。それでは、ご案内しますね」
意気込んでいる蜜花に続いて城内へ入った。左右には隙なく手入れされた日本庭園。そして、正面には玄関に続いているのだろう大きな引き戸がある。そこに行き着くまでの道は石畳になっていて、乾いた足音が人数分鳴った。
「おかえりなさいませ」
人とすれ違う度、恭しく頭を下げられる。慣れない真琴がしどろもどろでいると、渡があっけらかんと言い放つ。
「誰も其方に頭を下げているわけでは無い。だから気にせずとも良いぞ」
「それはそうですけど! 別に、最初から分かってますけど!」
ふん、と大げさに渡から顔を背ける。そこでようやく、くすくすと笑われていることに気付いた。蜜花と、ここまで着いてきた御者にである。
「何、俺らは漫才を見せられているのでしょうか」
「ふふふ、馬車の中でもこの調子だったの。わたし、お話を聞いているだけで面白くて」
どこがおもしろいのか問いただしたいところではあったが、片手に提灯を持った女に声を掛けられたから踏みとどまった。
「おかえりなさいませ。葉王様でしたら鶴の間で休んでおられます。蜜花様の帰りが遅いとご心配されておりましたよ」
「ちょっと門限を過ぎただけなのに大げさね」
つんと唇を尖らせる蜜花を目にした真琴は、ここでようやく蜜花と自分の歳は差ほど離れていないかもしれないと思い至った。あまりにも淑やかであったから、ガキの自分とは違うと勝手に決めつけていただけで、存外子供らしいところもあったようだ。
「真琴様、この角を曲がれば鶴の間ですからね」
「はい、分かりました」
真琴は気を引き締める。これから表国を統べる葉王との顔合わせなのだ。緊張しないでいられるはずがない。
鶴が羽ばたく様子が描かれた襖と屏風と掛け軸に囲まれた、その名の通りである鶴の間。奥にある小上がりには、男が一人胡坐をかいていた。
「おかえり、蜜花。ずいぶん長いこと外出しておったようだな」
「遅くなってごめんなさい、お父様」
不服そうな顔のまま謝罪を述べた蜜花は、話題を変えるかのように真琴の背中を強引に押し出した。たたらを踏んだ真琴は、生贄の如く葉王の真正面に出る羽目になった。
鍛え上げられた肉体が、着流しの上からでも良く分かる。焼けて浅黒くなっている健康的な肌と、太い眉に太い首。歴戦の戦士のような鋭い眼差しが真琴を見ているが、その口元は緩く笑みを描いていた。
「それよりお父様、珍しいお客様がいらっしゃるのです」
「それは渡がここにいることも関係しているのだろうな」
真琴の後方で、恭しく頭を下げている渡。真琴は張りつけた笑顔のまま、渡を真似て慌てて頭を下げた。
「よいぞ、申してみよ」
一歩前へ出た渡が、頭を下げたまま口を開いた。
「はい。その少年は裏国の者でございます。どう言う訳か、通り雨に遭い表国へ来たようで。葉王に面倒をかけるわけにはいきませんから、帰れるよう私が面倒を見ようと思っている次第でございます」
「それはまた珍しいことが起こったな」
葉王は獣のような唸り声をあげながら思案し、数分と経たずに結論を出した。
「渡に任せて間違いはない。頼んだぞ」
「承知しました」
こうして、葉王への挨拶は思っていたよりあっさりと終えられた。
鶴の間を後にしたあと、提灯が等間隔で灯る長い廊下を歩く。大きな窓からは薄ら明るい日本庭園が見えた。
真琴は気づかぬ内に緊張で強張っていた指先を握り込んだ。葉王は思っていたより数倍優しい人だったが、その数倍威厳のある人だった。一言で人を動かせるような気さえする絶対的な君主の匂いでいっぱいだった。
真琴は前を歩く渡との距離を詰めた。
「渡さん、俺のことを引き受けてくれてありがとうございます」
「その言葉は帰る時まで取っておけ。今のは聞かなかったことにしてやろう」
途端に、蜜花と御者の笑い声が廊下に響いた。
「まあ渡様、照れ隠しにもほどがあるのでは?」
顔を顰めた渡は、大げさに足音を立てながら玄関へと進んでいく。
そのまま連れ立って城壁の外に出た真琴たちは、悠然と聳え立つ葉流城を見上げた。ここからでは真上が見えないほどに大きい。
「いつでも遊びに来てください。お待ちしておりますから」
「はい、それではまた」
蜜花と御者に別れを告げた真琴は、先を行く渡の背中を追った。
生暖かい夜風が気持ち良い。緊張から解き放たれた反動か、急に眠たくなってきた。小さく欠伸を零す。
「私の家はすぐそこだ。それまで耐えろ」
「ふあい、渡さん」
頭が左右に大きく揺れる。気を抜いたら一瞬で寝てしまえるだろう。歩きながらでも。
呆れたような吐息が頭上から聞こえた気がした。
「おかえりなさいませ、渡様」
葉流城から徒歩十分もかからなかったと思う。大きな瓦屋根を持つ道場のような屋敷に着いた。ここが渡の家らしい。
中に入ると、恭しく頭を下げて出迎えてくれる、年若い女中がいた。
「紅乱、すまないが今日から一人増える。裏国から来た真琴だ」
「突然お邪魔してすみません、お世話になります」
「いえいえ、お気になさらず。私のことは気安く紅乱ちゃん、もしくはお姉ちゃんとお呼びくださいね、真琴様。できれば後者を推奨します」
きらきらと輝く目が真琴を捉えて離さない。急に悪寒がしたから不安になって渡の袖に縋りついた。
「これ紅乱、あまり怖がらせるな」
「怖がらす気なんて毛頭もございませんわ、失礼ですこと。お食事もお風呂も準備できておりますので、お好きになさってください。私は真琴様の寝床の準備をしてきますので!」
つん、と澄ました顔をして数歩進んだが、唐突に踵を返した。
「ところで真琴様、お姉ちゃんの添い寝は必要でしょうか? お布団ならいくらでもありますので、一緒に寝れますよ」
「いえ、結構です」
間髪入れずに返答すると、紅乱は見るからに落ち込んでしまった。肩を落としたまま去って行く姿からは哀愁さえ感じ取れる。
渡から微塵も気にすることは無いと言われたが、これからお世話になる身だし、できることなら仲良くしておきたかった。
十人は入れそうなほど広い檜の風呂で長湯し、存分に体を休めることができた真琴を待ち構えていたのは、洗いたての清潔な着物と豪勢な食事だった。
何種類もの小鉢や大きな焼き魚が机いっぱいに並べられている光景は、旅館で見た時以来の衝撃だった。
ふかふかの座布団に腰を下ろすと、紅乱が音もなく真横に来る。
「あーんが必要でしたらいつでも申してくださいね」
「ははは」
あれだけ気落ちしていたことが嘘だったかのように真琴に構いたがる紅乱を見て、少しの安堵と恐怖が同時に襲ってくる不思議な感覚である。
渡の咳払いで紅乱はしぶしぶ自席へ戻って行ったが、真琴は聞き逃さなかった。小さな舌打ちを。
「それでは、明日は白岩場に向かわれるのですね」
紅乱がよく喋ってくれるおかげで、食卓は明るく賑やかなものになった。仲良くできないと残念に思っていたが、杞憂で済んで何よりだ。
渦を手に入れて裏国に帰りたいのだと伝えると、紅乱が教えてくれた。
「確かに渦と契約を結べるのは葉流城だけですけれど、それを手に入れるための鍛錬は白岩場でないとできませんから」
「白岩場には何があるんですか?」
「あそこは表国の軍事施設が集結しているのですよ。表国の要と言っても過言ではありません。ですからみんな、白岩場で渦を得られるよう肉体を作ります」
真琴の頭に、鍛えられた軍隊と戦車がぱっと浮かぶ。平安時代を思わせる風光明媚な表国には似つかわしくないなと何となく思った。
「まさかそんな施設があるとは思いませんでした」
「其方が思っているような所では無いと思うがな」
静かに味噌汁を啜った後、渡はそう呟いた。