二話 表国と裏国
階段を降り切ると、瞬く間に靴に水が入ってきた。不快だ。顔を歪めた真琴に目敏く気づいた渡が言い聞かす。
「ここは谷底だ、しばし耐えろ」
谷底と言うだけあって、鳥居の下には靴底を濡らす嵩の低い流水以外に何も無かった。人が住んでいる気配すらない。
ぴちゃぴちゃと足音を立てながら歩き続けた二人が足を止めたのは、谷底の行き止まりに辿り着いた時だった。
「ここって、本当に谷底なんでしょうか」
口をついて出たのは、純粋な疑問だった。
萎びた巨木があったところとは全く違う。ここは谷底だと言うのに、真琴の目と鼻の先には果ての無い雲海が広がっているのだ。真琴の足元を流れて行く水が、雲海へ吸い込まれるようにして落ちていく。その光景はまるで滝のようだった。
「此処は谷底なのか、と言ったな」
ゆったりとした動作で渡が振り向いた。
真琴が一つ頷くと、渡は人差し指を真っすぐ天に向けた。途端に雷鳴が轟き、ざあざあと激しい雨が降り出した。
真琴の脳裏に過ったのは、崖から落ちてしまう時に見上げた雨空だった。
渡の朗々とした声は谷底で良く響く。
「此処は表国と言って、其方の居った裏国の遥か上空に位置しておる世界だ。そしてこの谷底は、表国の一番端にあたる」
「一番、端っこ」
「そうだ。この雲海の遥か下に裏国がある。其方の居った世界がな」
雲海に吸い込まれて行く流水と激しい雨が混ざり合い水飛沫が上がる。それは真琴の全身を余すことなく濡らした。それでも視線は逸らせない。どこまで目を走らせても途切れない、途方もない雲海は壮観であったが恐怖すら覚えた。
「俺はどうやって帰れば良いんですか」
「ここから落ちれば良い。生きている保証は無いがな」
真琴は鬼の形相で渡の襟首に掴みかかった。
「この野郎、最初からそのつもりだったのか。俺はあんたが助けてくれると信じてついて来たのに!」
「気の荒い奴め。冗談が通じないか」
皺だらけの片手が真琴の手に重なると、魔法のようにするりと解けた。
それでも怒気をすぐに沈められなかった真琴は、むすっとしたまま渡に問う。
「それじゃあ他に帰り方があると言うことですね」
「ああ。だが、時間を要する」
「どうしてですか」
渡は答えずに空を見上げた。釣られるように真琴も顔を上げる。
そこには、まるで雲のように二人の頭上を塞ぐ目玉の化け物がいた。大きい目がぎょろりと動いて真琴を捉える。山中で出会った目玉より何倍も大きい。
「其方が裏国で見たという目玉の化け物はこれだろう」
「俺が見たのはもっと小さかったですが」
言っている間にも、目玉がゆっくり下降してくる。それに比例して雲のような真っ白な体は次第に小さくなっていく。最終的に小型犬ほどの大きさに収まった目玉が、渡の烏帽子に乗っかった。
「この目玉の正体は渦と言う。滅多に裏国に現れることのない、雨を司る表国の神だ」
「確かに、山中で渦と遭遇してから雨が降り出したことは覚えていますけど、これが神様?」
渦を見ると目玉を閉じてしまった。目玉を閉じるとそれこそ雲にしか見えない。これが表国の神であり、普段裏国にはいない渦。そうだとしたら、真琴が山中で遭遇した渦は何なのだろうか。
「裏国には八百万の神がおる。そこから弾き飛ばされてしまった小さき神が表国に根付き、そこから渦と我々の関りは長く続いておる。だからこそ、其方が裏国で見たという渦に興味がある」
渡はどこからともなく取り出した扇子を顎に当て思案顔になる。
雨は次第に引いて行き、再び足元を濡らす程度の流水が穏やかに流れ始めた。
しばらく続いた沈黙を破った渡が、納得いかないと言いたげに口を開いた。
「渦ならば出入りの管理も記録も徹底されておるはずなのだがな」
どうやら真琴が遭遇した渦はイレギュラーらしい。渡は重たい溜息をついて真琴に向き直った。
「そのことに関してはこちらで調べておこう。それよりも今は其方のことだ。いいか、帰るために渦を手に入れなさい。なかなか厳しいかもしれんが、私も協力しようぞ」
真琴は自分なりに頭を捻って考えた。帰る先は雲海の遥か下で、今の自分は装備も何も持っていない。
意を決して重々しく頷くまで、それほど時間はかからなかった。
「つまり、帰るための足を手に入れろということですね」
「そういうことだ」
渡の厳しい顔つきが少しだけ緩む。
これからお世話になるのだからと頭を下げると、とても嫌そうな顔に変わってしまったが。
「子供は子供らしくしておれ」
少しばかり心外な言葉をもらったが、今回だけは許してやろう。もしも渡が真琴を見つけてくれなければいつまでも一人ぼっちだったかもしれないし、感謝こそすれと言うやつである。
渦を手に入れた暁には、世話になった分の礼くらいはしてやろうと静かに息巻いた。
「渦よ、私を運びなさい」
渡が烏帽子で眠っている綿毛のような渦をつつく。すると小さく身を震わせて、座布団のような形状になった。その上に胡坐をかいて座った渡は、当然とでも言いたげに堂々と「では参ろうか」と言ってのけた。
雨のせいで全身びしょ濡れの状態、おまけにさんざん走り回ったせいで体力だってほとんど残っていない真琴からしてみると羨ましくて仕方ない。
「子供相手に、よくもまあ」
「悪く思うな、渦は契約者しか乗せられんのだ」
そんなところだろうなと思っていたから不満はない。渦に二人で乗れるのなら、とっくに裏国へ行ってくれと懇願していただろう。しかし、渡は初めからその提案を出しもしなかった。
真琴が不満なのはそこでは無く、はぐれないよう渦の後ろを追いかける真琴を見ては、楽しそうに笑う渡の性根についてである。
「くそじじい」
今は表国の端から中央に向けて進んでいる。足元の流水は自然と途切れ、そこからは陸路であったから歩きやすかった。
「聞こえておるぞ」
「地獄耳!」
軽口を言い合っていると、傾斜の大きな長い坂が見えて来た。渦に乗っている渡には関係ないが、いくら若いと言えども真琴の足は限界を訴えている。
少しくらい遠回りして回避することはできないだろうかと周囲を確認してみるが、視力一・〇で見える限界まで坂が続いていた。
「渡さん、すいませんけどちょっと休憩しましょうよ」
「うむ。良いだろう」
渦が止まったのを見届けてから大の字で寝転がった。
空は雲一つない快晴だ。このまま眠ってしまいたいほどに真琴は疲れていた。歩いているうちに乾いた衣服から雨の匂いは消えている。その代わりに太陽の匂いが鼻をくすぐり、余計に睡魔が襲ってくる。
くわあ、と欠伸をするともう耐えられなかった。こくんこくんと何度か船を漕いでから意識は遠のいた。
目覚めた時には、元いた世界へ戻っているかもしれないと心の内で期待しながら。
「あら、お可哀そうに」
鈴の音を転がしたような可愛らしい声とともに、ほんのり冷たい手が真琴の額に添えられた。
もう少しだけ眠っていたいと思いながらも、どうにか重たい瞼を持ち上げる。
視界いっぱいに見えたのは、真琴をじっと見つめる見知らぬ顔であった。
「え、誰?」
寝起きでぼやける目をこすって、もう一度開ける。そこには、美しい笑みを浮かべた少女がいた。距離が近いな、と思ってから気づく。どうやらこの少女の膝の上に真琴の頭が乗っかっているらしいことに。
慌てて身を起こすと、少女が笑みを深めた。
「お疲れでしょう、もう少し休んではどうですか。ねえ渡様、良いでしょう?」
「いくら姫様のご提案でも、あまりに帰る時間が遅いのは如何なものかと」
犬の如くぴくりと真琴の耳が動いた。
「あの、この方は誰ですか?」
「丁度良い、教えておこう。この御方は葉流城を統べる葉王の娘、蜜花姫だ」
名前以外はさっぱり分からないと首を傾げると、まあそうだろうなと言う目で渡が言葉を加えてくれた。
「行く場所が同じだから仲良くしなさい。お偉いさんの大切な娘さんだ」
「すっごく雑にまとめられた感じがしますが。でもその、はじめまして蜜花姫。俺は真琴です。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
ふふふ、と笑いながら袖で口元を隠す蜜花からは、確かに気品を感じた。見ると着物も上等な物だと分かる。きめ細やかな光沢のある赤と金の糸が織り込まれた単衣羽織は、普段馴染みのない真琴の目を楽しませた。
渡の傍には一台の馬車が止まっていた。御者が一人いたが、こちらには無関心で本を読んでいる。
渡が真琴に手招きをする。
「これから向かう葉流城は、渦と契約を結べる唯一の地だ。其方にはそこを統べる葉王と会ってもらわなければならない。私が其方の面倒を見ることに了承して貰わなければならぬのだ」
「なるほど。俺、ちょっと緊張してきたかも」
「緊張するほどでもない。葉王は懐の深い方だからな。挨拶するつもりでいれば良い」
「そう言うものですか」
揚々と頷く渡の言葉をひとまず信じることにした。
それから蜜花も含めた三人で馬車に乗り込むと、真琴が諦めた坂を勢いよく上りはじめた。