一話 はじまりの巨木
真琴は山の奥深くを駆けていた。
降りしきる雨のせいで靴はとっくに泥に塗れ、全身くまなくびしょ濡れで体が重い。
それでも真琴には足を止められない理由があった。
「何だよあれ、何だよあれは!」
背後に迫る禍々しい気配。真琴は自分を追って来る何かから必死に逃げていた。
あれは何だ。何故、自分を追って来るのだ。いくら考えても分からない。あれとばったり遭遇した時に一瞬だけ見えた、人の顔ほどある大きな目玉が頭の中にこびり付いて消えない。
次々と目に入ってくる雨を拭いながら逃げ惑っているうちに、すっかり日が暮れてしまったことを悔やんだ。
この山にあるキャンプ場に来るのは今日が初めてだから、土地勘は全く無い。せめて一緒に来た両親に連絡を取ることができれば良かったが、あいにく連絡手段は持っていない。
「これは詰んでるだろ。だからスマホ欲しいって言ったのに!」
無事に中学校の入学式を終えたお祝いに強請ったスマートフォンは、家族会議によって否決された。一学期の成績が良ければ進呈するとの判決が出てしまったのだ。
一生恨んでやる、と涙を滲ませながら力を振り絞って加速したら、太い木の根に足を取られてしまった。勢いを殺せず派手に転がる。その先には遥か下まで続く深い崖があった。
「あ、死ぬわ」
崖に放り出された真琴を襲う浮遊感。静かに目を閉じて死を受け入れた。
昨日の新聞で見た、登山者の死。インドア派の自分には縁遠いと思っていたが、まさかこんな死に方をするとは思わなかった。
思わずふっと笑いが漏れる。人生の最後なんだから、もう少しくらい感動的な台詞を残したかったな、なんて図太い自分が顔をのぞかせたから。
それから数分は経ったころ、真琴の顔はついに怪訝そうに歪んだ。
「なんかおかしくないか」
いくら待てども真琴に死は訪れなかった。いや、分かっていないだけですでに死んでいるのかもしれないが、何の衝撃も無いのだ。
固く閉じていた目をゆっくり開けると、目の前にぎょろりと動く大きな一つの目玉があった。
真琴を追いかけて来たあれに間違いない。
体が硬直して、ひっと喉が引き攣る。恐怖に震えた真琴は腰を抜かしながらも目玉から後退りした。そこで初めて、自分が雲のようなものに乗っていることに気付いた。その端に付いている目玉が、じっと真琴を見つめているのだ。
「もしかして今、目玉の化け物に乗ってるのか」
目玉は肯定するように瞬きした。
それを見て真琴の口角が強がるように上がった。どうやらこの目玉に敵意はないようだし、喋れないが意思の疎通はできるらしい。
真琴は恐怖が極まったせいで変にテンションが高ぶったことを自覚しながらも、得体のしれない化け物を相手に毒づくことを止められなかった。
「お前が追って来るせいで危うく死にかけたんだからな! 俺に何の用があるって言うんだよ」
目玉は真琴を乗せたままよろよろと下降した。
真琴はざっと三メートルある真っ白な巨体に手を這わす。少しの温かさを感じるだけで実体はなかった。掴もうとしても霞のようで掴めない。
巨体からひょいと顔を出して下を見ると、崖下まであと少しの距離だった。本当に地面に激突する前に助けてくれたのだ。
「礼を言うのは違うか」
そもそも追いかけて来たこの目玉のせいで死にそうになったのだ。真琴は口を尖らせるだけに留めた。
崖下に到着すると、目玉は自ら巨体を揺らして真琴を無造作に放り投げた。
突然のことだったので真琴に受け身が取れるはずもなく、豪快に顔面から地面に突っ込んだ。痛さはあまりない。受け止めてくれた肉厚の苔のおかげだ。
「何だここは」
見上げても岩肌しか見えず、落ちて来たところは遥か上だと分かる。
真琴がいるのは崖下で間違いない。それなのに薄っすらと明るく、深緑の地面がよく見えた。不思議に思って光の源を辿ってみると、頭上ではなく真琴の目の前に聳えたつ巨木のおかげであることが分かった。
立派な幹は五メートル以上ありそうで、そこから伸びる枝も太い。それを止まり木のように利用している小さな光の粒たちが、巨木をびっしりと覆っていた。
「こんなところに蛍の大群がいるのか」
興味本位で幹に手を伸ばす。触れるか触れないかの直前で、光が一斉に飛び去った。
視界を埋め尽くすほどの光景は、壮観だと思わざるを得なかった。
光が遠ざかったあと幹の部分に目を戻すと、ひどく萎びていて丸裸の頼りない木であることが露わになった。この木はすでに死んでしまっているのだろうか。
「なんだか残念だな、こんなに立派な木なのに」
真琴の隣に音もなく忍び寄って来た目玉が、雲のような巨体を押し付ける。何の感触もないが、やはり少しの温かさだけはあった。
「急にどうしたんだよ」
目玉が真琴を見つめて瞬きした。
すると、いつの間にか止みかけていた雨が、数秒も経たずに勢いを取り戻した。目玉から逃げていた時の比ではないほどの激しい雨だ。
いよいよ目を開けていられなくなった真琴は、顔を伏せてしゃがみ込んだ。体中に打ち付ける雨が痛い。
遥か上ではゴロゴロと雷が鳴っている。苔の地面はあっという間に水分を含んでしっとりと重くなった。
目玉が雨から守るように真琴を包み込んでくれた。ほんのり温かい。山中を走り続けて疲労が溜まっていた真琴は、気づけば眠りについていた。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
激しい通り雨は止んでいた。雨上がりを乾かす太陽の匂いが爽やかで心地よい。眠ったおかげで頭がすっきりした真琴は、気分よく起き上がった。
「目玉がいない。と言うか、ここはどこだ」
きょろきょろと四方八方を見るが、そこは知らない土地だった。
真琴がいたのは鳥居の真下だった。もう少し寝相が悪かったら、真後ろにある長い階段から転げ落ちていたかもしれない。
そこから目を逸らして鳥居の奥に進むと、崖下にあった巨木とは比にならないほど生き生きとした大きな木があった。しめ縄が巻かれていて、幹にはいくつものお札が張られている。
「へえ、こんなにでかい御神木ってあるんだな」
ふんふん、と頷いてみる。それから木の周囲をぐるぐると回ってみる。鳥居の外に出たり入ったり、階段を下りたり上ったりもしてみる。
「全く人がいない。どうやって帰ればいいんだよ」
人がいるところまで行かねば、今度こそ死んでしまうかもしれない。だってここには食料も何も無い。ぶるりと悪寒に身を震わせた真琴は、うんうんと悩んだ末、鳥居から離れることを決めた。
さて、もう一度階段を降りよう。
「おや、ここで何をしておる」
そう意気込んだ矢先、階段を上って来る老人に声をかけられた。
真琴の涙腺が数秒もかからずに緩む。だばだばと涙を垂れ流しながらその人に縋りつくことに、一切の恥は感じなかった。
「ずびばぜん、俺を助げでぐだざい!」
歳の割に背筋がしゃんと伸びていて、人を殺してしまいそうな鋭い眼光が特徴的な老人。見るからに厳格そうな彼は、自身を白岩場の渡と名乗った。
真っ白な長髪を一つにまとめており、頭には烏帽子が乗っている。平安時代を彷彿させる束帯に似た深い群青色の和装は、素人目にも上質な物だと分かる。
「して真琴、其方がいたのは日本で間違いないのだな」
「はい。それで、ここはどこなんですか」
しばらく続く沈黙で悟った。真琴の問に答える気はさらさら無いらしい。が、まあいい。どうせ頼れる人は渡だけなのだから。
いきなり訳の分からない場所に来てしまった真琴は、少しばかり投げやりになっていた。しかし、厳しそうな相貌に反して、渡は存外親切な人だった。
号泣する真琴からことの経緯を聞き終えた渡は、助けてやると申し出てくれた。この親切を逃すまいと涙を拭った真琴は、渡の後ろに引っついて鳥居から離れることを決めたのだった。