郵便です
奇妙な手紙が届いたのは、うだるような夏の暑さが残る夕方のことだった。
「郵便です」
男だと思う声が玄関に響いた。ちょうど俺は一階にいてその声が聞こえたから、ドアを開けてポストに向かう。既に配達員はいなかった。
ポストを開けて中を確認する。茶色くて細長い封筒が一つ入っていた。手のひらに収まるサイズだ。
「差出人は……書いてないな」
俺の住所と名前と消印が封筒の表にあるが、裏には何も書かれていない。
そんな郵便は受け付けられるのだろうか……
家の中に戻った俺はリビングで中身を確認する。
上部をハサミで切って、中の紙を取り出した。
『三十日後、迎えにあがります』
白い紙にたった一行の文章。
それも端正な字でボールペンか何かで書かれている。
「薄気味悪いな。悪戯か?」
ゴミ箱に丸めて捨てようか迷ったけど、妻に見られたら無用な心配をされてしまう。
俺は自分の部屋の机の中に紙を入れた。
それからしばらくして、妻の真由美が帰ってきた。
夕飯の買い物だった。今から作るねと汗を拭きながら真由美は言う。
俺はリビングでご飯を待って、出来上がった料理とビールを楽しんだ。
肉料理にはビールがよく合う。のど越しも最高だった。
酔い覚ましに食器を代わりに洗って、真由美と一緒にテレビを見て、程よい熱さの風呂に入って、いい感じに睡魔が来たところで寝た。
手紙のことはすっかりと忘れてしまった。
◆◇◆◇
「今日は遅くなるの?」
「いいや。早めに帰るよ」
妻の真由美にそう告げて、俺は会社へと向かう。
混雑する電車の中、俺はスマホでニュースを眺めていた。いつもの日課だ。
会社に着いて、仕事の準備をすると、後輩の高橋から「佐野さん。手紙が届いていますよ」と人事部からの転送された封筒を渡された。何通かあるそれを「ああ、ありがとう」と言って受け取った。
全部で四通ある封筒はどれも関わりのある企業のもので……一つだけ違う。
見覚えのある、いや、昨日見た茶色い封筒だった。
差出人が書いていない……例の封筒。
「あれ? どうしたんですか? 違っていましたか?」
仕分けをしてくれた高橋が不安そうに寄ってくる。
俺は「いや、差出人が書いていないんだ」と言いつつ手で千切って開けた。
『二十九日後、迎えにあがります』
またも端正な字で書かれた文章。
一緒に見ていた高橋は「なんですそれ?」と怪訝な顔をしている。
「よく分からないが……今度から差出人の書かれていないものは配らなくていい」
「えっと、分かりました」
高橋は不思議そうな顔で従ってくれた。
俺は動揺を隠していた。
何故、俺の職場に封筒が届いたのか。
まさか、ストーカーなのか?
だとしてもどうして、意味のないことをするんだ?
よくよく考えたら、日数が減っている……それも薄気味悪い。
俺は仕事に没頭しようとしたが、いまいち集中できず、上司の叱責を受けることになった。
◆◇◆◇
それから手紙は毎日届いた。
一日ずつ日数が減っていく。
まるで俺に残された時間がないと思わせるような……
なるだけ手紙を見ないようにしているのだけれど、どうしても見てしまう。
妻の真由美が持ってきたことが多かった。妻は手紙に怯える俺を見て「何かあったの?」と訊ねる。その度に虚勢で封筒の中身を見て「なんでもない」と答える。
本当はどんどんどんどん減っていく日数なんて見たくないのに。
日数が十五日になったときから、俺は晩酌のビールが美味しくないことに気づく。癒しだったそれは睡眠を促すため、そして手紙のことを考えないようにするために落ちぶれた。いくら飲んでも美味しさが分からない。前はあんなに美味しくてすぐに酔えたのに。泡ものど越しもその美味しさが分からない。味覚がおかしくなったみたいだ。
俺は手紙を見ないよう、封筒のまま焼くことにした。
灰皿の上に封筒を置き、ライターで火を点けた。
「こ、これなら、もう、俺は……」
しかし、期待したことは起こらなかった。
なんと封筒だけ燃え尽きて、手紙だけが残ってしまった。
『十一日後、迎えにあがります』
「う、ううう、うわああああああ!」
頭がどうにかなりそうだった!
なんでなんでなんで、手紙が燃えなかったんだ!
まるで意思があるかのような、馬鹿な、そんなことを考えるな!
吐き気がする! 気がおかしくなりそうだ!
「あ、あなた! どうしたの!?」
真由美が俺の背中をさする。
いつの間にかうずくまって唸っていたらしい。
「真由美、助けて……」
「しっかりして。私がついているから」
その日は俺が落ち着くまで、真由美は一緒にいてくれた。
回復まではいかないが、一応の落ち着きは取り戻した。
そして翌日。
俺は出社することにした。
真由美は心配していたけど、妻のためにも働かないといけない。
いつもの混雑する電車の中。
俺は金輪際、手紙を見ないと決めて――スマホを見た。
このとき、画面が歪んで、ひずんで、砕けるような音がした――
一瞬、目を瞑って、再び目を開ける。
『十日後、迎えにあがります』
その言葉がスマホの画面いっぱいに映し出されていた!
ああ、逃れられない。
俺はもう、逃げられないんだ。
……いや、まだ手があるはずだ。
吐き気と叫びたい気持ちを押さえつつ、途中の駅で下車した俺は、呼吸を整えつつ、会社へ向かう電車とは反対方向に乗った。
◆◇◆◇
その後も手紙は届き続けた。
俺は敢えてそれを読み続けた。
どうせ読まずにはいられないんだ。だったら無駄な抵抗はしない。
十日間、俺は手紙から逃げ続けた。
山奥のロッジに辿り着いた。だけど手紙は届き続ける。
俺はどういう意味か分かってきた。俺をどこかへ迎えにいくつもりだ。
そしてそれは俺が今いる世界ではない! きっと恐ろしい場所だ。
持ってきた水をごくりと飲む。食事は喉を通らない。
ああ、真由美。許してくれ。俺はあと一日で……
最後の手段としてロッジの隙間を全て塞いだ。
ガムテープと段ボール、新聞紙などで隙間なく。
スマホは既に壊した。物理的には届かないはずだ。
頼む、今日さえ乗り切れば……俺は。
電話も切った。ああ、寒い……
ドアの外から声がする……
「郵便です」
俺は返事をしなかった。
三十日前に聞いた男と一緒……かもしれない。
「……郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です郵便です」
うるさい! 黙れ! さっさと失せろ!
そう怒鳴って、俺は頭を手で押さえつつ、恐怖で震えた。
身体が震えて仕方がない。寒いだけじゃない。
誰か、助けて、助けて、助けて――
「あなた。ここを開けて」
ふと聞こえたのは、真由美の声。
塞いだドア越しから真由美の声が聞こえる!
「ま、真由美なのか!? ああ、真由美! 助けてくれ!」
「ここを開けて。一緒に家に帰りましょう」
俺は塞いだドアを懸命に開けた。
くそ、どうしてこんな頑丈に塞いだんだ!
早く。早く早く。真由美に早く会いたい。早く早く早く!
「――真由美!」
ドアをこじ開けて、勢いよく外に飛び出した。
そこには、真由美がいて。満面の笑みを浮かべた真由美がいて。
手には手紙が広げてあって。
『お迎えにあがりました』
真由美を、見た。
「――郵便です」