終戦暦1214年四ノ月十一日 オヤーユン=モルズ
終戦暦1214年四ノ月十一日 オヤーユン=モルズ
「ゾイル村でサハギンの襲撃だと?」
モルズ領の領主館の執務室で、館の主であるモルズ男爵は、その報告に疑念の声を上げた。
モルズ領の漁村では、頻繁に、というほどではないが、対応が確立される程には、サハギンを始めとした海の魔物の被害が発生する。普段であれば村から被害報告を受けた役人が、冒険者ギルドへ討伐依頼を出す裁可を求める書類を作成し、その他の書類とともに領主の執務机に積み上げておくはずだ。
それが今回は、村から報告を受けた役人が、直接領主に口頭で報告を上げてきたのだ。いつも通りの方法では対処できず、至急領主の判断が必要であるということだ。
「サハギンの襲撃など、今までにもあっただろう。わざわざ報告に来るとは、領軍の動員が必要なほどの大群が現れたのか?」
「いえ、数は十数体とのことです」
十数体……多いことには多いが、討伐報酬を数相応に値上げすればいいだけの話だ。大きな被害が出るほどではなく、緊急事態とは言えない規模だ。
「しかし、サハギンと戦った漁師が、サハギンの傷が再生していたと証言しているんです」
「再生だと?」
怪魚種や魔蟲種の魔物が、再生系のスキルを覚えていることは珍しくない。しかしそれは、魔素濃度が高い「人外領域」での話だ。最下級の再生系スキルである【末端再生】でも習得可能レベルは11以上のはず。ゾイル村の周辺海域ではレベル10を超えるレベルアップはできないはずだ。
「【死の海域】からはぐれて来たのか……?」
「可能性はありますが、低いでしょう。魔境の魔物は、魔境の外へは出たがりませんし、【死の海域】ではあの“恐れ知らず”どもが間引きをしていますから」
「ああ、そうだったな。確かに奴らが根付いてから、【死の海域】から魔物が溢れたことはない」
モルズ領の東方に広がる海中魔境、【死の海域】。その場所であれば、【末端再生】を習得しているサハギンは数多く生息しているだろう。しかし、【死の海域】では定期的に間引きを行なう者たちがおり、魔境から魔物が追い出される事例はもう何年も起きていない。
そもそも【死の海域】とゾイル村はそこそこ離れており、間には他の漁村がいくつかある。サハギン達が【死の海域】から出てきたとするならば、近くの村を素通りしわざわざ遠くの村まで移動する理由がない。
となると考えられるのは二つ。【死の海域】とは別の魔境から、縄張りを追われ流れて来たか、あるいは―――
「ゾイル村周辺に新たな魔境か迷宮が誕生したと言うのか」
「はい、現状その可能性が最も高いでしょう」
モルズ男爵は思わず目を覆いたくなった。通常、魔境や迷宮等の人外領域は、防衛に多大な費用がかかる反面、冒険者や商人を呼び込み経済を発展させ、他領の人外領域に遠征をせずとも領地の兵士をレベリングすることのできる、為政者に取ってありがたい存在だ。
しかし、それが海中にあるとすれば別である。険しい山や密林、砂漠や雪原であろうと、命知らずの冒険者は富を求めてやってくる。しかし、流石に海の上で魔物と戦おうという猛者はいない。……モルズ領にはなぜか百人ほどいるが、普通はいないのだ。
川や湖であれば治水工事で水を抜くことができるかも知れないが、海底を露出させることは、如何なる魔術師でも不可能だろう。
利益は望めず防衛負担だけが伸し掛かかる。それがモルズ男爵領にとっての【死の海域】だった。
五十年ほど前までは、竜脈から噴き出す魔素が不安定になるたびに、魔物の氾濫が起き、多大な被害が出ていたらしい。
“恐れ知らずの狂信者”どもが来る前の、【死の海域】での間引きや魔物の氾濫の記録を思い出せば、モルズ男爵が部下に弱気な姿を見せてしまうのも仕方のないことであった。
「御館様、【死の海域】と同じく、あの“恐れ知らず”共にやらせておくわけには行かないのでしょうか?」
「ああ、できることなら押し付けてしまいたいが、そういうわけにもいかん。既に東のノブ村とラッカイ村ではあの邪教に染まってしまっておる。今でもグレーだと言うのに、南のゾイル村まで奴らの勢力が広まれば、流石に無視することはできん」
本来あの“狂信者”共の信ずる神は、前の大戦の敗北者であり、布教や宗教施設の建設に厳しい規制が掛けられている。にも関わらず、彼らはいくつもの漁村で布教活動を行っており、最も影響力の高いノブ村とラッカイ村では祭祀場まで建てている。
モルズ男爵がそれを見逃しているのは、取り締まろうにも海に逃げられては領軍では追い付けないと言う事と、何より彼らが修行として【死の海域】で魔物狩り行っているからだ。
熟練の冒険者や領軍でも尻込みする危険地帯に、彼らは漁舟で突っ込んでいくのである。
邪教に入信してしまった村人達が相応に死んでしまっているが、それでも領軍が間引きするよりも、遥かに少ない犠牲と資金で魔物の氾濫を防ぐことができている。そのため、モルズ男爵家では先代の時分から、彼らを放置する政策を取っていた。
しかしその方針が災いし、共に血を流して魔境から村を守る“狂信者”達は、村人に受け入れられ急速に信者を増やしていった。
辺境の男爵領のそのまた片隅の数ヶ村程度であれば、まだ許容できるが、南方でも同じ様に邪教が広まれば、流石に近隣の領主から詰問を受けるだろう。反乱の危険性も考えなければならなくなる。
南に新たな魔境ができたのであれば、それは領軍で対処しなければならない。
「迷宮であれば地上に発生している可能性もあるが……望み薄だろうな」
魔境と違い、迷宮は自然に発生する物ではない。明確な目的の下に神が創り出すものだ。大戦の時代では、魔物を生み出す軍事拠点として使われていたが、現在では信仰を集めるためか、信者の修練の場として創られる。
信者のために創られるのであれば、予め自身の信者に迷宮の発生を神託で伝えるものだ。しかし、モルズ男爵領にいくつがある教会からは、そのような報告は上げられていない。
そして、信仰を集めるためであれば、田舎の男爵領の、しかも人目に付かないような場所に創られたりはしない。
高レベルサハギンの発生原因は十中八九、魔境によるものであろう。モルズ男爵はそう考えた。
「まあ嘆いていても始まらん。とにかく急ぎ調査をしなければな。冒険者ギルドにはゾイル村の防衛とサハギン討伐の依頼を出せ。調査は一番隊を行かせよう」
「はっ、承知しました。モーキフ隊長をお呼びします」
「それと、新たな魔境が発生した場合の防衛費の見積りも、今の内から始めるぞ」
「承知しました。……しかし、中々の大仕事になりそうですね」
「そうだな、オイフェテ伯に援助を頂けないか手紙を出さねばな」
本来、魔境の防衛は一男爵家程度の軍事力で行うものではない。通常は冒険者ギルドの協力や、他の貴族家からの融資で対応するところなのだが、如何せん海中の魔境は危険度が高く、その上利益を上げるのが難しいため、誰も手を出したがらない。
寄親(直属の上司の様なもの)のオイフェテ伯爵に泣きつけば、いくらか融資はしてもらえるだろうが、返せる宛がない以上、別の見返りを求められるだろう。
「もし迷宮であれば、逆に領地を発展させる好機なのだが……」
「そうですね。あ、御館様!あの“狂信者”達の神が迷宮を創ったという可能性もあるのでは!」
報告をしていた男爵の部下は、防衛資料の作成から目を背けるために、自身にとって都合のいい可能性を述べた。
「おいおい、それはそれで、別の問題が出てくるだろう。まあだが、そんなことは起こり得ないがな。あの“狂信者”共の崇める邪神―――『青海の神』は大戦時に『蒼天の神』と相討ちとなり消滅したのだから」
「習得可能レベル」…スキルは、レベルアップの際に吸収した魔素によって習得するため、一定以上の魔素量が必要なスキルは、それ相応のレベルでなければ習得できない。ただし、種族差や個体差によっての習得しやすさもあるので、魔物が低レベルで習得できるからと言って、人間も同レベルで同じスキルを習得できるとは限らない。
「人外領域」…迷宮や魔境などの、魔素濃度が高く高位の魔物が生息しているため、人間が生活することができない土地。外域とも呼ばれる。反対に魔素濃度の低い土地を人類領域、または人域と言う。
「モルズ男爵領その1」…一つの町とその周辺の村々を治める一般的な男爵領。大陸南東の角にあり、南と東に海が広がっている。




