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朝から妙な態度を見せるヒメルを副官室に残し、スノウは司令部庁舎を出た。基地内を碁盤の目のように走る道路を横切って、目的地へ向かう。
向かっている場所はガンデルク基地医務室。共和国軍人が毎年受けなければならない健康診断を受ける為だ。
正直なところ、この上なく面倒臭い。
幼い頃に戦災孤児となって以来、裏社会で殺し屋として生きてきたスノウは、一度もまともな医療機関にかかったことがない。
もちろん保険なんて入っていないし、そもそも拘束される恐れがあるので病院自体を避けていた。
それでも問題なく生きているのだから、間違いなく健康体なのだろう。いままでも、そしてこれから先も、共軍の医務室の世話になることはないと断言できる自信がある。健康診断など必要ないのだ。
しかし今は、任務のため陸軍少尉エルド・ロウとしての仮面を被っている最中。エルド・ロウが共和国軍人である以上、年に1回の健康診断は避けては通れない。
それは仕方ないにしても、仕事が忙しすぎて通常の時間に検診予約が取れないとはどういうことか。
おかげで時間外の特別枠として医務室側に個別依頼をするはめになってしまった。
それもこれも、あの新任司令官ハインロット大佐が余計な仕事を次々と増やすのが原因だ。
つい先日も、格闘技競技会という名のバカ騒ぎに付き合わされ、ただただ徒労感を味わうハメになってしまった。
思わず、使い古されたようなため息が口をついて出る。
しかし不意に一瞬だけ、脳裏に琥珀色の瞳が浮かんだ。それと同時に、花のような香りと頬に感じた柔らかい感覚が思い出される。
……まあ。多少良いことはあったか。ほんの少しだけ──…
──いや、ごくわずかだな…
──いやいや、本当に毛の先ほどなら……
(……なにを考えているんだ俺は?)
自分で自分に呆れてしまい、歩きながら呻くように息を吐く。
(さっさと終わらせてさっさと帰ろう……)
スノウは足早に医務室に向かった。
ガンデルク基地医務室は、一般の庁舎が立ち並ぶ建物群の一番はずれの区画に建つ、平屋の建物だ。
医療機関という特性上、感染症などの際に隔離しやすくするため、複数の部隊が混在する庁舎からは独立した単体の建物になっている。
医務室は、各地方隊の中にある『衛生隊』とは別にある部隊だ。
衛生隊が作戦時に兵士と共に戦場を駆け回る実戦に特化した部隊だとすれば、医務室は基地に常駐し、平時の診療業務に特化している部隊と言える。
その大きな任務の一つが兵士の健康診断。
毎年行われるそれは、市井の病院でやっているそれと何ら変わりはない。
ここだけ切り取って見てしまうと、この場所が軍の基地の中だということを忘れてしまうくらい、静かで落ち着いた空間。
のはずなのだが──…
スノウが医務室の正面玄関にやってくると、中から騒がしい声が聞こえた。
どうやら医務室の中で誰かが大声を出して暴れているようだ。
事前に裏の通用口から入るように言われているので、声のする正面玄関からは中に入らないつもりなのだが、様子が気になったスノウは玄関のガラス戸の外から中を少し覗いた。
漏れ聞こえる声が聞き覚えのあるものだったのだ。
「本当のことを言ってください!! ロウと密会の約束をしていたのではないのですか⁉」
間違いない。この声はあいつだ。
スノウはげんなりして肩を落とす。
声の主は、スノウが自身で心底嫌いだと感じている人物──。
ヤナギ。
士官学校では同期生だったらしいが、フルネームは知らない。知ったとしても覚えるつもりもない。スノウにとってはその程度の男だ。
「何を言ってるのかわからないわ。もう一度わかるように話してくれないかしら」
わめき声とは対照的な落ち着いた女の声がする。
見ると、ヤナギの丁度正面に士官の階級をつけた女が立っている。
何の変哲もない共軍の軍服を着用しているにも関わらず、体の起伏が大きいために妙にあだっぽく見える女だ。
ヤナギはその女に対峙しながら、掴み掛からんとする勢いでわめいた。
「あなたがロウと密会すると聞いて、私は止めに来たのです!! あの男に関わってはいけません! あなたはあの男に騙されている!!」
「あの男?」
「エルド・ロウは卑怯で薄汚い男です!! あなたには相応しくない!!」
どうやら話題にあげられているのは自分らしい。アイツめまた性懲りもなく騒ぎを起こしやがって。
別にあいつに目の敵にされたところで気にもしないのだが、周りを巻き込んで騒動に発展させる行為は看過できない。
先日の格闘技競技会がいい例だ。
あんなバカ騒ぎに巻き込まれるのは、二度と御免だ。
一体なんの会話をしているのだろう。
そう思い、ヤナギの正面に立つ女を見やると、その顔には多少見覚えがあった。
もともと司令部勤務者の顔は一通り覚えている。その記憶からすると、あの女性士官は確か、法務官アキナ・コーノミヤ。直接言葉を交わしたことはないが、このガンデルク基地で唯一の法務職者だ。
そんな人物がこんな場所でヤナギと言い争っている理由がとんと思い当たらないが、やつは先日の格闘技競技会での行為を上官からこっぴどく叱責され、更に査問委員会の対象者になる直前まで行ったらしいので、おおかたその関係で法務官と何かしらの繋がりがあるのだろう。
それにしてもヤナギのやつ、ついこの間まで司令官に対して異常なまでの執着心を見せていたくせに、もう別の女に言い寄っているのだろうか。節操のない男だ。
「あいつは部下の下士官を使って俺の周りをコソコソ探らせていたんですよ⁉ 卑劣極まりないやつだッ!!」
(……)
心の底から思い当たる節がないのだが。
疲れたようにため息を吐くと、スノウはその場を離れた。
言いたいように言わせておこう。
なんのネガティブキャンペーンか知らないが、わざわざあの場に割って入ったところで特に有益になることはない。
表の騒ぎは華麗にスルーして建物の裏手に回ると、通用口があった。
そこから中に入ると、通用口から続く廊下の先より、白衣を着た髭面の男がこちらに向かって歩いてくる。
「おお、君がロウ副官だね」
「無理を言って申し訳ありませんアキナ医務官。対応していただきありがとうございます」
「いやいや、君が忙しくしているのは知っているからね。副司令官からも、君は本当によく働くと聞いている。時間外に対応するくらい大した事じゃない」
短めの茶色い髭に顔の半分を覆われたその男は、満面の笑みを浮かべて言った。
彼はロドリゲス・アキナ医務官。ガンデルク基地医務室の主任医師であり、ここの責任者。医務室長である。
「さっそく始めようか。まずは問診からでいいかな?」
「お願いします」
「申し訳ないが診察室が空いていなくてね。普段は更衣室として使っている部屋なのだが、ここで構わないかい?」
「問題ありません」
『関係者以外入室禁止』と書かれたプレートが付いた扉を開けて中に入るアキナ医務官。スノウも続いて部屋の中に入った。
◆◇◆
あまり乗り気でないスエサキ軍曹を引きずって医務室に向かったヒメルは、正面玄関から入ってすぐのロビーに、なにやら人だかりができているのを見つけた。
なんだろう。なんかトラブルでもあったのだろうか。
そう思って近付いていくと、突然「おおーッ!」という歓声が上がった。
「何があったんだ?」
ただならぬ様子にさすがに気になったのか、スエサキ軍曹までもが首を伸ばす。
「なんかイベントでもやっているんですかね?」
「はあ? 医務室で?」
そんなわけ無いか。
健康診断が始まる今時期の医務室は一年の内で一番忙しい。イベントなんかしている暇あるわけがない。
人混みをかき分けて中に入ったヒメルは、そこで思いも寄らない状況を目にすることになった。
「女性に手を挙げるのは感心しないわねヤナギ君。またコンプラ事案起こしたいのかしら?」
「いだだだだッ!!」
ヤナギだった。
先ほど法務室で盛大に美しくない水を顔から垂れ流していたヤナギが、やけに色気を漂わせる女性に腕を取られて押さえ付けられていたのだ。
もしかして、この人が法務官アキナ・コーノミヤ?
ヒメルは咄嗟にスエサキ軍曹を見やった。
すぐ後ろで同じようにヤナギを傍観していたスエサキ軍曹は、ヒメルの視線に気付いて小さく頷く。
「さっきも話したけど、君は少し思い込みが激しいところがある。行動を起こす前に、意識して自分を落ち着かせるようにしたほうがいいわね」
色気ダダ漏れの女性は余裕の表情で、ヤナギの背中に腕を回して締め上げながら、耳元に息を吹き掛けるようなささやき声で言った。
(カッコいいーーッ!)
この人がアキナ法務官。色気のある大人の女性でありながら大の男も押さえつけられるほど強いとは!
「ぐ、ふはあッ!!」
締め上げられたヤナギは、なんか気持ち悪い声を出して身体をのけ反らせた。
その表情は、痛いというよりは恍惚…、いや、あの顔、もしかしてちょっとイッちゃってるんじゃないのか。キモ〜。
(──はッ、そんなことより司令官はッ⁉)
人混みから這い出たヒメルは、あたりを見回した。
早く司令官を見つけないと。
逢引現場を押さえると言っていたから、副官を見つけ次第、問答無用で踏み込むつもりでいるはずだ。
この基地において最高位の階級を持つ指揮官に突然踏み込まれるなんて、副官はまだしも一般兵士にしてみれば恐怖でしかない。
ある意味、ヤナギなんか可愛く思えてくるぐらいの危険人物を野に放っている状態と言える。
「司令官と副司令官を探そう」
スエサキ軍曹も状況は分かっているのか、ロビーから続く廊下の先へ向かって顎をしゃくる。
あたりには午後の診察を待っている一般兵士が多く行き交っていた。
廊下に置かれた長椅子に掛けて呼ばれるのを待っている者。待合室のソファーに座って数人で談笑している者など様々。
しかしここから見える範囲に、司令官の姿も副司令官の姿もない。
「……いない。もしかして、まだ医務室には来ていないのかな?」
だったら玄関前で待っていれば、事が起きる前に二人を止められるかも──
そんな希望が湧き上がり、ヒメルの顔が明るくなる。しかし直後、
「司令官、そこですぞ!! いまそこの部屋にロウ少尉が入って行くのが見えました!!」
どこからか聞こえてきた声に反応し、ヒメルの身体は硬直した。そのすぐ後ろに立っていたスエサキ軍曹も、ヒメルと同じように動かなくなる。
そして揃って、もうどうにでもなれというような気持ちで目を細める。
「ヒメル。淡い期待は捨てた方がいい」
「ですね」
ロビー奥の廊下の方から聞こえたその声は、紛れもなく副司令官ハンター中佐だった。
急いで声のした方向に向かう。
待合室を兼ねたロビーの奥に、表とは違い少し薄暗い廊下があった。診察室や処置室が並ぶ廊下とは別の、倉庫などがある廊下だ。
その廊下の先に、ドアに張り付いて屈み込み、聞き耳を立てている怪しいおっさんと少女を発見したのだ。
「司令官!!」
そっと近付いてから小声で声を掛けると、司令官はパッとこちらを向いた。
「あ、ヒメル! 見つけたよ副官の密会部屋!」
ここ、ここ、と指で指す司令官。
「いや、あの実は、その話は私の勘違いで──」
しどろもどろに言ってしまったのが悪かったのか、ヒメルが言い終わらぬうちに副司令官が遮ってまくし立てた。
「私が見つけたのですぞ司令官。ロウ少尉がこそこそとこの部屋に入っていくのを。こんなものを掲げた部屋を使うなんて、あの男も考えましたな」
『関係者以外入室禁止』と書かれたプレートを睨みあげ、副司令官がぬかす。
「なるほど、いかにも怪しいね」
それに対し、司令官も悪そうな笑みを浮かべてほざいた。
「いやだから違うんです──」
「ちょっと静かにしてヒメル!! 向こうに気付かれちゃう!!」
「そうだぞ静かにせんか!! 中の様子がわからんではないか!!」
いやあんたらの方がやかましいから。
とスエサキ軍曹は言いたげだが、ヒメルはもうそんなことに構っていられない。
「ですから副官は健康診断で──」
「そう見せかけてるだけだよ。だってホントに検診だったら診察室でするはずだもん」
「確かにおっしゃるとおりですな。一年で一番人が集まっている医務室を密会場所に選ぶとは、なんとも大胆不敵!」
「副司令官、タイミングを見て踏み込みます!」
「了解しました」
だから違うってばああぁぁ──!!
どうしよう。
私にはもうこの二人を止めることはできないのか。
ヒメルがそう思った時だった。
ガチャッ!!
顔を鈴なりにして張り付いていたドアがいきなり開いた。それと同時にヒゲモジャの男が現れ驚きの声を上げたのだ。
「何をしているんですかッ?」
男は白衣姿に首から聴診器を下げ、不思議そうにこちらを見下ろしている。
「し、司令官? それに副司令官まで。お二人でここで何をしているのですか?」
ヒゲモジャのおじさんは困惑した表情で尋ねる。
「おお、医務室長! あなたこそここで何を?」
膝をついた姿勢のままヒゲモジャおじさんを見上げ、問い返す副司令官。
「なにって、診察ですが……?」
そう答えたヒゲモジャおじさんの白衣越しに、ヒメルは中の様子を伺った。
部屋はさほど広くない。壁にスチールロッカーが並んでいて、中央奥に机が置かれ、その手前に丸椅子が2つ置かれている。
軍服の上着を脱いだ格好の副官はその丸椅子の1つに腰掛け、白いシャツの胸元のボタンを留めていた。
「診察?」
「ええ、健康診断の問診です」
「しかし、診察室ではなくここで?」
「すいません。部屋が足りなくて急遽ここでしておりました。副司令官の検診は来週の予定ですよね。サリアス副官から聞いております。今日は司令官とお揃いで、何かの訓練ですか?」
ヒゲモジャおじさんの屈託ない問い掛けに、副司令官は動きを止めた。
…………
「司令官、私はそろそろ戻ります。後はよしなに」
副司令官はふと我に返ったように態度を変えると、まるで何事もなかったとばかりにカツカツと足音を立て歩き去っていく。
「逃げたな……」
スエサキ軍曹がポツリと呟いた。
遅れて立ち上がった司令官の顔に、服装を整え終えた副官の影がかかった。
「司令官。これは一体どういうことですか?」
そう言った副官の表情はいつもどおりの鉄仮面なのだが、なんか背後から邪悪なものが放たれている気がしてヒメルの身がすくむ。
しかし問われた当の司令官は何も感じていないのか、あっけらかんとした表情。それどころかなにやら嬉しそうな顔で副官を見つめ返した。
「ヒメルが密会だなんて言うから焦っちゃったよ。けど良かった。ただの勘違いだったんだね!」
「セイジョウがあなたになんと?」
あ、まずい。
「副官がアキナって女と隠れて会おうとしてるって言うから、あたしてっきり逢引かと思っちゃって──」
そろそろ逃げる準備必要ですね。わかってます。
「セイジョウ。またお前か…」
「うはッ!! はい、あの…、ず、ずびばぜ〜ん……」
そろりそろりと動いて背中を向け、逃げ出すところだったヒメルは、副官の声にびくりと身体を震わせる。
ああ。またやってしまった。
先日の格闘技競技会での活躍で、それまでのやらかしをチャラにできたと思った矢先に。
今日こそ本当に、私はこの鬼副官に殺される(社会的に)のではないか……。
「──丁度良かった」
脈略なく副官は笑みを見せながら口を開いた。
笑みと言っても、口角が気持ち上がっているくらいで、その他はいつもの標準装備(鉄仮面)と変わりない。いやむしろ視線はいつも以上に凍りついているかもしれない。
それにしても、何が「丁度いい」なのだろう。
副官の言葉の意図が分からないヒメルは、その変化に戸惑った。
その困惑を待っていたように、副官は容赦なく言葉を続けた。
「司令官のお部屋の模様替えをしようと思っていたところなんだ」
「へ、模様替え? え、これからですか?」
もう終業の時間なのに?
「ああ。それにあわせて清掃もする予定だ。業務に支障をきたさないように、作業は明日までに完了させるぞ」
「あ、明日ッ⁉ 清掃もッ⁉ えっと……、それって、さ、作業人員は……、私とスエサキ軍曹と……?」
「あ、俺、兵舎の当直勤務あるから無理っす」
ヒメルの背中側から無慈悲な同僚の声が聞こえる。
「そんなあああー!! ってことは、私と副官だけで……?」
ヒメルは恐る恐る副官の顔を見上げた。
その視線に気付いた副官が、ニヤリと笑ったように見えたのは見間違い──
「長い一日になりそうだな」
──じゃなかった。
「ひ、ひぃーーッ!!」
この後、副官に司令官執務室の清掃を命じられたヒメルは、泣きながら隅々まで磨き上げたそうな。
おわり
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