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法務室は、司令部庁舎の1階フロアにある。
ヒメルが勤務する副官室があるのは2階フロアなので、普段あまり足を踏み入れることがないエリアだ。
部屋としてはとても小さい。なにせ所属人員が2名だけだから。
ぜーはー息を荒くしながら法務室に辿り着いたヒメルは、必死に呼吸を整えた。
モータープールからここまでの距離を走って戻ってくるというのは、ちょっとキツめのトレーニングに匹敵する。
しばらく深呼吸を繰り返し、ゴクリとつばを飲んでから扉の前に立った。
だがここに来て、ヒメルはふと手を止めた。
この扉をノックしたとして、それからどうしよう。
何も考えずにこんにちは〜なんて気安く入っていくわけにも行かないし、いきなり本人を訪ねたら変に警戒されそうだ。
相談者のふりをして入ろうか。
しかし下っ端下士官がいきなり法務官にする相談事なんて、パワハラかセクハラか。どちらにしてもおしゃべり程度に気軽に話せる内容じゃない。
しかも仮にパワハラ相談ってことにした場合、加害者は副官ってことになるわけで……。
話に真実味を加えることはできるだろうが、後々恐ろしい事態を招きかねない。ホント洒落にならないくらいに。
などと悶々と考えていたら、予期せず扉が向こうから開いた。
「うお! なんだお前は!」
驚いた声を上げたのは背の高い男性だった。
黒髪に茶色の目をした若い士官。
ヒメルはその顔に見覚えがあった。
「ああッ⁉ ヤナギ!!」
「はあ⁉ なんだ貴様は、階級をつけろ階級を!! 失礼なやつだな!!」
法務室から現れたのは、副官の士官学校時代の同期生で、ハインロット司令官ファンクラブ(非公認)の会長。ヤナギ少尉だった。
対するヤナギもヒメルの顔を覚えていたようで、ハッとした顔をする。
「──お前、ロウのところの下士官じゃないか!!」
ここで会ったが百年目とばかりに、ヤナギはこちらを憎たらしげに睨めつけた。
この男──ヤナギ少尉は、異常なまでに副官エルド・ロウ少尉をライバル視している。
先日の格闘技競技会でも卑怯な手段を使って副官に勝とうと画策したのだが、結局その企みはヒメルの活躍(ここ重要)により阻まれることとなった。
しかし、その後もこの男は副官の寝首をかこうと虎視眈々と狙っているのだ。
「お前が法務室になんの用だ?」
舌打ちをしつつヤナギが尋ねてくる。
「そっちこそ! なんでこんなところから出てくるんですか?」
「お前に関係ない」
「……あッ! もしかして、この間の競技会でのことがコンプラ的に問題になってとか…」
「うぐッ……!」
え、もしかして図星なの?
反論する言葉が出てこないのか、ヤナギは忌々しげにヒメルを睨んだ。
「……くそッ、ロウの差し金だな。あいつがお前に俺の動向を探るように命令したんだろうッ!?」
「は⁉ 違います!! 副官はそんなことしません!!」
「いいや、そうに決まっている。アイツ、こんな下士官にこそこそ探らせるなんて、どこまで卑劣なやつなんだ…!!」
「だから違いますって!!」
ヒメルは声を荒げた。
(なんなのこの男──!?)
競技会の時、この男は口では正々堂々などと言っておきながら、手下を使って小細工し、試合を優位に進めようとした。卑劣なのはこの男の方なのだ。
こんな男に屈する訳にはいかない。
ロウ少尉の右腕である自分が屈すれば、彼の名誉にもかかわるのだから。
(負けるもんか!!)
「違います!! 私が個人的に法務官に用があって来ただけで、副官は関係ありません!! 勝手に決め付けないでくださいッ!! だいたいあなたの動向を調べてどうするって言うんですかッ⁉ 法務室に出入りしてることを知って、それをまわりに吹聴するとでもッ!? 私そんなヒマじゃありませんけどッ!!」
反撃されるとは予想していなかったのか、ヤナギがわずかにたじろぐ。
ヒメルは更に畳み掛けるように言葉を吐き出した。
「そもそも、副官は仕事に対しては鬼畜だけど、卑怯なことは絶対にしない人です!! あなたと違うんです!!」
「なんだと⁉」
「だからこそ、カッコいいって基地の女性たちからも大人気なんだから!!」
「大人気? ロウが? ハッ、どこにそんな話があるんだ。聞いたことないぞ!!」
ヤナギの嘲笑に、ヒメルは自分の身体がカッと熱くなるのを感じた。
「嘘じゃない!! ホントに今、基地で人気急上昇中なんだから!! 現にここの法務官だって、人目を忍んで副官と密会の約束をして──」
「なにッ⁉」
ヤナギの身体が硬直したように止まる。
ヒメルも自分の失言を悟った。
しまった。熱くなりすぎてつい喋っちゃった。
「ア、アキナさんが……、ロウと、密会……⁉」
ん?
なんだかヤナギの様子がおかしい。
小刻みに身体を震わせ、愕然とした表情で虚空を見つめている。
「そうか、だからアキナさんは出ていったのか……」
(この人、アキナ・コーノミヤと個人的に知り合いなのかな……? ッてゆーか、いま出ていったって言った……?)
じゃあ部屋の中にはアキナ・コーノミヤはいないってこと?
問おうとしたが、ヤナギは急に力なく項垂れた。そうかと思うと、何かに耐えるようにわなわなと身体を震わせ、呻くような低い声を上げ始めた。
「おのれええ、ロォォウ……!! 司令官だけでは飽き足らず、アキナさんまでその毒牙にかけようとはああ……!!」
さっきも思ったけど、この人、なんかやたらと感情が表に出ちゃう人だな。
「許せん……!! エルド・ロウ……!!」
ヤナギが次に顔を上げると、彼の目からはとうとうと涙が流れていた。なんなら目と言わず鼻や口からも。
「ひぃッ!!」
思わずヒメルは悲鳴を上げて後ずさった。
ここまで美しくない涙もそうそうない。
「どこだ?」
「へ? ──ぎゃああ!!」
不意に問われたヒメルは気の抜けた声を漏らしたが、続いて激しく肩を掴まれた時には恐ろしいものでも見たような叫び声が口から飛び出してしまった。
「どこなんだロウとアキナさんの密会場所はああああッ!!」
や、やめて、それ以上揺らさないで。
いろんな水が…、顔から溢れたいろんな水が飛んでくる──!!
逃げ出したいが、眼の前の男の力が凄すぎて動くことができない。せめてもの防御措置で顔をできるだけ反らすが、ヒメルが反らせば反らしただけヤナギの顔が近付いてくる。
(ひ~ッ!! もう嫌だ助けてー!!)
ヒメルがぎゅっと目を瞑った時だった。
「あの〜すいません…」
突然、誰かの声が聞こえて目を開ける。
ヤナギの声ではない。
知らない男が法務室の扉の隙間から顔を出し、こちらに向かって声を掛けてきていた。
それは茶色いツンツン頭に困ったような半笑いを浮かべた男性だった。階級は3等軍曹。おそらく法務官付きの下士官だろう。
「お話中のところ申し訳ないのですが、ここで言い争うのはちょっとご勘弁を〜…」
そうだ。ここは法務室の前だった。
はたと気付いて周りを見渡すと、通りすがる兵士たちが何があったのかと怪訝そうな顔をこちらに向けている。
「あ、す、すいません!」
ヒメルは恥ずかしくて顔を伏せた。
だがどうせなら、恥ずかしげもなく大声で喚くこっちの男に言って欲しい。静かにしたいのはやまやまだが、肩を掴まれた今の状況では、ヒメルは動くことすらできないのだ。
「おい、お前ッ!! アキナさんはどこに行った⁉」
控え目な法務官付きの男性を、ヤナギは無遠慮にお前と呼んだ。
「だから、ここで騒がれると困りますヤナギ少尉!」
本当に困った様子でその男性が言うが、ヤナギは一向に構わず声を張り上げる。
「そんな事はどうでもいい!! アキナさんはどこに行ったんだ⁉ さっき慌てて出て行かれただろう⁉」
法務官付きの男性は、諦めたように「えーっとどこだったかな」と呟き一旦法務室の中に消えた。きっと室内にある予定表か何かを確認しているのだろう。
扉はまたすぐに開き、戻ってきた男性はヒメルたちに向かって言った。
「おそらく医務室の方だと思います」
医務室。
共和国軍の基地の中には必ずある施設で、兵士の健康管理や病気、怪我の治療をする医療機関。
軍人なら誰もが一度はお世話になる施設だ。
「医務室だな、分かった……」
そう言うと、ヤナギはヒメルの身体をあっけなく解放した。
顔に涙の跡を残し、静かな怒気を纏うヤナギ。彼は、その場にヒメルと法務官付きの男性を残し、無言で歩き去っていく。
(今から医務室に行くつもり……?)
アキナ・コーノミヤはなんの用で医務室に向かったのだろう。
もしかして、副官との約束の場所は医務室なのだろうか。
「あの〜」
ヤナギの背中を見送りながら考えていると、法務官付きの男性がやはり遠慮ぎみにこちらに声を掛けてきた。
あのヤナギと揉み合っていたせいか、こっちまで何か問題のある人間だと思われていないだろうか。
「なにか、ありました?」
「え? なにかって?」
「法務室にご用があったんですよね?」
「あ…はい。まあ…」
法務官、アキナ・コーノミヤの情報を少しでも得ようとやってきたのは事実。しかし彼女は今いない。せめて顔だけでも拝んでやると思っていたが、それすら叶わない。
「でも、大したことじゃなかったので…。どっちにしろ、ご不在なんですよね?」
「そうなんです、すいません。ついさっきまではいたんですけど……」
「ヤナギ少尉と?」
「え! あ……、すいません。そういったことはお話できません」
男性は申し訳なさそうに答える。
守秘義務というやつだろう。
「いえ、いいんです。あの、ちなみに聞いてもいいですか?」
「…? はい、なんでしょうか」
「法務官、今日の16時から誰かと会う約束をされていませんか?」
「16時から? さあ、そこまでは私も把握していないので。予定には『医務室』とだけ……」
「法務官の今日の予定はそれだけ?」
「はい、本日はあとそれだけです」
(じゃあ、やっぱり副官との密会場所は医務室なのかな……)
「ありがとうございました」
「いえ……」
変なことを聞いてくるな。なんて思われたかもしれない。なんか微妙な顔をしていた。
だが、弁明する必要はないと思ったヒメルは、構わずその場を後にした。