第94話 そして彼女は闇へと落ちる
眠りに入ってしばらく経った後の事だった。
このまま今日もあの地獄の光景を見るのかと思っていたところに、予想外の動きがあった。
祝福が、ざわついた。
それを感じるや否やレオの体は無意識に動き、部屋の中を確認する。
ベッドで眠るパインと、空のベッドが2つ。
それを意識した瞬間に、頭の中の星の煌めきが消えた。
パインを背に抱えると窓を開け、アルティスの街の上空に飛び出す。
建物の屋根を驚異的な速度で跳びながら、反応のある場所へと向かう。
その途中で、レオはあることに気づいた。
(バランの宿?)
鎧の祝福が発動したのはバランの宿のようだった。
しかし、なぜそこで発動したのかが分からない。
まさかバランがリベラ達に危害を加えるとも思えないからだ。
けれど、何が起こるか分からないのをカマリやレーヴァティでレオは学んだ。
だからこそさらに速度を上げてバランの宿屋へと駆けつける。
入り口から中に入り、階段を駆け上がり、一番奥の部屋の扉を開いた。
レオが目覚めてからほんの少しの間だけで起きた、他の誰にもできない移動だった。
扉の先は荒れていた。
窓が窓枠ごと壊され、そこから夜風が入り込んでいる。
部屋の中には目を丸くするバランに、アリエスとリベラの姿がある。
全員、怪我などは無さそうだった。
「……どう……なって」
部屋の状況を鑑みて、レオは真っ先にバランを疑った。
彼はベッドに居るのでリベラ達に手出しができるわけではないものの、この状況で危害を加えられるのは彼しかいない。
だから明確な圧力を持って彼を牽制しようとしたとき。
「違うんです、レオ様!」
大きなアリエスの声に、レオの頭の中の星が瞬く。
見てみれば、白銀の少女は首を振って自分の服の袖を掴んでいた。
「バランさんはどちらかというと被害者です」
「……鎧の祝福は反応したけど」
「それは彼ではなく……」
言葉が尻すぼみになるアリエス。
なぜ言い淀むのか。そう思ったとき。
「彼女達に危害を加えようとしたのはエリシアだ」
バランが、続けるように告げた。
そちらを見れば、険しい表情でバランはレオを見ていた。
――エリシア、が?
その言葉がレオには信じられなかった。
エリシアは不愛想で瞳には何も映さないが、悪人ではないとレオは信じている。
むしろ武人である彼女は、アリエスのような戦う力を持たない人物を狙ったりするのを嫌うはずだ。
「レオ、俺はあれがエリシアではないと思う」
内心で戸惑っているレオの事を見透かすように、バランは告げた。
それに呼応するようにアリエスもはっきりと頷く。
「わたしもそう思います。この部屋に入ってきたときにはエリシアさんでしたが、途中から別人になったような……そんな感じでした」
「……変身魔法……か?」
あまり良い思い出がない魔法のことを思い出し、思わず尋ねる。
その問いに対して、アリエスは目を瞑って首を横に振った。
「いえ、姿かたちはエリシアさんのままでした。けれど心がもうエリシアさんではなかったと思います」
「私に刀振り下ろしたときに目が合ったけど、エリシアさんはあんな目じゃなかったよ。
瞳が血みたいに真っ赤だった」
話を聞くと、どうやらエリシアに襲われたのはリベラのようだった。
鎧の祝福が反応したが、距離が近かったためにアリエスかリベラのどちらが反応したのかまでは分からなかった。
なんとなくでアリエスだと思っていたが、違ったようだ。
「俺もエリシアがそこのお嬢さんに斬りかかる前に顔を見ていたんだが、急に別人みたいな表情になった。
それにそれまでは体が震えていたが、それも急に収まっていた。
あれは切り替えたというよりもむしろ、何かに体を乗っ取られたんじゃないだろうか」
バランもアリエス達の意見に賛成らしく、後押しをしてくる。
「なあ、レオ」
まっすぐな視線を向け、バランは恐怖のない瞳で語り掛ける。
「頼む、エリシアを追ってくれないか。あの子が何を抱えているのか俺は知らない。
けれど、それを何とかできるのはレオだけだと思う。頼むよ」
それは以前もバランから頼まれたこと。それが再び請われたことで、レオの中で定義が変わる。
エリシアを、何かを抱えた彼女を「救って」ほしいと。
なら、答えは一つしかない。
「ああ、分かった」
かつて勇者だった時と同じように、レオははっきりとその声に答えた。
×××
周りの何もかもが目に入っていないかのように、ふらふらとした足取りで走る。
今にも倒れそうなそれは、やがてアルティスの街の中央広場にたどり着いた。
昼は人で溢れかえっている中央広場も、真夜中の今は人影が全くない。
まるで何かに誘われるように、中央にそびえる塔へと足を進める。
頂上に鐘を備えた、アルティスの象徴ともいえる塔。
塔の中に入るための扉は厳重に施錠されていて登ることはできない。
それは今の時間だからではなく、昼間であっても同じことだ。
けれどそれは今にも倒れ込みそうな歩みで近づき、紅ではなく淡い紫色の瞳で塔を見上げた。
それは、「まだ」エリシアだった。
レオの気配を感じ、エリシアの中に居る異形――アトはバランの部屋を逃げるように飛び出した。
その際にエリシアは体の制御権を一部だが取り戻し、まるで亡霊のように歩いていた。
けれど取り戻したところで、彼女に先はない。
手足の感覚は少しずつ失われ始めているし、自分の中に居る異形に少しでも油断すれば全てを奪われるのは目に見えている。
そういった意味では、彼女に残された時間はあまりにも少なかった。
「……だ……め……」
逃げたかった。
少しでも彼から遠くへ。誰もいない所へ。
仮に自分の死が恐ろしい災厄を引き起こすとしても、それでも彼らの近くで起こしたくはなかった。
でもたどり着けたのは、ここが限界。
崩れ落ちるように地面にエリシアは倒れ込む。
より楽な仰向けへと態勢を変えれば冷たい夜風が、白い髪を撫でていく。
輝く星空を映す視界の隅に、風にわずかに揺れる鐘が映る。
塗りつぶすように世界が、暗い暗い闇へと落ちていく。
「……ごめん……なさい……」
最後にエリシアはそう言って、目を閉じた。
閉じた瞼から涙がこぼれ、地面へと落ちた。
――エリー、負けちゃった
その思いを最後に、彼女の意識は深い深い闇へと落ちていき、そして。
異形に全てを奪われた。




