第40話 あの日、出来なかったことを
「リベラちゃんっ……君がなにを抱えているのかはっ……俺は知らないっ」
その光景を、リベラは生涯忘れることはない。いや、忘れてはならない。
シェラの父とリベラの二人しかいない宿屋の一室。
無理を言ってシェラを部屋から出し、今にも息を引き取りそうなほど弱々しい呼吸で彼女の父であるガゼルはまっすぐにリベラを見る。
ベッドに横たわる彼の体はところどころが黒いあざのように変色していて、もう先が長くないのは間違いなかった。
にもかかわらず彼の目はまっすぐで、これからすぐに亡くなってしまうようには到底思えない。
けれど、事実彼に残された時間は少ない。そんなときに告げられた言葉にリベラはハッとする。
自分なら、おじさんを助けられる。
それをしたら、自分がどうなってしまうのかということすら忘れて、リベラはガゼルの呪いを移そうとした。
手を伸ばし、彼に触れようとしたとき。
「でもなっ……それで君が死ぬならダメだっ」
手をしっかりと握られ、リベラは祝福の使用を止められた。
ガゼルは苦しそうにしながらも、しっかりとリベラを見つめている。
「いいかっ……君が死んだらシェラが悲しむっ……俺はな……シェラに笑っていて欲しいんだ……っ……シェラだけじゃなく、君にもだ」
「おじ……さんっ……」
「だからっ……だから何もするな」
そう言ってガゼルはリベラを安心させるために笑みを浮かべる。
「なに……俺も、もう年だ。早いか遅いかの違いだよ」
「ちがうっ……ちがうよおじさんっ……そんなのっ……」
「いけ。そして、もう来るな。俺が死ぬまで、来ちゃいけない」
「そんなっ……そんなのっ……いやっ……」
「リベラちゃんっ!」
強く手を握られ、リベラはハッとしてガゼルに目を向ける。
彼の目はどこまでも真剣で、そしてシェラとリベラを思いやっていた。
「たのむよ……おじさんの最期の願い……きいてくれよ……」
「……っ」
「もう行け……行くんだっ」
「……ごめん……っ……なさい……ごめんなさいっ」
「謝るな……シェラを……頼むよ」
「……っ」
その言葉を最後に、リベラは弾かれるように宿屋を出て行った。
それからガゼルには一度も会っていない。
だって次に彼の姿を見たときに、彼は既に棺桶の中だったから。
だから、それが最後のガゼルとの記憶だった。
救えたはずの人を救えなかった、リベラの心に根強く残った一番濃い記憶だ。
×××
「シェラ……シェラ!」
リベラはすぐに腕で体を起こし、膝立ちの状態で近くに倒れたシェラに近づく。
その上半身を腕の中で起こして、彼女の体の異変に気付いた。
黒いあざが、全身に広がっていた。
あの時と同じ、リベラが見捨てたのと同じ呪いが、同じ大切な人を蝕んでいた。
「なに……これ……」
目の前には信じられない光景が広がっている。
もう失いたくないと思った人が、倒れている。
彼女だけは健康でいて欲しかった。
彼女だけは元気でいて欲しかった。
彼女だけは、呪われて欲しくなかった。
なのに、彼女の体は、彼女は。
黒い。……黒い。黒くて、あの時と同じ、黒い、黒い、黒い。
「あ……あはっ……あははははっ」
もうリベラは笑うしかなかった。
自分が護りたかったものは全て呪いに犯された。
遠くでこちらを睨む黒い獣の口元が、嫌らしく吊り上がった気がした。
嗤っている。誰も助けられない自分を見て、災厄が嘲笑っている。
「……よ」
自分がシェラの呪いを移しても移さなくても、結末は同じだ。
移せばシェラは呪いからは助かるが、黒い獣に殺される。
このまま呪いを移さなくても、どうせ黒い獣に殺される。
「……のよ」
それが分かっているから、あの黒い獣は遠くでニヤニヤと笑っている。
大切な者が消えゆく瞬間で人が絶望するのを見て、心底楽しそうに。
どうせ結末は変わらない。リベラは、もう終わりだ。
「だから、何だっていうのよ!」
リベラ・エンティアはここで終わりだ。だからと言って、また何もしないのか。
それは違う。例えこの先がなくても、もう意味がなくても、やらない理由にはならない。
リベラの心をマグマのように熱い感情が満たす。
全てを奪った災厄に対する怒りで、頭が沸騰しそうになる。
目を剥き、体内にある筆舌に尽くしがたい真っ赤な感情をたった一匹の獣に集約する。
「……そこで見てろ」
地を這うほど低い声と向けられた怒気に、黒い獣が笑みを止める。
目をまっすぐにリベラに向け、それでも襲い掛かる様子はなかった。
リベラは視線を真下に向け、怒りの表情を消し、穏やかな笑みをシェラに向ける。
――あの日、出来なかったことを
腕の中に居る大切な存在を強く抱きしめる。
全ては自分が招いたことだ。
おじさんを治していれば、シェラがここに来ることはなかった。
自分の過去の行いが、大切な人を死に至らせようとしている。
――なら、救うしかない
護るために。これ以上奪われないために。大切なものを、呪いから取り戻すために。
――今度こそ、大切な人を救う力を
そしてリベラは再びその輝きを呼び起こす。
まるで燃え移った炎のように彼女の全身を包む祝福の光が強くなり、シェラをも包む。
祝福が発動し、シェラの体を蝕む全ての呪いに告げる。
――私はここに居る。お前たちの居場所はそこじゃない
私の、中だ。
刹那、黒は湧き上がる。
シェラの体の中に棲みついた呪いは腕を伝ってリベラの中へと一気に駆け上がってくる。
そしてそれはリベラの体の中を新しい住処とし、すでに彼女の中にあった呪いと融合する。
リベラでは抑えきれないほどの呪いが、こぼれそうなほど、逆流しそうなほどの呪いが体内で弾けそうになる。
「……くっ」
力を振り絞り、リベラはシェラから腕を離す。
彼女の体から呪いを示す黒いあざが完全に消え、苦しそうな表情が和らいだのを確認した瞬間。
――ドクンッ
「くっ……あっ……」
体内が悲鳴を上げる。限界が、やってきた。
体中が痛い。心臓が壊れてしまいそうなくらい鼓動を繰り返している。
視界が赤黒く点滅し、意識がおぼつかない。
目線を上げれば、赤い眼と目が合った。
自分を、シェラを喰おうとする黒い獣は、もう十分待っただろうと言わんばかりに笑みを浮かべている。
普段なら死を前に恐怖する場面。
けれどリベラの胸の中には言いようもない大きな喜びがあった。
――お前の呪いに、勝ったぞ
「ざまぁ……みろ……」
こみ上げてくる歓喜に耐え切れずに、リベラは笑う。
(私は確かにお前の呪いで死ぬだろう。けれど、私はお前の呪いを移した。
大切な人を、今度は護ったぞ)
それが伝わったのか、黒い獣は苛立ったかのように呻き、リベラに襲い掛かる。
地面が抉れるほどの脚力で飛び上がり、まっすぐに。
影が、リベラにかかる。大きく開いた口。血で染まった牙。
視界が真っ暗になる。嗅覚が、頭がおかしくなるほどの血の匂いを訴える。
そして血で濡れた牙は、リベラの首を捉え。
「Gyaaaaooooo!」
悲鳴を上げた。
視界が、一気に開けた。太陽の光が、シェラを照らす。
少し離れた場所には、地面を転がる黒い獣。そして自分の体を包むのは、金の光。
「遅くなった」
声が、耳に届く。
日の光に照らされる金の髪も、体を光らせるあまたの祝福も、そして向けられている呪われた右目すら、リベラは美しいと思った。




