動き出す悪意⑦
満里奈達から逃げきれた栞奈は、廊下を何度か曲がったところで足を止めた。
「はあ、はあ………ここまでくれば」
栞奈は、膝に手をついて息を整えた。普段ならこの程度で息が上がるはずもないのだが、がむしゃらに走ったせいで、正しく息継ぎができていなかったようだ。
「どこまで、来たんだろう……」
呼吸と心拍がなんとか落ち着かせた栞菜は顔を上げ、現在地を確認しようしたが、すぐに諦めた。
視界を覆うのは、一面真っ黒の暗闇だった。
「全然見えない………」
栞奈は唾を飲んだ。まだ停電から回復はしておらず、辛うじて遠くに非常灯らしき緑光が見えるだけだった。進む分には目印として使えるだろうが、現在地のヒントとしては何の役にも立たない。
今が昼下がりなのを忘れそうになる暗さだ。黒く分厚いシャッターが陽光を全く入れてくれないおかげで、病院内は肝試しが出来そうな、不気味な空間に仕上がっていた。
こんな暗闇を非常灯の光のみに頼って走ったなんて栞奈は信じられなかった。生れて初めて火事場の馬鹿力というのを経験した栞奈だったが、余韻に浸る余裕なんて無い。
「これからどうしよう…………」
終わりの無い闇を眺めて栞奈は瞳を揺らした。
怖い気持ちもあるが、初めて経験する非常事態にどう行動するのが正しいか判断出来ないでいた。
(留まるのは論外だろうけど、暗い中を下手に動くのもあまり良くない気がするし………『王国軍』が助けにくるまで隠れるにしても、近くに隠れられそうな部屋があるのかも分からないし……)
色々と考えを巡らせても、どれが正解かは分からなかった。
この状況で優柔不断なのはよろしくないのだが、そうなってしまうのも無理はない。復讐を誓っても『亜人士』であること以外はごく普通の女の子なのだ。平和なこの国で普通に生きているだけでは今みたいな状況に陥ることはまず無い。剣術の鍛錬しかやってこなかった栞奈に適切な行動なんて難しいに決まっている。
方針が定まらず途方に暮れかけた時、栞菜の頭をよぎったのは、入院している唯一の肉親の顔だった。
「そうだ。おじいちゃん…」
それが栞菜を突き動かす原動力となった。
祖父の病室は最上階だからまだ『維新軍』の手は届いていないと十分に考えられる。今行けば会えるかもしれない。
「………よしっ」
栞菜は意を決すると、一寸先も見えない道を進むことを決めた。
この判断が正しいという自信はない。『維新軍』にあっさりと捕まり、辿り着かずに終わることだってあり得る。それでも、祖父の安否を確認せず、一人身を潜めるなんて栞菜にはできそうになかった。
ただでさえ身体を悪くして、ろくに歩けないのだ。そんな祖父を『維新軍』が無理やり連行されているのを想像するだけで気が狂いそうだった。家族だけで無く、祖父まで失うなんて考えたくもない悪夢だ。
(とにかく、上を目指そう。エレベーター……は動かないだろうから階段を探さないと)
栞菜は窓がある方と逆の壁に手を添え、非常口の緑光目掛けて歩き出した。途切れた先に階段があるのを願った。
「………………」
非常灯のみを頼りに歩くのは、栞菜にとってかなりの勇気が必要だった。暗いのがあまり得意ではないというのもあるが、刀をロビーに置いてきてしまったのが大きかった。拾う暇が無かったとはいえ、いつ敵に遭遇するか分からない場所で『武装士』が武器を持たないというのは不安で仕方なかった。
一応素手での戦い方も教わっているが、護身術程度の腕前しか無い。桁の低い相手でも、集団で来られたらひとたまりもない。今だけは敵に遭遇しないようにと祈るしか無かった。
「はあ…………はあ…………」
息が乱れる。歩いているだけなのに、心拍は全く落ち着いてはくれなかった。
たったの数歩が果てしなく遠い。
たったの数秒が果てしなく長い。
いつ敵が現れるか分からない道を歩くのがこんなにきついとは思わなかった。国内最大なだけあり、廊下も異様に長いのも恐怖を助長させていた。
早いところ階段を見つけたところだったが、現実は甘くなかった。
壁に触れていた手は途切れるどころか、内側で曲がると、目の前に移って終わってしまった。
「そんな。行き止まり……」
栞菜は呆然と目印にしていた緑光を見上げた。ここまで一本道だったはずだがこの暗さでは見逃していてもおかしくない。一応逆側の壁にも注意を向けていたが、緊張していたこともあり完璧だったとは言い難い。
もしくは、走って逃げていた時に通り過ぎていたかだが、それを確かめるには来た道を引き返さないといけない。『維新軍』から逃げている最中に、それをやるには今以上勇気が必要だ。
となると、残る道は背中にある扉の先というになるが、
(開くわけないよね……)
栞奈はドアノブを回し扉を引くとガンッ‼と引っかかる音が鳴り、落胆してしまう。
閉じ込められている状況下でここだけ例外ということはない。それが分かっていても僅かばかりの希望に縋ってしまう。
「………………………っ」
栞奈は後ろを振り向いて、ゴクリと唾を飲んだ。どんなに仕方が無くとも、今の栞奈に暗い道を引き返す度胸は無かった。覚悟を決めるのも時間が必要だった。
だが、状況は栞奈を待ってくれなかった。
カツンッ。カツンッ。
「っ‼」
その音を聞き、栞奈は心臓が握りつぶされたような錯覚に陥った。
背後から徐々に大きくなって聞こえる床を蹴る音、明らかにこちらに向かっている『足音』だった。
その存在を確定するかのように、数メートルくらい先の横から懐中電灯らしき円い光が伸びて来た。栞奈が触れていた壁の反対側からだった。
「そんな………こんな時に」
栞奈は背中を壁につけると、顔を青くさせた。行き止まりにいる栞奈では見つかるのも時間の問題だ。戦おうにも、武器もない。正に絶体絶命だった。
(ど、どうしたら……………)
ガチャッ
「……………ぇ?」
額に手を当て途方に暮れている時だった。
背後から鍵の開く音がした。
「!」
考えている暇は無かった。ピンチの時に都合良く解錠されるなんて罠の匂いしかしなかったが、ここにいてもどの道捕まるだけだ。賭けに出るしかなかった。
ドアノブを回し、極力を音を出さないように開くと突っ込むように扉を潜った。
「ぐふうっ‼」
直後、扉の向こうにいた人の鳩尾にタックルをかまし、押し倒してしまった。