地獄を這い進む
副題:ロズヴェータちゃん、ゲロまみれ。
「どうじゃ、あの小僧。確実に苦しんで死ぬぞ」
楽しくて仕方ないという風に話しかけてきた毒使いに、暗黒騎士“黒剣”のツヴァイは冷たい目を向けた。彼にしてみれば全くの無駄どころか、不必要な手助けだった。それを恩に着せて話しかけてくるなど、もはや口を開く必要性さえ感じない。
手にした毒の剣はそのまま手元抜身のままである。
「そうだな──」
そう言葉を言いかけた瞬間、“黒剣”ツヴァイの手元から毒剣が翻って毒使いの首元をかすめる。
「──はァ!?」
味方と思っていた相手のいきなりの凶行に、毒使いは理解が追いつかない。彼の体もまた同様だった。首筋に薄く切り傷が走るのと、痛みを感じた毒使いが“黒剣”ツヴァイの使う毒の種類まで理解が及んだのが同時だった。
「お、おま、お前! それを味方に、このわしに向けるのか!?」
動揺に口調の怪しくなる毒使い。ツヴァイを指さした手が震えているのは恐怖からなのか、それとも毒の作用なのか。
爬虫類のような感情を伺わせない瞳でツヴァイは、毒使いを観察する。言葉を交わすことすらせず、毒の効果を確かめるように、しっかりと向き合う。
長身のツヴァイと正対して毒使いは怯んだ。目の前の脅威のあまりの人間味の無さに、まるで言葉は通じるが人間以外の何物かを相手にしているような錯覚を覚えたのだ。
だが、そうこうしているうちに呼吸困難になってくる。
苦しさに胸を抑え、咄嗟に助けを求めようと伸ばした手を、黒剣ツヴァイは容赦なく斬り飛ばした。
「た、助け──」
言い終わるまでもなく、毒使いはその場に崩れ落ちる。しばらく痙攣するその死体を見守っていたツヴァイが欠片程もなかった興味も失せて周囲を見渡せば、不死者達が好き勝手に徘徊している。
使い切りの不死者の笛は、先ほど大物を操るために使用限界を超えてしまった。ツヴァイにとって思うままに動かせない駒など不必要な障害でしかなかった。
最後にケチがついてしまったが、概ね依頼は達成したと判断できる。確かに毒使いの使う魔法は常人では決して解除できない類のものだし、それを受けた者の末路は無残に死ぬと決まっている。
依頼を受けたベルメッシモ一家のメンツは守られたと言っていいだろう。
これ以上の追撃の必要性を感じない彼は、不死者の群れを冷徹に眺めると、一人撤退を決意する。
南部の一大勢力ベルメッシモ一家から依頼を受けるという形で貸しを作ることに成功した。今後は、かの勢力を足掛かりにして南部での勢力を拡大していくことになるだろう。そしてもう一つ大きな収穫は、そのベルメッシモ一家が王都の商会への伝手を豊富に有していることだ。
主に輸送に関連して南部一帯に大きな勢力を持つベルメッシモ一家は、王都周辺や隣国との商売を通じて王国各所に伝手がある。今回の依頼での関係は、獅子紋と王冠の王国全域に勢力を張り巡らせる意味でも、大きな前進だった。
隣国の姫だという少女を確保するというものは、生死を問わず確保すればいい。
最悪、ここで死んだということにしてしまっても問題はないのだ。不死者に齧られて跡形もないという風に報告すれば、追及はできないだろう。
逃げた隊商も、あとは不死者どもが始末をしてくれる。
赤曼荼羅花の蛇剣の10人に満たなくなった人員とともに、撤退を始めるのだった。
◇◆◇
他の不死者を喰い千切った空駆ける屍鬼は、傷が瞬く間に回復していく。正確には、口に入れた不死者がそのまま、切り裂かれたはずの足に補填されていく。
鉄を赤くなるほどに熱してその上から水を盛大にかけるような音と、蛆が寄生した宿主を食い破って外に出てくるような外見、さらに耐え難い腐臭を放ちながら不死者が補填され空駆ける屍鬼の一部となっていく。
「厄介だな……ルル急げ!」
傭兵団長“鷲”ハリールの言葉に、副長“兎”のルルは即座に反応した。投降をするといった現地の騎士隊を確保するために、間合いを詰める。
「さあ、貴方達、早くこちらへ!」
おとなしく従うかと思われた三頭獣の一部が、突如として身を翻す。
「あ、おい!」
「なんの──」
驚きの声を挙げたのは、ルルもバリュードも一緒だった。
護衛をしていたはずの隊商の中の一部、正確には少女と護衛の数人が身を翻して森の中へ再び走っていく後ろ姿をその視界に捉えたのだ。
「どういうつもり!?」
詰め寄る副長ルルに、三頭獣側のバリュードも困惑する。
「さぁ? 混乱しているんじゃないか?」
どこか緊張感の感じられないバリュードの反応に、副長ルルも困惑する。ハリール傭兵団からすれば、三頭獣が、帝国の首狩り総督イブラヒムの獲物を守る最後の関門だと認識していたのだから、それがこんなに呆気なく明け渡すなど、信じられない思いだった。
人は誰しも自分の見たいものを見る。
だからこそ、副長ルルは無意識的にでも自分たちならこうする、という前提のもと三頭獣の行動を予測していた。
「とにかく、こっちへ。全員の人相と持ち物を検めさせてもらうわ」
「了解っと」
どこか軽い調子のバリュードに、不審なものを感じながら、彼女は三頭獣の兵士達とともに移動し、比較的安全な場所でフードと頬当てを外して確認していく。
だが当然のことながら、彼らの中に求める人物はいない。隊商の商人達も確認しても当然ながら彼らは青い顔をして口を固く結ぶだけだ。
アウローラ・ヘル・ノイゼ。
都市国家シャロンの僭主ネクティアーノ・ヘル・ノイゼを継ぐ者。その名を誰も口にしないのだ。
「……いない」
「あんたら一体だれを探してるんだ?」
ここまで来て情報が間違っていたのかもしれないという事態に副長ルルは青くなる。
「どこに逃がしたの!? ネクティアーノの娘アウローラは!? 隠し立てするなら容赦はしないわ!」
「……誰のこと?」
この時点でバリュードは本気で首を傾げていた。
隊商の娘で美しく年齢の近しい娘はいたものの、都市国家とはいえ、一つの国のお姫様などは存在しなかった。だからこそ、本気で疑問符を浮かべていたのだが、副長ルルにはそれが致命的な失敗に思えた。
副長ルルの特技として、他人の嘘を見抜けるというものがある。だからこそ、彼女はバリュードの話術に嵌ったと言っていい。
「まさか、そんな……間違っていたの?」
呆然と呟く彼女は、直前で逃げた隊商の人員がいたことを思い出す。
「一縷の望み……いえ、でもここまで踏み込んで来たからには」
逃げた先を見つめ、意を決して傭兵団と確保した人員に告げる。
「逃げた人員を探します。貴方達の中から逃げた者達に詳しい者を選びなさい」
大多数を残して少数での探索を命じる副長ルルに、バリュードが声を上げる。
「この森を探すのは骨が折れるから、一緒に探したらどうだろう? 俺達の隊長もできれば確保したいんだ」
その提案に、副長ルルは目を見開いた。
「貴方、この騎士隊の隊長ではないの!?」
「ん? 言ってなかったか?」
バリュードのどこかずれた言動に、副長ルルは唖然とする。
「つまり、貴方は隊長でもないのに勝手に降伏を願い出たの?」
「そうだけど、何が問題なんだ? 勝てないと思えば命を繋ぐために降伏するだろ? 魔物と違って話が通じるんだしな」
「……常識が違うのね」
「俺、おかしいこと言ってる?」
首を傾げて近くのヴィヴィに尋ねるバリュード。それに対してヴィヴィはため息を吐いた。
「安心しなよ。白エルフのお嬢さん。こいつがおかしいだけで、あたしらにだって常識はある」
「そ、そうなの?」
一瞬白けた雰囲気を、傭兵団の悲鳴が切り裂く。
「副長、またアンデットどもが!」
指さす先に視線を向ければ、捜索の範囲を広げようとしていた方向から溢れ出てくる不死者の群れ。
「……こりゃ、いよいよ危険かもな」
小さくつぶやいたバリュードの言葉に気づくことなく、副長ルルは指示を下す。
「……一塊になってあの群れを蹴散らし、捜索に向かう。続け!」
思わずその数の多さに、息をのむ傭兵団に対して、嬉々としてバリュードは長剣を抜いた。
「ハッハー、やっぱりこうこなくっちゃな!」
「おい、バリュード! お前まさか、こっちの方が人を斬れるから──」
ヴィヴィの追及の声を躱すように、唸りを上げるバリュードの長剣が、魔物のアンデットの頭を吹き飛ばす。
「ヴィヴィ! ぼさっとしてると置いていくぞ! 隊長を探さないと!」
「──っち! 分かった!」
不承不承ながら、棍棒で近寄ってきた敵の頭を叩き潰すヴィヴィ。彼らに続いてハリール傭兵団と三頭獣の兵士達は、一塊になってアンデットの殲滅に乗り出した。
◇◆◇
毒使いの魔法を受けたロズヴェータは、一歩進むたびに苦痛に顔を歪め、脂汗を滴らせてなおも足を止めようとはしなかった。既に矢は尽き、手にした細身の剣を杖のようにして、先導するユーグと後ろを守るガッチェと共に森の中をさ迷い歩く。
空駆ける屍鬼の暴威から少しでも遠く離れなければならない。その一心で足を動かしていたが、時間の経過とともにロズヴェータの体から発熱と共に力が抜けていく。
吐き出す息は荒くなり、普段なら重さを感じないような鎧、靴、腰に下げた剣の鞘までも、途方もない重さを感じていた。背後から受けた毒の魔法を咄嗟に受けた腕は、赤黒くはれ上がり、痛みと痒みを伴ってロズヴェータの腕と精神を苛む。汗が一筋流れるたび、彼の腕に言いようのない痛みと痒みが走り抜ける。
流れ出る汗が靴の中にたまり、不快感は増していく。流れ出る汗に比例するように、喉が渇く。胸の奥の熱さは、乾いた喉を火で炙ったようなものだった。全力疾走した時のような胸の熱さが、飲み込む唾では足りないと悲鳴を上げる。
足元が決して良いとは言えない獣道すらない森の中は、生い茂る下草とそれに隠された地面の傾斜、倒木や窪地が容赦なくロズヴェータの体力を奪っていった。
──それでも、立ち止まれない。
ロズヴェータはその思いだけで足を動かす。
もう座り込みたいと悲鳴を上げる足を叱咤し、まだ歩けると自分を奮い立たせる。あと少し、あと少し。一歩進む度、体を蝕む毒が血液に乗って全身を駆け巡り、ロズヴェータの細胞一つ一つを殺していく。吐き出す息の熱さは、命が燃え尽きる前の炎が肺に宿っているのかと錯覚するほどだった。
いずれ尽きるその時に向かって、ただ己を叱咤激励する。
負けそうな自分を叱り、負けそうな自分を褒め、負けそうな自分に問いかける。
なぜか、なぜ自分は頑張っているのか。
──決まっている。
頭の中に靄がかかり、段々と正常な判断や考えがまとまらなくなっていく。体の消耗は迅速な状況判断の力と次を考える力を徐々に奪っていく。ただ目の前のこと、それだけで頭がいっぱいになり、その苦痛から逃れる方法だけを探し始める。
まるで頭の中を知らない誰かの黒い手でかき回されているいるかのような不快感。次第にそれが吐き気と熱となって体の内側からロズヴェータを犯していく。
おそらく時間にすればそれほどでもない逃走のための短い時間の中で、ありとあらゆる苦痛がロズヴェータの体を襲う。
それでも、ロズヴェータは歯を食いしばって足を止めない。
「──ヴェータ様!」
耳に聞こえる音が遠くなる。耳に入ってくる音は意味をなさず、雑音として処理されて頭に入ってこない。何を言われているのかわからぬまま、音のする方向に気力だけで視線を向ける。
恐らく自分とそっくりな顔色をしたアンデットが、ユーグと戦っていた。
その事実を認識するまでにたっぷりと時間を要する。常なら即座に判断して戦いに加わることができることを、脳が拒否する。戦いのために思考を割くこと、足を動かし剣を振り上げ、必要な部位に対して剣を振り下ろすこと。
その行動自体が途方もない膨大な労力を要する作業のように思えて、ロズヴェータは一度視線を下げる。下げた視線の先で、視界に入るのは一輪の花。
獅子の紋と王冠王国において全域に自生する草花である白い花。冬から春にかけて咲くことから春を告げる花という名前の小さな花だった。
かつて、愛する人に捧げた花を見下ろして、直後その花を踏み潰して、剣を振りかぶり目の前に迫るアンデットに向かって振り下ろす。
「──あぁ!」
か細い声が口から出るだけのそれは、叫びというにはあまりにも小さなものだった。
しかし、ロズヴェータにしてみれば精一杯の叫びだ。
──負けたくない。
かつて逃げ出した自分自身に。恥じ入るばかりの醜態を、ロズヴェータ自身が覚えている。いや、忘れることが出来ない。
──お前との婚約を破棄する。
その言葉に打ちのめされ、逃げ出してしまった過去を、もうどうしても取り戻せないその過去を、ロズヴェータ自身が忘れることが出来ない。隣に立つ王族の権威に震え、愛する人に嫌われることに怯え、覚えていることすらできずに逃げした過去のロズヴェータが、今もずっと彼の心の中で泣いている。
その叫びが、ロズヴェータに地獄を与えたとしても、その中で這いずる事になったとしても、だがそれでもロズヴェータは、ここで死ぬわけにはいかない。
正常な判断ができなくなりつつある頭で、胸の奥で泣いているあの時の自分に問いかける。
泣き止むにはどうしたらいいのか、その苦痛を和らげ、またもう一度前を向いて歩きだすためにはどうしたら良いのだと。
視界に映る動きの鈍い人間型のアンデットの振り上げた腕が、ロズヴェータの腕を直撃する。鈍い痛みとともに体の芯が崩れ、咄嗟に出した足が地面の凹凸に嵌って態勢を崩す。
バランスを崩した彼には細身の長剣すらも、鉛か青銅の大剣のように重かった。剣を握る力すらも失われつつある彼の手から、汗と共に長剣が滑り落ちる。敵から目を離してはいけない。教え込まれた動きが、眼前に迫るアンデットを視界に捉える。
「──あ、あぁ!」
その腰に体当たりする要領で掴みかかり、全身の力を使って押し倒す。バランスを崩して倒れ伏すアンデットに馬乗りになって、その頭に向かって無茶苦茶に拳を振り下ろす。だが敵は痛みを感じぬアンデット。頭を完全に潰すまで動きを止めることなく、叩きつけられる両腕は、ロズヴェータの肋骨に罅を入れ、頬に打ち付けられた打撃で唇を切り鉄の味と共に血が流れ出る。
「──様!」
唐突に後ろに引っ張られる感覚と同時に視界の中に短槍が映り込み、アンデットの頭を潰す。
直後視界に映るのは森林にさえぎられた空。
自分の吐き出す荒い息の音だけがロズヴェータの耳に聞こえる。視界に入る二人の顔が驚愕と悲壮感に歪むのを見ても、それを情報として処理できない。
長い時間をかけ、大丈夫だと言おうとして喉がひりつくような痛みを覚え、断念する。せめて行動で示そうと、立ち上がろうとして体が言うことを聞かないのに気付く。
力を入れようとした全身が噴き出す汗に濡れた不快感、痒みと痛みを伴うそれが腕から全身に広がっていた。体を起こそうとする動作それ自体が途方もない苦痛と労力を要する。
──お前との婚約を破棄する。
まるで呪いの言葉のように、今でも思い出すあの声、愛した人の口の動きやしぐさ、視線までもがロズヴェータの脳内で鳴り響く。現実と過去の幻影が入り混じる視界の中、背中を何とか起こし、手をついて体を起こし、足に力を入れて立ち上がる。
「ヒルデ……」
情けなくも声に出して呼ぶ人の名前が、地獄を這いずるロズヴェータに僅かな気力を与えるものだ。それを糧にして、なんとか立ち上がる。
だが立ち上がる限り、ロズヴェータの地獄は終わらない。
ぐるぐると掻き回された胃がついに限界を向けて、ロズヴェータは嘔吐する。水とわずかな消化されかかった食べ物を口から戻し、せっかく立ち上がった彼の努力をあざ笑うかのように、膝をつかせる。
「あ──」
同時彼の意識は反転し、自らの吐しゃ物の中に倒れ込んだ。




