死地からの脱出
隊商を逃がすための囮を買って出たはずのロズヴェータであったが、結果は悲惨なものであった。空中から地上に時折飛来する怪異に翻弄され、無限に湧き出るのではないかと錯覚するほどのアンデットの群れに徐々に体力を奪われていく。それでいて暗黒騎士の襲撃は決してやまないのだから、おのずと彼の指揮能力の限界を迎えるのは当然であった。
「傷ついた者を内側に、円陣を組め!」
破綻の見える結果をなんとか引き延ばしているのは、ロズヴェータの危険を顧みぬ前線指揮と補佐する副官ユーグの適切なフォロー、そしてガッチェ率いる辺境伯家出身の兵士の献身のなせる業だった。三者の連携が奇跡的なバランスの上で成り立っているからこそ、崩壊せずに済んでいるものの、いずれにしろ破綻は見えている。
ロズヴェータが負傷するか、ユーグのフォローが限界を迎えるか、辺境伯家出身の兵士が力尽きるか。そのいずれかが起きてしまえば彼らは全滅する。
そしてそれを冷静に見極められるだけの経験と冷徹さを持ち合わせているのが、彼らの相手にしている暗黒騎士と呼ばれる存在だった。
黒いヴェールの奥からロズヴェータの奮戦を計算すると、どこを崩そうかと思案する。
「くくく……美しい。だが、だからこそ崩れた時の絶望が色を付けてくれるのだ」
眼前に極上の食事を用意され、最後の仕上げをしようと腕を振るう料理人のように“黒剣”ツヴァイは手ぐすね引いて待ち構えていた。
積み上げられた細工を、自ら崩すときの快感に似たそれを、もっと長く味わいたく思いながらツヴァイは焦れるような感覚を味わっていた。
引き結んでいたはずの口の端はだらしなく開かれ、目は薬物中毒患者のように血走り、吐き出す息は荒くなる。口の端から垂れる涎を、舌で舐めとって、彼は今か今かと均衡を崩す瞬間を狙っていた。
「拙い指揮官か、献身的な護衛か、それとも健気な兵士共か……より取り見取り。いずれにしても、いい声で啼いてくれそうだ」
その瞬間を想像するだけで恍惚とした表情を浮かべる暗黒騎士の表情は黒いヴェールの奥に隠れて、必死で防戦する三頭獣には伺い知れなかった。またもし、見えていたとしても彼らにはどうすることもできなかっただろう。
なにせ、迫る不死者を防ぎ止めるだけで彼らには手一杯であった。
人間に限らず、どこから湧いて出たのか、動物、魔物、そして異種族までもが彼らの戦列に加わっていた。後から戦列に加わっていた不死者達は、腐敗し動きは鈍くとも、力は強い。一度捕まってしまえば、彼らの中に引き込まれ、時間をかけて嬲られ殺される。
彼らに知能などなく、ゆえに慈悲などもちえない。彼らが持っている武器は己の体一つだ。骨の見えた腕で生者を捕まえ、欠けた歯で噛みつき、腐りかけた指先で目をえぐって首を絞めてくる。
いっそ飛来する空駆ける屍鬼に不死者ごと踏みつぶされた方が楽に死ねるのではないかとすら思える。
「ユーグ。隊商は逃げ切れたと思うか?」
ほぼ打ち尽くした矢筒を触り、ロズヴェータは自ら剣を取る。
「……おそらくは」
荒い息を吐きだす合間で副官ユーグは答えた。口に出した言葉とは裏腹に、彼には隊商が離脱できたとはどうしても思えなかった。これだけ周到な罠を張っている敵が、どうして隊商を逃がすだろうと。
しかし、素直にその言葉を口に出せない。
それをすれば、彼の主は決して退かないと知っているからだ。
【騎士校】での一件以来、ロズヴェータは逃げることを極端に嫌うようになってしまった。そのために自分を苛め抜き、日々覚悟を固めてきたといってもいい。体を限界まで苛め抜くことを、毎日続けるなどという苦行を自らに課すなどということが、どれだけあの一件がロズヴェータの精神を追い込んだのかわかろうというものだ。
それを思うだけでユーグは、悲しみと同時に怒りが沸く。
見ているしかできない自分自身という存在が、ひどく無力なものに思えてくる。
「……ッチ」
辺境伯家で何物でもなかった自分を拾い上げてくれた、共にあろうと言ってくれた恩人に対してロズヴェータに対して、何もしてやれることがない。なればこそせめて身を挺して主を守らねばならなかった。
何より優先すべきなのは、ロズヴェータの命。
そこをユーグは変えるつもりはない。いざとなれば、担いででも、卑怯と罵られようともガッチェ達を生贄に差し出したとして、ロズヴェータだけは生き残らせるつもりだ。
悲壮ともいえる彼の覚悟を窺い知ることができるのは、彼の赤い瞳だけだった。
「ガッチェ! 徐々に後退だ!」
「待ってました、若様! 上の警戒を頼みます!」
ぎりりと奥歯を噛み締めると恐怖を押し殺して前線で短槍を振るう。
「後方に退路を確保するぞ! グインベル、ナリッサ。突っ込め! 他はフォローだ!」
威勢の良い声とともに分隊長ガッチェに名前を呼ばれた二人が、盾を構えて後方の退路確保のために不死者の群れを蹴散らしていく。ガッチェの分隊の中でも槍術に優れた手練れを送り出し、ガッチェ自身は負担の増えた最後尾を守る。
「カミュー辺境伯家の意地を見せろ!」
ちょうど暗黒騎士とロズヴェータ及びユーグの間に立つようにした彼は、迫りくる不死者を退けながら暗黒騎士の遠距離攻撃を捌いて見せた。
空中で狙いを定めている空駆ける屍鬼のことを、彼はいったん頭から追い出した。はっきり言えば対処の仕様がない。自分のできることに集中した彼は、短槍の技術を遺憾なく発揮して正面からの圧力を受け止めて見せた。
時間限定の力技ではあるもの、二人の兵士の抜けた穴を補って余りある働きをしたのだから十分すぎるほどだ。また後方に突っ込んだガッチェ分隊の二人も、ガッチェが認めるだけの手練れであった。
細かな傷を負いながらも猛然と不死者の群れを退ける。
「よし、これなら!」
三頭獣の最後尾で殿を務める誰もが、一筋の光明が見えたその時、絶望は空から飛来した。
「──ぐるうぅぅうああがうああAaaaAaa!!」
「上空! 来るぞ! 散開!」
ロズヴェータの悲鳴にも似た命令に、誰もが舌打ちしそうになった。そして暗黒騎士“黒剣”ツヴァイはその時をこそ、狙っていた。
口元に咥える形で笛を当てると、人間の耳には聞こえない音域で不死者を操る音を出す。彼の騎士団でも一度の戦闘で一度しか使えないそれを使ったのは、罠の完成は近いということ。
毒液滴る長剣を右手に抜いて、最後尾から不死者の群れの中に身を投じ、一気に乱れた陣形めがけて突っ込んだ。
狙いは、頭のロズヴェータ。誰もが守ろうとするその一番柔らかい部分を頂くと決めたツヴァイは、黒い衣を翻して蛇のように蛇行しながら不死者の群れをするすると抜けていく。
「──シィ!」
左手で投擲。再び毒の塗られた短剣を投擲すると、ガッチェの注意をそらす。
「くっ!?」
咄嗟にガッチェが避け得たのは、ツヴァイがそのように意図したからだ。ここで時間をかけては、陣形を建て直される。最低限の労力で、まずは外郭の門番の注意をそらすと、歩く亡者の人間を複数嗾ける。
続いて護衛には、最初から歩く亡者の魔物を嗾ける。
冷徹なツヴァイの視線は、最初から最後まで眼前の護衛だけは、獲物から一切離れる様子を見せないことを観ていた。
だからこそ、そこに弱点があると読む。この手の奴は、時に自分の命すらも度外視して対象を守ろうとしてくる。それでは獲物に届かない。
だからこそ、不死者を操る笛でユーグに魔物を嗾けるのと同時に、ロズヴェータに魔物を差し向けたのだ。対処能力を飽和させて、隙を無理矢理作りだす。
崩れた陣形のため、一時的にロズヴェータの周りに味方がおらず、孤立する状態を作り出すとそこに戦力を集中する。彼等の注意は、空駆ける屍鬼が引いている。目の前で暴れる巨大な質量はただでさえ耳目を集めるが、大声で周囲を威嚇することさえ計算に入れたツヴァイの計算の勝利だった。
ロズヴェータまでの道が、彼の前に開かれる。
幾分か細身の長剣を手にしてユーグとともに魔物に対処するロズヴェータまで、あと10歩ほど。黒いヴェールの奥、不死者の笛を咥えたツヴァイは、にんまりと笑みをこぼす。
あとわずかで射程内、気づいた様子もない彼らに、止められる気配もないとくれば、その絶望を想像して彼の口元が嗜虐に笑みの形をとるのも仕方ない。
だからこそ、彼の後ろで聞こえた声は予想外だった。
「ふははは! 死ねい!」
場違いな笑い声。
わずかに振り返ったそこには、同じ騎士団に所属する毒使いの魔法使いの姿。そしてその手に握られた杖には既に発動寸前の詠唱の形跡。
その光景にツヴァイは、怒りに眼前が赤く染まった。ここまで積み上げてきた全ては今この時のための布石である。彼らにすれば、南部の覇権争いなど二の次、ましてや隣国の姫など、さらにどうでもよい。自らの作品を完成させ、その完成度を高めていくことこそが至上の命題なのだ。
なのに、その最後を汚された。
どうしようもない汚点として、出し抜かれた。事実としては、毒使いはツヴァイ程に作品の形成に熱心ではなく、俗物的な金とか名誉などというものに拘りを見せる輩であった。そのことで作品を作り上げる前に罵倒し重要な位置からは外したはずなのだ。
それを無視して今の位置にいるということは、ツヴァイの計画を無視して自らの都合を優先したということになる。
彼ら、赤曼荼羅花の蛇剣は、決して馴れ合いをする間柄ではない。時にいがみ合い、罵倒しながらでも作品に対してだけは妥協せず、協力する。
その関係性が破綻すれば、凄惨な殺し合いしかない。協力し合えない者は、排除するのに一切の容赦は必要なかった。例えそれが騎士団の古株であろうと、価値を共有できない者は彼らの間に不要どころか害悪でしかない。
ケジメを必ず取らせることを誓い、ツヴァイは獲物を見定める。
加えてさらに悪いことに、毒使いの魔法使いの叫びに、ロズヴェータが反応した。その拍子にツヴァイも視界に入ってしまっている。ここまでで奇襲というアドバンテージすらなくした。
驚愕に見開かれたロズヴェータの瞳、しかし瞬時に決意が宿るのを見てツヴァイは再び内心で舌打ちした。
──どこまでも無能な味方が祟る!
内心を押し殺し、だが行動は迅速さを失わない。感情と行動を切り離して構えた剣を振るえば、予想通りにそれに反応してくる獲物がいる。
ぶつかる剣と剣。
力の応酬が拮抗を作り出すのに、どちらもわずかに驚愕が混じる。ツヴァイはロズヴェータの力量の高さに、ロズヴェータはツヴァイの長剣に滴る水滴から漂う匂いに、毒を察知して。
一合切り結べば相手の強さというのは推し量れるものだ。その意味でツヴァイは油断をしていたといえよう。弓を主体に戦っていたはずのロズヴェータの剣での力量は、弓に決して劣るものではない。
「小僧、死は恐ろしいだろう?」
不敵に笑みを作り、おどろおどろしい声をだしてロズヴェータに話かけるツヴァイ。
だが、つばぜり合いにまで持ち込んだ後のツヴァイの本音は、最初に一太刀で決めてしまいたかったという後悔だった。
「だれが!」
怒りに吠えるロズヴェータの瞳に諦めの色はない。
諦めていない獲物は、必ず必死の抵抗をする。その抵抗が、ツヴァイの圧し潰せるものなら良いが──。
「──シィ!」
「──らァ!」
背後から同時に迫る殺気に、ツヴァイはロズヴェータから即座に距離を取り、直後彼のいた場所をユーグの長剣が切り裂き、ガッチェの槍が貫く。
元々剣術がそんなに得意な方ではないと自認しているツヴァイにとって、3体1になりえる状況は許容の限界を超えていた。再び口に不死者の笛を咥えると、忌々しいとばかりに吹き鳴らす。
「──ぐるうぅぅうああがうああAaaaAaa!!」
「なに!?」
ガッチェの驚愕の声を他所に、空駆ける屍鬼が明らかにガッチェとユーグを狙って攻撃を仕掛ける。朽ちかけた羽を振るって風を巻き起こし視界を遮り、裂けた口を開いて頭上から噛みついてくる。
統率者の動きに合わせて歩く亡者達の動きが変わる。ロズヴェータを中心に、彼らを逃がさないように攻撃してきていた。
「分隊長!?」
「隊長が!」
悲鳴を上げる三頭獣の兵士達。
「そのまま、包囲を抜けろ!」
ロズヴェータは自身を囲むアンデットの群れに対応しながら、指示を出す。アンデットの群れの中に孤立する形になったロズヴェータからの指示に、従うべきか迷う三頭獣の兵士達だったが、念を押すほどの余裕はロズヴェータにもなかった。
再びツヴァイが突進。アンデットの合間を縫うようにするりとロズヴェータの死角を狙う。だが、それを易々と許すようなユーグではない。
「ロズヴェータ様、暗殺者、右手より来ます!」
自身の正面に立ちふさがるアンデットの頭をたたき割りながら、ユーグはロズヴェータに声をかける。それに反応するロズヴェータと舌打ちするツヴァイ。
再びツヴァイの剣はロズヴェータに受け止められる。即座にツヴァイの背後を襲うガッチェの短槍が、ツヴァイに追撃を許さない。むしろ、ツヴァイが離れたと同時に追撃の手を放ったのはロズヴェータの方だった。
ロズヴェータが振るう長剣が、ツヴァイの足を切り裂き出血を強いる。
「ぬぉ!?」
だが直後驚愕の声を上げたガッチェが見たのは、空駆ける屍鬼が自ら率いるアンデットすら巻き込んで暴れまわる姿だった。
その拍子に彼らの包囲にも穴が開く。
「ユーグ、ガッチェ! 撤退だ!」
ロズヴェータの指し示す方向に誰もが一瞬目を向けた瞬間、今まで気配を殺していた毒使いの魔法使いが、音もなくロズヴェータの背後から彼を襲う。
「くっ!?」
背後から叩きつけられた衝撃で、思わず苦悶の声を上げるロズヴェータ。
「若様!?」
「ロズ!?」
同時に上がる二つの悲鳴を抑えさせたのは、他でもないロズヴェータ自身だった。
「問題ない。今は急ぐぞ!」
背後を気にしながらも、ロズヴェータはユーグとガッチェを連れて走り出す。
三頭獣は、バラバラになりながらも、死地を脱することに成功した。
副題:ロズヴェータちゃん、不意打ちで一発もらう。




