踏み込む林内
「ひっ……!?」
思わず誰かの喉が引き攣る音が聞こえた。あるいはそれは自分の喉だったのかもしれないと思いながら、なお彼女は怒りの炎を堪えることができなかった。
既に夜の帳が下りた中にあっても、森の中はまだ明るい。
昼間に光を蓄えていた光沃苔が淡い緑色の光を放っていたのだ。普段なら幻想的なその光景は、今は凄惨な殺戮現場を照らすだけの、照明の役割を果たしていた。
村の中央で見た光景は、ほんの悪夢の序章であったのだ。木々に吊るされた村人が、苦悶のまま息絶えていた。まるで毒蜘蛛の糸に囚われた蝶のように羽を喰い千切られた屍の群れ。
あるいは、標本にくぎを刺すように、串刺しにされている。股の間から通された杭の先端が口から抜け出ている。この世のものとは思えぬ表情から察するに、生きたまま串刺しにされたのだろう。
怒りの表情を露にして、“黒剣”ツヴァイを追撃していた分隊長ヴィヴィは、内心で舌打ちをする。
ここまで徹底して恐怖を煽ってくるとなると、部下の中にも恐怖に怯えるものが出るかもしれない。むろん口に出しては、そんなことは言わない。
「こんな、子供まで、手を出しやがってェ!」
ギリギリと奥歯を鳴らしながら、手にした棍棒を握る手に力を籠める。力任せに林立する木に棍棒を叩きつけると、怒りに任せて叩き折る。まるで獣が怒りに震えるように、周囲を睥睨する目が血走り、吐き出す息は荒い。
「姐さん、先行しすぎだって」
「あァん?」
分隊員からの言葉に鼻息荒く返事を返すが、内心ではそれも認識していた。だが、彼女をして幼い子供を殺すのは、禁忌に触れるものだった。
その時彼女の長年戦場で磨かれた耳が、飛来音を捉える。
勘に任せて棍棒を振り抜くと、その先に当たる軽い感触と地面に落ちる黒い短剣。
「よく防ぐな。どうだ、この光景は、芸術的だろう?」
嘲笑と共に口を開いた“黒剣”ツヴァイは、懐から取り出した短剣を構える。彼の手から放たれる短剣は暗闇に特化した暗殺用のものだ。光を反射しないように黒く表面を塗りたくられ、滴る水滴は毒液か何かだろう。ゆえに、その代表的な武器の名前をとって黒剣と呼ばれる。
それでいて決してヴィヴィの間合いに入ろうとはしない。慎重過ぎるほど慎重に、間合いを図っているのは口調とは裏腹に彼女の危険性と己の実力を弁えてのことだった。
長距離から中距離での投げナイフを主要な装備とするツヴァイにとって、近接で猛威を振るう兵士を相手にするのは荷が重い。恐らく一対一で闘技場のような形で対戦すれば、彼女に騎士たる己が負けることもあるかもしれない。
だが、それは無意味な仮定の話だ。現実に戦いは、その地形をいかに活用して優位な戦場を作り出し、搦め手を使って彼我の戦闘力の差を逆転させ、そうしてやっと相対する場所なのだ。だからこそ、その準備が整うまでは、“黒剣”ツヴァイは不用意に敵の間合いに入ったりはしない。
しかし、ならば彼はどうして彼女に話かけるのか、暗殺者として必要以上に殺す相手に接触をもったりはしないのが普通であるが、彼には同好の士を求めるという悪癖があった。
「どうだ、これは! この娘が奏でる苦悶の表情など絶品だろう? この世の全てに絶望し、最後には殺してくれと死を哀願するようになるまで随分と手間をかけたのだ。森に逃げた村人を狩るのは、私としても手間がかかるからな。魔獣に犯させながら目の前で弟と妹を──おっと」
「くそ野郎!」
怒りに任せた彼女の突進は、その速度においてツヴァイの予想を裏切った。しかしながら、十分以上に余裕をもって距離を測っていたツヴァイからすれば、取っていた距離の分だけ余裕がある。殴りかかってきた彼女の遠距離から、再び黒剣を投擲。
同時に身を翻し、さらに距離を取る。森の歩き方において、同じ暗殺騎士団の中にあっても“黒剣”ツヴァイの右に出る者はいない。
獣道とも呼べない目に見えない小さな道を難なく踏破していく。後ろから熊のように猛然と走るヴィヴィをチラリと振り返って、口元を三日月に歪めて笑う。
「俺を殺したいのか? ふははは、いいぞ。もっと追って来い。もっともっとだ。ふははは!」
翻る黒衣を追いながら、ヴィヴィの眼前は赤い怒りに支配されていた。
「ぬ!?」
戸惑いの声を出したのは、追いかけられていた“黒剣”ツヴァイ。唐突に森が切れたそこはまるで何かに抉られたかのように木々が消えて広場のようになっていた。
「──シッ!」
あふれ出る殺気をその棍棒に乗せて、一息に距離を詰めたヴィヴィが振り下ろす。
「ッチ」
舌打ちして僅かに身を捻りながら後退したツヴァイの黒衣を、ヴィヴィの棍棒が捉える。布を割く音が終わらぬうちに、追撃の打撃を見舞うヴィヴィ。だがそれを黙って受けるような“黒剣”ツヴァイではない。
黒衣を引き裂かれ、それに引っ張られて態勢を崩しながらも、至近距離で放たれる黒剣。
「──っ!」
甲高い音を立てて弾かれる二つの黒剣。まるで、獲物を鼻先にぶら下げられた餓狼のように執拗なヴィヴィの追撃。だがそれを遮ったのは、突如として乱入してきた魔獣の存在だった。
「ガルルゥウゥ!」
ヴィヴィの横合いから彼女に噛み付こうとした巨大な鼠が、“黒剣”ツヴァイとヴィヴィの間に入り込み、ツヴァイの頭を叩き割ることはできなかった。
叩き潰された魔獣の脳漿がツヴァイに降りかかる。噴き出す冷や汗は、しかしながら口元に浮かぶ笑みを消すまでにはいたらない。再び黒剣を投擲し、鼠魔獣の頭を叩き潰し終わった直後のヴィヴィの態勢を更に崩す。
ほとんど転がるようにして黒剣の投擲を避けたヴィヴィは、木立に隠れるようにして体を起こす。しかしながら、哄笑の声を上げた“黒剣”ツヴァイはその隙に遠ざかっていった。
「くそっ!」
彼女が悪態を吐き捨てるとほぼ同時、血走った目で見た揺れる茂みの向こうから、再び魔獣の鋭い歯が迫っていた。
「姐さん!」
そこへ駆けつけてきたのは、彼女の分隊員達。
「あのくそ野郎をぶっ殺す! 魔獣をなんとかするよ!」
力強くうなずく分隊員を引き連れ、彼女は魔獣の掃討を始めた。
◇◆◇
ロズヴェータがヴィヴィに追いついた時、彼女の周囲には小型の魔獣の死骸が積み重なっていた。数にして十程度だろうか。今まで駆け抜けてきた悪意のオブジェに比べれば、よほど良心的な光景だと感じた。
未だに十以上の魔獣がいることに驚きながら、ロズヴェータは弓に矢をつがえる。
「ヴィヴィ!」
咄嗟に出た口調が強い物になったのは、安堵と叱責の両方からだった。森の中とはいえ、この一面だけは木々の制約がない。視界を遮られることもなく狙いを定めたロズヴェータの矢が、ヴィヴィの分隊員と対峙していた魔獣の横腹に突き刺さる。
悲鳴を上げる魔獣に前衛が止めを刺すと、ロズヴェータの隣から元狩人のグレイスと帝国出身のナヴィータが続けて矢を放つ。
二人とも難なく魔獣に矢を命中させると、続いて切り込んだガッチェの分隊により、魔獣は全滅した。
「無事か!?」
「ああ、大丈夫だよ。隊長」
そう言って俯く巨躯の彼女は普段の陽気さが鳴りを潜めている。訝しげに見つめるロズヴェータを見下ろし、ヴィヴィは拗ねたように横を向く。
「ちょっと、熱くなり過ぎた。あのくそ野郎、子供にまで手を出しやがって……」
血濡れた棍棒を握る手に力を込めて、ヴィヴィは呻くように口を開く。
「……なんにせよ無事なら良かった。で、あれを作った犯人を見たんだな?」
「ああ、不気味なくそ野郎だ。人を殺すことをなんとも思っちゃいないうえに、弄んで殺しやがる」
収まらないヴィヴィの怒りを目の当たりにしながら、ロズヴェータは頷く。
「どちらにしろ、ここから離脱しないわけにはいかない」
「逃げるのか!?」
「必要ない戦いはしない。今回のこの村を襲った悲劇が、仮に俺達を狙ったものだとしても、必要ないと判断すれば逃げる」
「けど」
「ヴィヴィ。俺達は護衛の仕事でここにいる」
「……ああ、そうだ。わかったよ隊長」
ロズヴェータの言わんとしていることを察してヴィヴィが引き下がる。彼らはどこまで行っても報酬をもらって仕事を引き受けた兵士である。それが納得できないなら、抜けるしかないのだ。
「……ただ、ここを切り抜けるためには、どうしても奴らを撃退する必要があると俺は思う」
「え?」
今まで冷静に喋っていたロズヴェータの声がわずかに上ずる。熱のこもったその言葉には、許されざる邪悪を目の前にした義憤があった。
「結果として、離脱に際して奴らを倒しても、仕方ないと思う。少なくても俺は、奴らを許すつもりはない。ヴィヴィは?」
今まで俯いていたヴィヴィの愁眉が晴れる。力強く頷く彼女は、次いで獰猛に笑った。
「言われるまでもない。当然私もだ!」
副題:ロズヴェータちゃん、憤慨する。




