悪役令嬢的な婚約破棄
新連載になります。よろしくお願いします。しばらくは連日投稿いたします。
「ロズヴェータ・スネク・カミュー」
凜とした声に呼ばれ、声の主に視線を向ける。こちらを向いて立っているのは、二人。勝ち気な、少しきつめのつり目が印象的な麗人と特に目を引く新緑の外套を纏った貴公子。【学園】における大きなイベントの1つ、舞踏会の会場ですら、その衣を纏える者は限られている。
貴き血を継ぐ大貴族。
チラリと見えた家紋、獅子の紋に翼に盾を組み合わせるのは、泣く子も黙る大貴族、ルクレイン公爵一門。
少し垂れ目の優しげな目許。白磁の肌に、深海の青の瞳。高い鼻梁と自信に満ち溢れた口許は、同年代でも魅力的と映る。
もう一方は……獅子に翼盾に比すれば見劣りはやむを得ない。それでも、近隣ではよく見知った家紋。
青き血を継ぐ守り手。
大箆鹿の紋、弓を組み合わせた子爵家の一門。
この【学園】で一般的な子女が纏うには、上等な生地を使ったドレス姿、人よりも少し背の高いことを気にしていた彼女は、しかし隣の煌びやかな貴公子と並べば何ら気にならない。
「お前との婚約を破棄する」
言い切ったのは、紛れもなく昨日まで隣にいたはずの人。ざわりと周囲の貴族の子弟が、無言の声を上げる。
興味、侮蔑、同情、嘲笑。目は口ほどにモノを言う。悪感情と好奇の視線が突き刺さる。
「え?」
余りの突然の宣言に、とっさに言葉が出ない。こんな場違いな舞踏会の中で名前を呼ばれ注目を集めることですら、どこか夢の中のようにふわふわとしていたのだ。
だから、言われた俺は、間抜けな疑問符を一つ浮かべただけ。
婚約破棄の言葉の意味を咀嚼し理解するまで、時間を要した。
「私は真実の愛に目覚めたの。もう貴方とは、終わりよ。親の決めた婚約だったから、諦めていたけど」
そう言って腕を絡ませた貴公子を見つめる熱に浮かされたように潤んだ瞳。
彼女は、俺には一度としてみせたことの無い女の顔をしていた。
「そういうことだ。それじゃ、ロズヴェータ……ふふ」
「どうしたの?」
「ロズヴェータ、まるで女の子の名前だ。それが妙におかしくてね」
「……そう」
「あぁ、怒らないでくれたまえ。誓って他の子に──」
去り行く二人の背をただ、俺は見ていた。
昨日までの婚約者が、俺に最後通牒を突きつけ、そして返事も聞かずに去って行く。まるでできの悪い夢でしか無い。彼女はリオンセルジュの貴公子ノインに、柔らかな腕を絡ませ、豊かな胸をノインの腕に押し付けるようにして、俺を振り返る。
──お前などもう要らないのだと。
俺は、勝ち誇った元婚約者、麗しき子爵令嬢ヒルデガルド・オース・マルレーに婚約破棄を突きつけられていた。
◇◆◇
「ロズ……」
与えられた宿舎の部屋に帰り、ベッドの上に座り込む。それ以来黙っている俺に、従者兼乳兄弟のユーグが、言葉を無くしたように黙り込む。
「……すまん、少し一人にしてくれ」
口を開くのも億劫で、何とかそれだけを口に出す。俺の意思を汲んでくれたのか、ユーグが出て行き、俺は一人悶々と考え続けた。どうやってあの衆人環視の中から戻ってきたのかすら、記憶に無い。
悔しいと言う気持ちは勿論あるが、単純にそればかりではない。黒々とした感情のうねりが、腹の底で渦を巻いていた。愛していたのかと聞かれれば、無論愛していたと答えるだろう。
肌も重ねていない清らかな関係であったが、それは彼女を大切に思うが故だった。
俺なりに上手くやってきたつもりだったのだ。言葉遣いを直し、身なりを整え、彼女のパートナーとして相応しくあろうと心掛けてきた。
彼女が、野蛮な人は嫌いと言うから、文官への道に進もうと決心した。
貴族の嗜みである貴金属の鑑定、金銭の計算、交渉術と故郷ではしたことの無い不慣れな教養も、慣れない中とは言え、人並みに出来るようになったはずだった。
興味もない社交の場だろうと、彼女のためと思えば耐えられた。菓子の産地や花の選び方など、その最たるものだ。
金が掛かる度に実家と方々に頭を下げ、貴族に相応しい格式を備えるよう手配した。
俺なりに上手くやってきたつもりだったのだ。
なのに、そうではなかった。
あの目。
硬質に光る彼女の琥珀色の目が、俺に告げていた。お前はもう要らないのだ、と。
彼女をこの手に抱き締めたいと願う押し込めてきた欲望も、彼女を楽しませるために費やした時間も、何もかも、要らないと。無駄なものだと、あの目は言っていた。
涙など出るはずもない。
腹から胸にせり上がるのは、とぐろを巻いた熱く黒い感情だった。
「そうか、そうかよ……」
苛立ち紛れにベッドを叩きつけると、立ち上がって部屋を出る。足を進めるに従い、段々と苛立ちは出口を求める溶岩のようになって、腹の底からぐつぐつと沸き立っていた。
向かう先は鍛錬場。靴を脱ぐのももどかしく、砂の地面を蹴るようにして、走る。走る、走る、ただ走る。息が上がり、肺は熱を孕み、腕も足も痛みを訴える程になるが、それでも走るのをやめない。
止まりそうになる度、ヒルデの笑顔を思い出す。柔らかな掌、凜として涼やかな声、喉は涸れ、つばを飲み込むと同時に嘔吐く。
同時にせり上がってくる吐き気を、つばを吐いて誤魔化すと、前を睨む。
くそ、くそ、くそ!!
まだ走れると足を動かして、ひたすら走る。
まだ、まだ、まだっ……!
確かに親の決めた婚約だった。だが、小なりと雖も貴種として生まれたならば、受け入れて生きるのが、貴族だったのでないのか!
そこで、限界が来た。よろけた拍子に、足を絡ませ、地面に両手をつく。
くそ! くそ!
不甲斐ない自身の感情を、八つ当たり気味に砂地を叩く。
限界がなんだ! 動かない足を無理矢理動かす。肺が燃えるようだ? 燃やし尽くせば良い! くそ! くそ! 畜生が!
「ハァ、はっ……」
地面に倒れ砂地に身を横たえて、灼熱の太陽を睨む。
「よう、精が出るな!」
素晴らしく陽気に声をかけてきたのは、同期のリオリス。目だけを向ければ、いつも通りの陽気な笑顔で笑いかけてくる。清々しくさっぱりとした性格だが、致命的に空気が読めない。
黄金の髪は波打つようで、訓練用の鎧に打たれた紋は、獅子の紋に野薔薇。
歴とした王族の一人に相応しく、身体は大きく身長は高い。白磁の肌に、瞳の色は蒼穹の青。柔らかな暖かさを称えた瞳で倒れた俺を見下ろす。
王族の筈なのに、人並みの顔立ちは親近感を覚える。本人曰く、先代の王弟の第四夫人の息子なんて、こんなもん、だそうだ。
「エリシュと、ニャーニィも誘ったけど、なんか駄目らしくてよ。それどころか俺が訓練場にお前がいるから、一緒に行こうって言ったら、今はやめとけって言うんだぜ?」
普通は……いや、普通じゃなくてもエリシュとニャーニィが正しい。なぜ、好き好んで婚約者を寝取った男の同類と仲良く出来るというのか。
しかも、今日の今だぞ? 昨日の今日とかじゃないんだよ?
「あっ、エリシュと、ニャーニィだ」
リオリスの視線の先に、俺もまた視線を向ければ同期の少女二人組が走ってきたのが目に入る。見るからに微妙な顔で。
まるで、夫婦喧嘩を目撃した犬のような顔だった。
「なんだよ、やっぱりお前らも鍛れ──グふぉぁ!?」
瞬殺だった。
間合いに入ると同時に、流れるように繰り出された正拳突きが、リオリスの鳩尾に突き刺さる。
「──ふん!」
“同期で一番やべー奴”の称号は伊達ではない。赤い髪の狂犬、女の皮を被った野蛮人……数々の異名を持つ“同期でやべー奴”エリシュ・ウォル・ルフラージュは、間髪入れずに王族の襟首を締め上げて、俺の方を見ようともせずドスの効いた声で一言だけ言い捨てた。
「邪魔したわね。じゃ!」
お前、この国、封建社会だけど、大丈夫か? 一瞬にして国を敵に回してない? と思わず問いかけてしまいたくなるような鮮やかさで、獲物を仕留めた狂犬は踵を返す。
「行くわよ!」
「え、だってまだ鍛錬してないぞ?」
駄目な息子を哀れむような母親の視線で、復活したリオリスを見るエリシュ。エリシュは構わず、リオリスの襟首を引っ張っていく。
リオリス。お前、そういうところだぞ。
「リオリス。お前、そう言うところだぞ」
奇しくも重なる俺の内心と狂犬の言動。
「えぇー!? なにが?!」
本気で首をかしげるポンコツ王族にため息を吐きながら、強引に足を進めていく。
「ロズ! またなぁ!」
とことん空気を読めないリオリス。
「あ、あの、ごめんね。じゃ!」
無意識に心の傷に塩を塗りつける魔女猫ニャーニィ。
あのさ、言い方……。
「あのさ、言い方……」
再び重なる俺の内心と狂犬の言動。
「へ?」
目を瞬かせるニャーニィも、首を傾げて、帰って行く。一体何しに来たんだお前ら……。
◆◇◆
あの後息を整えた俺は、再び身体を苛める作業に戻った。
俺は、心の痛みの耐え方を知っている。心は身体についてくる。だから、心がどうしようもなくなったら、死ぬほど身体を動かせば、少しはマシになることを理解している。
頭を働かせる余裕がなくなるほど、身体を追い込むのだ。
そうして、立っているのが不思議な程に疲労した俺は、井戸の水を頭から被り部屋に戻る。
辺りは既に暗く、寝る時間であった。
「お疲れさまでした」
そう言って出迎えてくれたのは、いつもの通り乳兄弟にして、従者のユーグだった。
「ベッドの用意は出来ております」
「あぁ……すまない。ありがとう。突然だが明日、転科の処置を頼んで良いか?」
「それは……」
今まで騎士校で積み上げてきたものの否定。
文官としての道を閉ざす行為だ。絶句するユーグを視界から追い出し、ベッドに横になる。
騎士校における文官の道は、険しく、とても片手間で出来るようには出来ていない。そして、そうまでして、最終的に得られるのは、ルクレイン公爵家による妨害で生活すらままならない未来だ。
「……よろしいのでしょうか?」
「ああ、頼む」
噛み締めた奥歯の間から絞り出すように声が出る。
「俺は間違っていた。父上の言うとおりだったな」
「……」
「故郷を出て、王都の空気を吸い込み、違う何かになれるのではないかと浮かれていた」
倒れ込むように、藁の上にシーツをかけた粗末なベッドの上に倒れ込み、そのまま眠りについた。
身体をどれだけ虐めても、最後まで俺を振り返ったヒルデガルドの顔が、頭の片隅にこびり付いて離れることはなかった。
騎士は、舐められたら、お終いだ。
夢の中で血濡れた幼い俺が言ってる。
復讐を──。
自身を支える矜持が言っていた。父の領地で泣き叫ぶ罪人の首を切ったとき、ユーグとともに、骨の髄まで教えられたのではないか。
誰にも舐められてはいけないのだ。畏怖されねばならない。
復讐を!
やせ細ったあの父娘の首を落とした時に誓った。
泣き叫ぶ俺に、表情一つ変えずに領主が言ったのだ。それが本質。それが、真理だ。
罪には罰を。功績には報奨を。
「罪人を殺したのではない。正義を執行したのだ。それに見合う領地をくれてやる。これでお前も将来は騎士だ」
考えることを止めたはずの頭の中に浮かぶのは、ただ1つのこと。
復讐を!
狼の顔をして、復讐を叫ぶ。
貴き血を継ぐ大貴族がなんだ。金持ちがどうした。クソ喰らえ!
舐められるぐらいなら、殺せ!
たかが、婚約破棄をされたぐらい……。
──いや、違う。
汚されたのは、騎士の誇り。
一人の男の尊厳だ。
心に染み込んだこの敗北感を拭わぬ限り、もう二度と、前を向いて歩けない。
もう二度と、一人の男として前を向くことなど出来はしない。
たとえ、どれ程掛かっても、罰を与えねばならない。変えねばならない。そうあるだけの力が必要なのだ。
そうでなければ、何のために……ッ!!
ロズヴェータ:見習い騎士
副題:ロズヴェータちゃん婚約破棄されて落ち込む。