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『…きさん』
眠りの波の向こうから、俺を呼ぶ声が響いている。あたりの闇は、どこか甘い灰色がかっていて、幾重もの襞の間に声の主を隠してしまっている。
俺は、そこではないどこかにいて、その光景を見つめている。
『…きさん……どこ……?』
声は子どもっぽい素直な調子で、繰り返し俺を捜し求めた。声の合間に走る軽い足音、襞に吸収されて、ほんの一瞬しか聞こえないが、俺の耳には猫の走る音に聞こえた。
『滝さん……』
声は不安げに俺を呼んだ。呼ばれても、夢の中の俺は出て行こうとはしない。ただ、走り回っている少年の姿をじっと目で追っているだけだ。
『嘘だよね……滝さんが……死んでるはずないよね……』
少年は必死に周囲を見回しながら呟いた。顔の上半分には薄青に煙った水晶の仮面をつけていて、表情がよく見えない。
『そんな……ことないよね……ぼくのせいで……滝さんが死ぬなんて……こと……ないよね……?』
少年の唇が震えて、そうだとも、と答えてくれる主を捜し求めた。だが周囲は大劇場の舞台のカーテンのように重々しい光沢のある帳が下ろされ、恐る恐る差し出す少年の手を拒んでいる。
『滝さん……滝さん!』
ダーン!!
『!!』
いきなり響いた銃声に少年ははっと振り返った。帳がその部分だけ左右に引き上げられる。転がっている人間、肩から滲む紅の血潮…。
『た…!』
『滝さん!!』
呼びかけようとした少年の声を遮って、もう1つの声が響いた。帳の陰から走り出てくる少年、その顔には仮面をつけていない。呆然と立ち竦む仮面の少年の前で、後から来た少年、周一郎は、転がった人間の側に膝をつき、肩の紅に指を触れ、見る見る涙を溜めながら首を振った。
『いや…いやだーっ!!』
涙が煌めいて零れる。転がった人間にすがって泣き出す周一郎をじっと見つめていた少年の顔から水晶の仮面がずり落ちる。唇を少し開き、眉をひそめ、今にも泣き出しそうな表情……だが、その顔はすがりついている少年と同じ、周一郎だ。スローモーションで落ちた仮面が床と思われるあたりに当たって砕け散る。
『たき…』
構わず一、二歩進んで手を差し伸べた少年は、自分の指先もまたしとどに血に濡れているのに気づいて立ち止まった。手を引き寄せて見つめ、ぼんやりと、なおも転がっている人間にしがみついて肩を震わせているもう一人の周一郎に目を遣る。
突然、立ち竦んだ周一郎の唇が淡くほころんだ。ぞくりとするほど異様なものを秘めた微笑で、見ている俺の背中も寒くする。
立っている周一郎は両手をのろのろと降ろした。少し顔を背け、体を伏せて泣き続けるもう1人の自分を見ないようにする。状況にそぐわない明るい笑みは顔に張り付いたまま、まるで割れ砕けた水晶の仮面の代わりに、より精巧なマスクで顔全体を覆ってしまったようだ。
ポトリと指先から雫が滴って落ち、闇の中に鮮紅色の染みを作る。ぷつ。何かが切れたような音がして、周一郎の表情がより虚ろになったかと思うと、胸のあたりが横一文字に切り裂かれた。見る間に溢れた紅が彼の体を伝い降り始める。
(!)
さすがにそれまで傍観者でいた俺もぎょっとして、慌てて『舞台』へ駆け上がろうとしたが、実体がどこにあるやら身動き取れない。
いつの間にか、もう1人の周一郎の姿も転がっていた人間も消え、『舞台』の上には始めの周一郎1人が取り残されていた。笑みはそのまま、ポーズも変わらず、ただ足元に流した血だけが鮮やかにじわじわと広がっていく。赤と黒の強烈なトーンの中、まるで殺されるのを待っているような周一郎の姿は、ますます現実味(もっとも夢の中でも現実味と言うのかどうか知らないが)を失い、存在を消していきつつあった。
これ以上は我慢できない、こうなったら実体があろうとなかろうと、『ゆーれい』だろうと『ぼーれい』だろうと、絶対『舞台』の上に駆け上がり、あいつの頬を引っ叩いて、このバカやろうと怒鳴りつけてやろう。
決意を固めた俺の目に、前触れもなくいきなりつうっと周一郎の頬を光るものが伝うのが飛び込んだ。泣き顔ではない、端正すぎるほどの微笑、異様に明るい笑みを浮かべて彫像のように立っているのに、深さを失った瞳から唯一生きている証のように涙が零れ落ちていく。
(周一郎…?)
思わず立ち止まった俺の目が、再びあるものを捉えた。
帳の向こうにぼんやりと光が当たり、闇を割って1本の手が突き出される。続いてふくよかな胸、少し捻った腰、妙に優しい微笑を浮かべた顔が。
(陽子像!)
ぞっとする俺の目の前で、陽子像は生あるもののように、血濡れた剣を振り上げた。その顔が鈴音に変わる。振り降ろされた剣は真っ直ぐに周一郎の背中へと……。
(よせーっ!!)




